226事件(1936年)と228事件(1947年)の共通点 | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 学校では226事件は一部の青年将校が暴走し、クーデター未遂事件を起こし、爾後 日本は軍国主義の道をまっしぐらになったと習いませんでしたか?

 

 約1500名の陸軍将兵が帝都の中心部を占拠、君側の奸を排除し、天皇親政を目指したのですが、重臣たちを殺された昭和天皇が激怒し、勅命を下し反乱軍の鎮圧を命じました。明治以降、勅命はこの時と、終戦の時の二度だけだったと記憶しています。

 

 戦後の日教組の監修する教科書は、以下に軍部の暴走が恐ろしいかを説いていますが、ちゃんと複数の書物を読むと違う局面が見えてきます。

 

 それは庶民の生活の困窮です。1929年の世界恐慌の前から日本は不況に陥り、東北地方の大飢饉により、農村が疲弊していました。陸軍の東北出身の兵たちの家もとても貧しく、家族が食べていくために娘を女衒に託し、そのお金で一家が食いつないでいた例がたくさんあったのです。

 

 そのころには満州事変からの俗にいう15年戦争の時代に入っていましたが、これも左巻きの歴史観であり、「戦争」は国家観で正々堂々と行うものであり、このころの大陸は軍閥が群雄割拠し、欧米列強が各地に租界をもち、中央政府というものは存在しておらず、「事変」というのが正確な表現です。

 

 第一次世界大戦の戦時好景気も一段落すると過剰な設備投資のために日本は不況に陥りました。そしてその傷も癒える前に世界恐慌が起こり、一気に不況に陥ります。それに天候不良の飢饉で特に東北地方が大打撃を受けるのです。

 

 部下の家族の窮状を直接聞く中隊長以下の青年将校たちは、自分たちは命を懸けて国家に報じているのに、国民が塗炭の苦しみを味わうのは政治腐敗を引き起こす君側の奸を取り除けば、自分たちの声が天皇に届くと信じ、「昭和維新」を標榜して決起しました。

 

 226事件の内容はいろんな本が出ていますので、詳しいことは書きませんが、ここで強調したいのは政治不信に陥り、国民が困窮した状況に陥っていたということです。

 

 青年将校たちが自分たちの立身出世のために決起したのではなく、生活に苦しむ国民の姿を見て決起したのだということを理解してほしいのです。これには異論も出るでしょうが、もっと純粋な気持ちが存在し、そのために当初は陸軍首脳たちにも青年将校たちに同情する将軍も多々ありましたが、これをきっぱり断ち切ったのが昭和天皇でした。

 

 力による現状変更はどんな理由があっても認められないということです。

 

 これは国家として時には非情な決断を下し、秩序を維持することは必要なことだと思います。

 

 ただ、ここには命を懸けて国家を良くしようという文民政治家がいなかったというのが大きな問題点でした。みな自分の身の保身ばかりを考えていたのではないでしょうか。

 

 

 

 かたや228事件というのはなかなかご存じない方もおられると思います。

 

 これは1947年に台湾で起こった事件です。

 

 日本が去って後、蒋介石の国民党軍が台湾に落ち延びてきました。

 

 李登輝閣下の著書によると、当初台湾人は日本という異民族支配を脱したという喜びと、同じ中華系の軍隊が来てくれたと大歓迎の用意をして港で待っていたのですが、そこに降りてきたのはこれが軍人かというくらいボロボロの敗残兵のような国民党軍将兵で、規律正しい日本軍将兵を見慣れた台湾の人たちにとって失望しかなかったそうです。

 

 日本統治下はとても厳しくちょっとの犯罪でも罰せられましたが、それは台湾人だけでなく、日本人が罪を犯しても同じように厳しく罰せられていました。

 

 このような話は朝鮮半島でもよく聞くことができました。つまりとても公平だったということです。

 

 しかし、国民党軍の軍政下にあって腐敗や汚職などが横行し、初めは喜んでいた台湾人もこれなら日本の統治時代の方がよっぽどましだったというようになりました。

 

