下記が”苦”の原因だと思うと繰り返し書いている。
1・モノサシ(常識、思い込み・勘違い含む)
2・比較(前よりもっと他人よりもっと)
3・思い通りにしたい(欲、こうなりたい、こうあってほしい)
4・自己価値観(評価されたい、自分はこれだけのことをした)
4の「評価されたい、認められたい」について。
完全になりたたない論理で
こんなに頑張っているのにとの気持ちとともに
認められたい!
認められない・・・
と、人間は生きているのではないかと思った。
人に認められない、の怒り・悲しみについて:
●評価してくれる人に同じ能力・経験がないと
その価値の素晴らしさを認められない。
自分と同じ様な能力・経験がある人自体少ないことが多いので
必然的に褒められない、と思っていた方が良い。
小さい頃褒められたのは、
同じような能力・経験がある人が多かったから
(ほぼ周りの大人は子供を理解する能力がある為)。
また、学校の点数のように
何かしたら結果がはっきりでていたから。
評価する能力・経験がない人に
褒められないと不満に思ったり、
褒められたいと努力したり、
批判さえされて怒ったり、
は、ゆえに、あまり適切な反応でない。
何かして褒められたら、
たまたまそういう人に当たってラッキー
だっただけ。
●相手が自分の実力を理解できても
好き嫌い、
関係性、
評価者の器や精神性の低さ等
によって評価されない場合もある。
また、
自分の未熟さゆえが原因のこともある。
よって、さらに評価される
機会は減ると思っているぐらいでちょうどよい。
●自分自身も勘違いをしている。
自分のしたことは1-100まで認識しているので
100倍ぐらい高い自己評価をしている。
努力点やひいき点がだいぶ加算されている。
他人は現実的に評価するので
そのギャップもあり
適切に認めれていない
と勘違いすることがある。
100倍自分のしたことを重要に思っているので
認められない・褒められない現実との
ギャップがさらに生まれがちである。
●何かしたら(努力、祈る、懇願、怒る、約束等)、
8-9割評価され認められたり、
自分の立場を理解される(べき)、
と人は思いがちである。
しかし、
それは学生時代の点数等の思い込みの常識で、
一切そんなことはない。
基本、そうならないぐらいに思うべきであるし、
たまたま1-2割の確率で
認められることがあるだけと思っておく。
このように
認められよう・理解されようとすること自体
めったに叶わない望みを抱き、
叶わず不満をもつことになると思う。
また他人にも
自分は不足した理解で接している可能性が高く、
自分の正しさだけを主張することも
他人は正しくないと批判することも
違うのではないかと思った。
また褒められたとしても
決して感情を揺らすことなく
たまたま理解する人に当たったと思うのみに
とらえ平常心で生きる。
ほんとうにたまたま
理解できる人に接しただけであるのだから。
さらに他人に批判されても
改善点があれば改善すればよいが、
落ち込んだり
怒ったり
する必要はない。
というより、
今日かいたようなことが現実であるので、
落ち込んだり怒ったりしないよう
自ら努める。
ましてや
不快な記憶はリピートしやすく
何度も思い出し頭を占領させてしまいがちだが、
・自分を評価する実力・能力・経験がない
・自分のモノサシだけを主張する傾向がある
・言葉選びにも愛がない
などならば
逆に、そのような人に執着していてはいけないし、
他の力を注ぐ努力を己がすることが大事なことだ。
しかし、学びになることが1つでもあるはずなので
よい機会として改善・成長にととえればよい
先日のブログにも書いたが、
評価されようが
お礼されようが
何もなかろうが
あっても1,000に1つぐらい
よいことが返ってくると思い
思いのほか褒められても
浮かれて
その快楽を求め続けたり溺れることなく
また批判されても
理解されない人からの批判かもしれないし
そうでないならよい学びとし改善にいかし
すべきことを
たんたんと行い
平安な心を保ち
さらに成長に努め
他人へは謙虚に
己が理解が不足しているかもという視点を持ち
幸せを願い
できる貢献はし
評価を手放し
自分を手放し
生きていくことが大事ではないかなと思った。
~ありがとう~
万物万人のさらなる幸せを願います。