1991年のソビエト連邦崩壊以降、この地球上では資本主義という全体の15%のみが富む経済システムが、唯一世界経済を牽引してきました。市場原理で自走するこの仕組みは、世界経済のグローバル化の中で格差を大きく拡大し、現在では世界のトップの富裕層1%で地球上の富の過半数を独占する状態になりました。地球環境に取り返しのつかない傷痕を残した多くの先進各国はこれから高齢化を迎え「人口オーナス期」に入ります。経済成長と人口は下降曲線を辿り、どこかで持続可能な均衡点を見つけるまでの一定期間、先進各国はこの有限な地球上で〝成長戦略〟が描けなくなるのです。
そして、その〝成長戦略〟に代わる〝持続可能戦略〟のグランドデザインを示したのが、はからずも今回のCovid-19新型コロナのパンデミックでした。疫病の襲来により世界中の多くの人々が、それぞれの状況の中で何かに気づいたようです。立場をわきまえず余興に興じ流行り病を患った医療関係者や芸能人、報道関係者と賭博に興じ職を辞した検察高官、政府配布のマスクを子供たちに強制するという教育委員会の通達を、忠実に保護者に要請し非難を浴びた中学校などは、残念ながらとりわけ学びが浅かったと言わざるを得ません。しかし、世界にはパンデミック後の世界像をしっかりと見通せる識者が大勢います。
イスラエルの歴史学者で『サピエンス全史〜文明の構造と人類の幸福』の著者ユーヴァル・ノア・ハラリ氏は、これまで世界の政治や経済、人類の歴史を研究してきた知見から『人々は危機さえ去ればすぐにいつもどおりの生活に戻れると思いがちだが、それは幻想に過ぎない』『平時には絶対崩壊しない民主主義は、決まって非常事態に崩壊する。しかし非常事態時にこそ民衆を救うのが民主主義なのである』と、パンデミック時に先を見通す目を持つ重要性と非常事態下における民主主義の危機を説いています。
イギリスのシンクタンクによる、世界167カ国の「民主主義度ランキング」では、1位の北欧ノルウェーに遥か及ばず、日本は23位とかなり低位に位置しています。それもそのはず、国家としての日本の歴史は古代中国に学んだ律令制度にはじまります。「法律」と「命令」で民を束ねて国家の体を整えた日本の政治は、いつしか本家中国を凌ぐ律令制度をしっかりと定着させました。その封建的で中央集権的な統治体制は、島国で他国から侵略されず単一民族を維持できた日本人を、その後千年以上にわたって支配し続けました。
そのため日本における封建支配は長く続き、民衆は「自由」「権利」「社会」といった単語さえ持たない日本語を話しながら、いつしか多くの従順な日本人が生まれたのでした。そんな日本人がある日、千年の夢から突如目覚めて300年の鎖国の鎖から縄抜けし、どうやって明治の近代化を果たせたと言うのでしょう。自由を知らない多くの民と共に、民主的な語彙もない日本語を喋る純血日本人志士たちが、ちょんまげ姿で人斬り包丁二本ぶら下げ海を渡り、欧米列強と渡り合い近代民主化を果たしたなどと教科書に当たり障りなく簡潔に記載された近代史を鵜呑みにしている日本人の何と多いことでしょう。
歴史作家の加治将一氏や歴史評論家の原田伊織氏らの研究によれば、日本の近代化には多くの日本人が心踊らせた司馬遼太郎の小説(いわゆる〝司馬史観〟)や、NHK大河ドラマで感動的に描かれる英雄伝説とは異なる、もっと生臭く現実的な歴史が見えてきます。犯罪事件の調査の鉄則に「Follow the Money(金の流れを追え)」と言う言葉がありますが、これは歴史を追う上でも当てはまります。それは美しく祀りあげられた維新の志士たちを動かした資金源がどこにあったかを知ること。歴史の幻想的なベールの向こうには、アヘン戦争にまで遡る帝国の資金力と植民地支配の歴史、GHQの宣撫工作、政財界の利権闘争が見え隠れします。そこには自由な発想と個人の責任で大胆に行動した西洋人の姿と「御布令と御沙汰」がないと動けない従順な日本人の姿がありました。