 「犬が去って、豚が来た」という言葉でこの時代のことを表現していたのです。犬は日本、豚は国民党のことです。

 

 そして各地が不満がたまっていたのですが、たばこやおばさんが国民党の役人から暴行を加えられたことをきっかけに暴動が起き、瞬く間に全国に広がっていったのです。そして政府はこれを力で封じ込めようと多数の台湾人を弾圧、処刑したのです。

 

 

 長いですが、228事件の70周年追悼大会(2017年)での台南市長の挨拶を掲載します。

 

 当時の台南市長が次期総統になる頼清徳氏です。

 

 

>>>引用開始

 

228大虐殺70周年追悼会 挨拶原稿

                                    台南市長 頼清徳

 

 70年前、台湾では台湾史上現在まで影響を及ぼす重大な事件「228大虐殺」が勃発しました。なぜ70年も前の歴史を、今日再び取り上げ、記念する必要があるのでしょうか? ある歴史学者はこう言います。「歴史を理解しない民族は、無知な民族である。歴史を忘れる民族は、無情な民族である。無情かつ無知な民族は、前途の無い民族である!」と。特に現在に至るまで深く影響を及ぼしている228大虐殺について、私たちは無知であっても、それを忘れてもならず、歴史から教訓を汲み取らなくてはなりません。

 

 第二次世界大戦後、中国国民政府が台湾の管理を引き継ぎ、台湾の民衆は全中国でも未曾有の熱情をもって、この心待ちにしていた「祖国」を迎え入れました。ところが、台湾人民が目の当たりにしたのは、政治の腐敗、特権の横行、経済の独占、生産の大下落、糧食の欠乏、物価の暴騰、激増する失業、軍紀の腐敗、盗賊の大量発生、治安の悪化、疫病の流行…でした。民たちの心は日ごとに流失していき、希望から失望へ、失望から絶望へと変わり、最終的にはある密輸タバコの取り締まりによる衝突から、228大虐殺が引き起こされました。

 

 1947年2月27日の夜、台北市延平北路にて専売局調査員が女性タバコ販売員を殴打した事件から民衆銃殺事件が発生ました。28日に台北市民は関連機関に対し抗議を行うも結果は得られず、逆に行政長官公署による機銃掃射に遭い、取り返しのつかない事態となり、全島に広まって、各地が蜂起し、全島が激震しました。台湾の各重要市鎮からは多くの青年が武装して反抗し、政治の改革を要求しました。各階級の民意代表と社会のエリートたちが「228事件処理委員会」を立ち上げ、行政長官・陳儀と事後の処理について交渉を行ない、さらに政治改革の要求も提示して、事態はようやく安定を取り戻しつつありましたが、陳儀は「処理委員会」に見せかけの対応をする一方で、実は南京に軍隊を要請していました。国府主席の蒋介石は在台軍政特務員の一方的な言い分を信じ、軽率にも軍隊を台湾に派遣したのです。3月8日の夜、派遣された国府軍隊は台湾に到着し、鎮圧と虐殺を開始しました。続いて「清郷」工作として全島的な捕殺を行ない、民衆の死傷は甚大で、台湾各地の社会エリートたちが犠牲となりました。歴史上ではこれを「228大虐殺」と呼んでおります。

 

 事件勃発後、3月2日に台南へ広まり、台南市内の正義感に溢れた一群れの青年学生たちが警察局の武器を接収しました。学生たちは台南工学院(現 成功大学)を中心として学生隊を組織し、トラックに乗って市内を奔走しながら、「打倒汚職役人!」「自治、自由、平等を要求する!」と叫びました。

 

 台南市参議院は市民大会を開き、「省政の全面改革」、「市長民選の実行」の要求を提出して、3月6日に省レベルの「228処理委員会」に合わせ、台南市は「228事件処理委員会台南市分会」を設立し、台南県でも県参議会を中心として、県レベルの処理委員会を立ち上げました。 

 

