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両親の老いについて 

また私が面した老いについて綴っています。

 

 

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老いを生きる 目次

 

 

 

 

先日 義父が亡くなりました。

 

94歳でした。

 

 

 

大正14年生まれの義父は19歳で戦地に赴き

 

終戦後 2年間シベリアに抑留されていました。

 

 

義父がその時のことを自ら口にすることはなく

 

話は義母と夫から聴きました。

 

 

義父は美術や芸術が大好きで

 

本棚には百科事典のような写真集がたくさん並んでいたっけ。

 

 

そんな義父なので

 

私たちが旅行に行った時のお土産は

 

その土地の民芸品や工芸品にして。

 

 

どこで買ったかは忘れちゃったけれど

 

ちょっと変わったお面のお土産は

 

「これはいい!」

 

と満面の笑みで喜んでくれて嬉しかったなぁ。

 

 

 

義父は自分でも作品を創っていて

 

毎年年賀状は自ら彫った版画作品。

 

 

「一日一絵」と称して

 

身近にある物や庭から摘んだ花など

 

デッサンしている姿を実家に泊まりに行った時

 

私もよく目にしていました。

 

 

 

 

今月初め 

 

義父の容態が悪くなったと聞きました。

 

 

「体力が落ちているから回復は無理かもしれない」と。

 

 

翌日 夫がかけつけ

 

その翌日は息子と娘も。

 

 

私は夫にお義父さんへのお礼と回復を祈っている旨 

 

わからなくても直接お伝えして欲しいと伝言を頼み

 

でも 会いには行きませんでした。

 

 

そして お通夜もお葬式にも行きませんでした。

 

 

 

 

私は8年前に夫との不和で別居。

 

 

その直前に両家で集まって話し合いをした時

 

義父は体調不良とのことで欠席。

 

 

私が1人で家を出ると宣言した後に

 

義父に認知症が出始めたと聞きました。

 

 

それでも 私は家を出ました。

 

 

 

80代の義母が老々介護していることも

 

その後 義父が施設に入ったことも

 

時々会うようになった夫から聴きつつ

 

でも 私は会いに行きませんでした。

 

 

同じ時期 私の母が倒れたり入院したり

 

実家の介護問題が出てきたこともあり

 

「私はお義父さんの介護は出来ない」

 

とハッキリ夫にも言って

 

結局 義両親には8年以上会っていません。

 

 

 

別居生活中 

 

考えると怖くなっていたことの大きな1つが

 

義父の死でした。

 

 

お義父さんが亡くなったとして

 

お通夜やお葬式の場面を考えるといたたまれなかった。

 

 

「何もしなかった嫁」として

 

親戚中の鋭い視線や言葉を浴びるだろう…

 

 

それでも葬儀には行った方がいいのだろう…

 

 

でも もし行かなかったら?

 

 

罪悪感で押しつぶされそう…

 

 

 

考えても苦しくなるばかりだったから

 

「もう そうなった時のその時の気持ちで決める!」

 

ことにした。

 

 

 

で いざその事態になったのだけれど

 

以前想像していた怖さは感じませんでした。

 

 

これまで私は自分のことしか考えてなかったな

 

この期に及んで保身ばかりだったな

 

とつくづく思って。

 


状況はもうどうでもいい


お見送りしたい


だから義父の葬儀には出よう

 


そう決めました。

 

 

 

 

「おじいちゃんが朝方亡くなった」

 

と息子から一報があった後

 

ふと 家を出ると決めた話合いの日のことが蘇りました。

 

 

 

私はあの日

 

話合いに来なかったお義父さんは逃げたんだ

 

と思ったのね。

 

 

我ながらひどい…。

 

 

 

そして こんな思いがふわっと浮かんできた。

 

 

もしかしたら あの日義父は

 

逃げたわけでも 自分を守ったわけでもなく

 

「どちらの味方もしない」

 

という姿勢で話合いの場に来ないで

 

つまりは私の気持ちを尊重してくれたのかもしれない。

 

 

義父があの場に来ていたら 

 

当然 夫の味方という立場になっていたから。

 

 

 

私が家を出る宣言をした後も別居してからも 

 

義父からの言葉を私は一切聞いていません。

 

 

認知症が進んで孫や息子のことも段々わからなくなったから

 

私のことはとっくにわからなかったかもしれないけれど。

 

 

 

(あの時  怒りや哀しみでいっぱいで

 

視野が狭くなって一方的な思いでしか事態を見られない

 

そんな私をそのままいさせてくれたんじゃないか)

 

 

(お義父さんは私の思いを『それでいい』と

 

ずっと見守ってくださっていたんじゃないか)

 

 

ふわ~っとその思いが浮かんだら

 

涙が溢れてしかたなかった。

 

 

義父が実際どう思っていたのか

 

本当の所はもうわからないけれど

 

その思いが私の中に拡がって 

 

そしたらふーっと力が抜けました。

 

 

 

夫からメールで連絡があったのは夜遅くになってから。

 

 

息子に確認したところ

 

お通夜とお葬式の日程は決まっていて

 

コロナの影響もあるから親戚は誰も呼ばないで

 

近親者数人だけの式にすることにした と。

 

 

 

夫からは葬儀のことや時間や場所の記載はなく

 

私も(その場にいるのは違う)と思ったので

 

「改めてお参りさせていただく方がいいと思う」

 

と返信。

 

 

結局 夫とのやり取り中

 

最後まで葬儀については何もなく

 

「親父は君に感謝していると思う」

 

と書いてあり 参列しないことに決めました。

 

 

 

息子と娘はおばあちゃんと一緒に遺影を選んだそう。

 

 

写真を撮るのは好きだったけれど

 

撮られるのは好きじゃなかったおじいちゃん。

 

 

笑っている写真があまりない中

 

産院で生まれたばかりの娘を初めて抱っこした時の

 

とびっきりの笑顔の写真にしたみたい。

 

 

私も訃報を聞いてすぐに思い浮かんだのが

 

その写真。



両家の両親が一緒に産院に来てくれた時


私の父が撮影したものでした。

 

 

 

他にも上記したおじいちゃんの「一日一絵」や


年賀状の版画作品や

 

美術コレクションを一緒に見たり

 

戦争中の軍服の写真や戦友たちとの写真

 

初めて聞く話や内緒にしてた物なんかも出てきたりして

 

おじいちゃんの思い出に浸る時間を

 

おばあちゃんとパパも一緒に持てたんだとか。

 

 

良かった。

 

 

 

娘はお通夜の日がちょうど専門学校の卒業式で

 

袴姿のまま参列。

 

これも近しい身内だけの式だから出来たことかも。

 

 

「おじいちゃんに晴れ着姿を見てもらえてよかった!」

 

と喜んでいました。

 

 

おばあちゃんは最期のお別れの時

 

おじいちゃんの名前を呼んで

 

「おつかれさまでした」

 

と言った姿に娘は涙し

 

息子は感慨深かったようです。

 

 

 

夫からは


弔問客がいなかったので父に寄り添えたこと


私も写っている家族写真を棺に入れたことと


改めて ありがとうの言葉が届きました。



 

私はお見送りの2日間

 

義父を弔いながら家で静かに過ごし

 

愚かな義娘でいさせてもらいました。

 

 

 

お義父さんのことはこれからも

 

ずっとこの笑顔のまま思っています。

 

 

 

 

どうぞ安らかに

 

 

どうもありがとうございました