東日本大震災の時に、まるでどこかの隣国のマスゲームのように整然と行動し、その様子に世界が驚いたことをマスコミは誇らしげに喧伝しましたが、世界の真の民主主義を体現する国の人たちが本当に驚いたことは、つまるところ古代からの律令制度に馴染み、江戸時代の儒教思想で補強され、明治維新〜太平洋戦争の軍国主義の中に特攻した、かつての歴史の日本人像とさほど変わらない、よく飼い慣らされたその従順な行動だったのです。多くの日本人の心に根づいた「礼は国の幹なり」という治世学上の社会秩序の維持、長幼の序にうるさく長老が絶対的権威を持つ保守的な家族主義では、目上の人が居る前では許しがなければ下の者は物を言うことさえ許されない思想。親への仕え方や祖先の祭祀、血族の序列や尊卑貴賤の身分制度の秩序を守るために、自他の差をことさら大袈裟な儀礼や服装などで装飾化し、すべての行動規範は先達を重んじる保守的な先例主義を旨とし、体制を維持するためだけの「形式」が何より重んじられました。
古代中国発祥のこの形式主義から生まれた歴史あるハンコ文化を維持するべく、日本の行政とビジネス界では21世紀の今もなお80年代の最新IT機器であるFAXと書類による申請が仇となり、諸外国並みに迅速に災害給付金が配布できないことが世界から同情されました。儒学の教えではどんな革新的で独創的な合理的施策であっても、位をわきまえず権威を揺るがしかねない言動は厳に慎まされ封じ込められてきたのです。ただトップの鶴の一声だけが民を動かす天子の声とされました。合理主義とは相容れないこの儒教思想に依拠する、保守的権威主義による社会秩序の維持政策が、非民主主義政策を取る中国大陸と半島の歴史に、長い停滞と近代化の遅れをもたらしたことは紛れもない事実です。
かつて、儒教思想に基づく律令国家を支えるための、皇帝を取り巻く官僚登用選抜のための試験が「科挙制度(試験科目による選挙)」でした。そこに求められたのは暗記力。時の権力者はその配下に様々な分野の知識を蓄えた秀才を置きました。それはあたかもYahoo!やGoogleの〝検索エンジン〟で必要な知識をいつでも素早く取り出すことができる仕組みのようでした。コンピュータのなかった時代には、複数名の話を同時に聞き分けたという伝説を持つほどの記憶力の持ち主聖徳太子や、古代ケルトのドルイド神官(事実上の部族長)も、何百何千もの儀式や習慣法や歴史を暗記し即座に答えられる〝記憶媒体〟としての語り部が、選抜され重用されたのでした。
時代はくだり、民主主義と自由な思想が成熟した多くの西欧諸国では、合理的で個性的で多様な発展が見られるようになりました。私が過ごした英国の中学校には、全員同じ体操着を着て長距離走で忍耐力と根性を鍛えるような体育の授業はなく(そもそも飽食の時代と言われる現在においてなお戦後の栄養失調対策のような「体育」という呼称も古いが)、弟の小学校にも〝回れ右!〟の行進や〝一糸乱れぬ〟ソーラン節で家族を感動させる運動会もありませんでした。当時モントリオール五輪の際にも、国を挙げての話題にはなりませんでしたし、マラソン競技を沿道で手旗で応援する人も見かけませんでした。多国籍の人と五輪の話題になると、東洋人とは盛り上がりますが、自由主義圏の西洋人の多くはメダルの数で国威発揚しません。
体育以外の科目でも日本の学校では、入口は年号や公式の「暗記」から入り、出口ではたった一つの答えに「導かれ」ますが、英国の学校では一つの答えを導くための多様な数式を考えさせるため、正解はいくつもありました。求められる頭の使い方がまったく逆なのです。ちなみに日本のTVのクイズ番組は、受験予備校のように単に記憶の多寡を競うものばかりですが、海外の〝Game Show〟はネットで調べればすぐ分かるような答えばかりの単調なものでなく、もっと思考の柔軟性が求められます。
暗記教育と体育会系スポ根精神論で叩き上げ、コンピュータ化した同一規格の記憶媒体から必要な知識を引き出し、時代の風を読みながら総合的に判断し、結局、最終的に集団の進む方向を決めたのは、皇帝や天皇などたった一人の支配者でした。科挙制度などで推挙された人間コンピュータという名の優秀な高級官僚たちは、膨大な知識をただひたすら脳に詰め込むうちに、いつしか思考停止に陥り判断力や未来の想像力を奪われていました。AIや人口知能の技術革新が進むと、いずれはコンピュータが人間の知能を凌駕すると危ぶむ向きもありますが、人間の知能を科挙制度で求められたような、単なる知識の集約に限定するのであれば、確かに人類は早晩AIに支配されることでしょう。