 しかし残念なことに、青年の抗争も、各地の社会エリートによる協調のための奔走も、国府軍の上陸後に全て反逆と見なされ、直ちに虐殺と粛清が行われました。

 

 私たち台南市の死傷者は比較的少なかったものの、非常に残念ながら、数名のエリートが亡くなりました。例えば、非常に声望の高かった台南県参議院議員、台南県商会理事長黄媽典は、新営にて会衆の前で銃殺され、台南市出身の正義感に溢れた検察官王育霖は、台北で捕殺され、殺される前に酷刑を受けさせられました。

 

 佳里の有名な医師文学者呉新榮とそのご尊父、有名な詩人である呉萱草は、親子共々捕らわれて投獄させられ、危うく殺害されそうになりました。感慨深いのは、呉新榮氏は終戦時に、台湾の「光復」を喜んで、〈国府軍歓迎歌〉を書き、「三民主義青年団」に参加していたのにもかかわらず、その待ち望んでいた「祖国」を歓迎した1年余り後に、「祖国」によって捕らわれて投獄させられ、危うく銃殺されそうになることなど、思いも寄らなかったことでしょう!

 

 ここでは一人一人列挙することが出来ませんが、その他にも多くの青年や社会エリートが捕らわれ、酷刑を強いられました。

私たちが最も惜しむのは、非常に高い声望のあった湯徳章弁護士の死です。誠実な人柄の湯弁護士は、青年学生たちの過激な行動によって不必要な犠牲がもたらされることを心配し、彼らに温和な行動を採るように諭したにもかかわらず、最終的には彼の方が捕殺されてしまったのです! 湯徳章弁護士が捕らわれた時、兵士は彼に学生組織や武器接収者の名簿を提供するよう要求しましたが、湯徳章はそれに従わず、木片で手の指を挟まれる拷問を受け、さらに両手を縛られて一晩中吊るされ、銃床で肋骨を何本も折られた後、最後には民生緑園(現 湯徳章記念公園)に連れて行かれ、銃殺されました。湯弁護士は処刑される前、トラックに載せられて市街地を巡りましたが、彼の表情はいつもと変わらず、市民に対して微笑みを絶やしませんでした。処刑の直前に兵士が「跪け!」と恫喝するも、湯徳章弁護士は真っ直ぐ立ったまま動かず、「台湾人万歳!」と高らかに叫びました。

 

 私たちの知っている通り、228大虐殺は台湾の「国殤」です。学界でも指摘されたように、この事件のキーパーソンは蒋介石であり、彼は228大虐殺をもたらしたばかりでなく、その後の白色テロと呼ばれる恐怖政治の源であり、権威主義政治の独裁者であることが、歴史的なポジショニングによって明らかにされています。

 

 1987年、ちょうど228大虐殺の40周年に、鄭南榕、林宗正、陳永興、黄昭凱、李勝雄らは公義平和運動を発起して、台湾各地で演説行脚を行ない、228大虐殺の真相調査を要求し、冤罪を晴らすと同時に族群の和解を促進させようとしました。当時、台南教会公報が228事件についての記事を載せたことで当局に弾圧され、それが鄭南榕の目に留まったことから、彼は台南から出発することに決めました。台南は全台湾で最初の会場となり、湯徳章記念公園そばの「休日花市場」を出発地点として、ここから移行期正義への第一歩を踏み出したことは、より一層、記念的意義を持ちます。

 

 そして台湾社会において口を噤んでいた「228大虐殺」は、1987年2月15日に「228平和デー促進会」による台南での最初の行脚活動を終えた後から、ようやく台湾社会で広く議論されることとなり、台南は言わば「台湾の第一声」として、「南部の志気」を真に具現化したのでした。彼らは執政当局が真相を公開し、被害者の冤罪を晴らすことを希望しましたが、当時は厳戒態勢が未だ解除されておらず、行脚演説期間中に何度も政府による妨害、軍隊警察による圧制に遭いながらも、民衆の真相を渇望する情熱が消滅することはありませんでした。