中近東以西のおもにヨーロッパには、厳しい自然環境の変化による民族大移動や、古代から近世まで外敵からの侵略、戦争、抗争の歴史が絶えませんでした。そんな中でユダヤ民族のように虐げられた民衆が立ち上がり、自ら血みどろの革命で解放と自由と平等を勝取ってきた歴史があります。単一民族で飼い慣らされた従順なコミュニティなどは、あっという間に略奪され惨劇の餌食になって消えゆく運命だったのです。個人の自由主義と公平性を尊重するからこそ、他者への寛容も生まれ愛情深くなれるのです。統制された支配を嫌う西欧人気質が醸成された背景には、何世紀にも及ぶこのような自由への壮絶な歴史があったのです。
西欧人がマスクを嫌うのは、個人のパーソナリティの象徴である顔を隠せと言われることが、そのまま個人の〝権利の制限〟につながり〝支配と屈辱〟を連想させるからだそうです。かたや国民の8割以上が苗字も持たず、豪族や庄屋の村社会に奉公し続けてきた島国の孤立民族として、同じランドセルと制服に身をやつしながら儒学を学び、一億総横並びに暮らしてきた日本人が望んだのは他者との同質化であり、怖れたものが村八分でした。異質を排除する極端な同調圧力はいじめの温床となり、ネット炎上や集団リンチを助長します。ナチスのゲシュタポ、旧ソ連のKGBや人民武装警察の例をひくまでもなく、支配層への密告で成り立つ同調圧力監視社会や、チベットやウイグル自治区で行われている同質化洗脳教育などは、民主主義とは最も対極に位置する民衆コントロールシステムにほかなりません。
これまでも人類の歴史は疫病とともにあり、ペストやイタリア風邪のような世界的な流行り病の大流行は、世界史の大きな転換点となってきました。そんな大きなパラダイムシフトの局面では人間は誰しも間違えるものです。だからこそお互いの弱さはお互いに補い助け合うべき時に、思慮浅く軽率な人の過ちを相互監視し全員で集団リンチしている場合などではないのです。罪は法に基づいて厳に罰しながら、人への愛情は失わない。訴訟社会に住むアメリカ人は、訴訟中の隣人とも笑顔で挨拶を交わし、週末のホームパーティに招いたりします。西洋の学者は学界で喧々諤々議論を交わしても、笑顔でフェアに協力し合いながら互いに一つの真理の解明を続けますが、日本では異端は権威により研究の場を追われます。ノーベル賞を受賞する日本人科学者が、ほぼ全員が海外の大学で研究していたという事実が、日本式横並び暗記教育の限界や、国内の学界の閉鎖性をよく物語っています。
集団としての秩序というものは、封建中世の魔女狩りのように、陰湿な相互監視と密告で上から統制されて生み出すものではないのです。一人ひとりが尊厳を持って自立し、個人の責任で自由に振舞いながら、罪は憎んでも人を憎まず、人種や宗教や血統や家柄、思想や意見やイデオロギーの多様性など〝人間としての違い〟を、愛情豊かに博愛の精神で受容することでこそ維持することができるのです。非常事態においては真の民主主義国家の民衆しか生き残れないのです。日本は今こそ戦後の教育制度を改革し、子どもたちの自由な発想と寛容の精神を育み、真の民主主義国家へと脱皮する時です。
本来人間には詰め込み式暗記教育で求められる以上の能力が発揮できるはずなのです。たとえば天才の一瞬の閃きにより科学が大きく飛躍展開したり、人々の咄嗟の行動が絶対絶命の危機から尊い命を救ってきた例は枚挙にいとまがありません。それは詰め込まれた緻密な記憶の深い計算から導き出されたものでない、瞬間的な閃きや人間の心の奥底から湧きあがる、愛に根ざした本質からくるものです。端末コンピュータで処理される単なるデータの深層学習(Deep Learning)から生まれるような知能とは異質の、言わばホストサーバーから直接瞬時にダウンロードされる「直観的な閃き (Flash of Insight)」なのです。
人は発芽期間や妊娠期間という育成概念を持っているため、変容や成長のためにはそれなりに時間がかかると思い込んでいます。しかし、直観的な閃きや次元を超えた進化の飛躍は、単調な反復学習や精神論、根性で鍛える体育会系の反復訓練などとは違う、別次元の宇宙空間から一瞬のうちにもたらされる成長なのです(Quantum Jump)。我々人類はこれまでもそうやって進化してきました。ではこの進化の飛躍は一体どうやって獲得できるものなのでしょう?
その生涯に渡って植物の育成の研究に偉大な功績を残したアメリカの植物学者ルーサー・バーバンクは『植物の生育の秘訣は、科学的知識を別にすれば、それは愛なのです。私は人間は一つの複雑な植物であると考えています』と語り『子供たちには愛と、戸外の自然な恵みと、簡素で合理的な生活の原理を教えれば、彼らは真っ直ぐに成長し、すぐにでも健全で幸福な世界を創り出すことができるだろう。我々は自然に還らなければならないのです』と唱え、単なる知能の発達だけを目的とせず、自然とのふれあいを通じて、肉体と心(意志)と魂(感受性)を育成する重要性を説きました。
21世紀に入り西洋医学の世界では、科学的根拠に基づいたマインドフルネスによる治療法が注目されています。また、世界の産業界をリードするGAFAMの一角グーグル社では、既にこのマインドフルネスを社員の能力開発に導入しています。先のイスラエルの歴史学者ユーヴァル・ノア・ハラリ氏も、その生活に毎日2時間の瞑想を取り入れている一人です。保守的で権威主義的な社会秩序を重んじる日本では、いまだに20世紀の科学者が非科学的と放棄した、この古くて新しい手法を単なる迷信として表に出さない頑迷な風潮があります。しかし、本来古代インドなど東洋で発達したメディテーションの手法とは、単なる支配層による民衆洗脳のための権威主義的な治世学を超えた、博愛精神溢れるものであり、ユダヤ教やイスラム教、ヒンドゥー教やキリスト教、仏教など世界の宗教家たちも等しく説いた、本来日本人にも馴染みの深い、壮大な宇宙に偏在する愛と赦しの教えなのです。
フランスの経済学者のジャック・アタリ氏は『パンデミックという深刻な危機に直面した今こそ〝他者のために生きる〟という人間の本質に立ち返らねばならない。協力や共働は競争よりも価値があり、人類は一つであることを理解すべきだ』と人間回帰の利他主義(Altruism)への転換こそが、このパンデミックを乗り越えるための人類のサバイバル戦略であると説いています。
ユーヴァル・ノア・ハラリ氏は『新型コロナの嵐はやがて過ぎ去り人類は生き残る。そして現在人類は、これから進むべきこれまでとは異なる2つの世界の分水嶺に立たされている』と言います。選ぶべき道の一つは〝自国優先の孤立主義や独裁、科学を無視した陰謀論に陥り、経済危機と政治混乱の中で迎えるカタストロフィの世界〟であり、もう一つは〝世界的連帯と民主主義的な態度を表明し、科学的な情報に基づいた冷静な判断で、ウィルスだけでなく人間の内に潜む、憎悪・幻想・妄想を克服し、真実を信頼しながら強く繋がった一つの種として団結して生きる世界〟なのです。
誰にも正解が分からないパンデミックの中にあって、民衆は支配層や権力者の頭の中ばかり忖度することで、独裁者にとって都合の良い無表情なロボット化するのではなく、多くの人々が幸せを感じられる、愛情表現豊かな本来の人間として生きるために、〝礼から愛〟へと転換を図る時のようです。自然から学び、宇宙に遍く愛をとり込みながら、目先の利益の独占ではなく利他の精神を備えた一つの種として、これからの新しい生活様式を生きることで初めて人類は、世界中の誰一人も取り残すことなく、この有限な地球という環境の中で、持続可能な発展を成し遂げることができるのだと思います。