 

 同時に、湯徳章弁護士が大衆のために犠牲となった英勇の精神を追悼するため、台南市政府は2014年に湯徳章の受難日である3月13日を「正義と勇気の記念日」に制定しました。さらに2015年には湯徳章弁護士の旧居を「名人旧居」に指定し、記念としました。また、現在は湯徳章記念公園民主パブリックアートデザインを計画しており、今年の12月10日の世界人権デーに落成する予定です。

 

 今年は特別に「南方有志」という、228大虐殺70周年記念特別展シリーズイベントも開催しました。内容には「陳武鎮-判決書油絵木彫アート特別展」、「1987-228平和デー運動映像およびドキュメンタリー展」、「明日に期待する人─228消えた検察官王育霖特別展」、「乱世英魂─湯徳章弁護士記念展」、「不滅の魂─228消えた台湾のエリートたち」等が含まれ、皆様に事件の背後に隠された真相について理解を深めて頂けます。

 

 移行期正義をより着実化させるため、私は2015年の228追悼会に参加した際、蒋介石の銅像を学園から全面的に撤去させることを宣言し、その年の3月施行完了しました。また昨年から、南区、左鎮区、七股区、佳里区、将軍区、永康区、玉井区等のパブリックスペースにあった蒋介石銅像も全て撤去いたしました。

 

 そして本日の午後には、成大学生会も特別に30年前、つまり1987年の「228平和デー促進会」での行脚ルートと、湯徳章弁護士が行脚を強制させられたルートを参照して一周し、先賢の民主を守ろうとした精神を受け継ぎ、人々がもう一度この事跡を思い起こすことに期待しています。

 

 移行期正義の次なる一歩は、真相を明らかにし、加害者を公表して、教科書に書き入れることで、当事者とその家族に慰めを得させ、彼らの許しを乞い、社会とも和解を行なうことであります。そして、さらに重要なのは、228事件が再び起こらないようにすることです。

 

 ヘーゲルはかつてこう言いました。「我々が歴史から学ぶことは、人間は決して歴史から学ばないということだ。」と。228大虐殺から既に70周年が経ちました。私たちは本当に歴史から何も学ばなかったのでしょうか? 当時の台湾人は心から待ち望んでいた「祖国」を迎えましたが、かえって血の雨に晒されました。今日、私たちは歴史の教訓を心に留め、外在的な「祖国」に期待することなく、悲劇を再演させることもありません! 私たちは地に足をつけて、台湾に立脚し、既に運命共同体となって、民主的な台湾の土地の上で、分け隔てなく、平和かつ公義な新しい国を建設しているのです!

 

 >>>引用終わり

 

 台湾人としての熱い誇りがこの演説から垣間見えてきますね。

 

 この頼清徳氏が次期台湾総統になるのです。

 

 

 で、この二つの事件の共通点は「国民の怒り」です。

 

 国家の礎は「国民」です。国民が安寧に暮らすことができ、努力すれば努力した分だけ報われるという社会から逸脱し、満足に生活できなくなった時に国民の怒りが爆発するのです。

 

 貧しいなら貧しくともいいのです。皆が同じように貧しければ我慢できます。震災で皆が被害を受けていたらだれもが黙って耐えますね。

 

 ところが一部には耐え忍ばせ、自分たちはのうのうとしている政治家を見ていたら、国民の怒りが爆発します。

 

 マスコミはそれを巧みに操って、日本国民を間違った方向に向けようとしているのにも気づかねばなりません。

 

 LGBT理解増進法の成立過程で戦いをやめた自民党の議員たちは万死に値します。しかし、それを反省し、今祖国を危急存亡の危機にさらしている岸田総理に即刻辞めてもらわねば、祖国は崩壊の一途となるのではないでしょうか。

 

 私は高市早苗議員を次期総理にと活動しています。反省した自民党議員たちは高市議員のところに結集し、新しい自民党を作らねば岸田総裁のもとではどんどん崩壊していくと思っております。

 

 226事件の時は、青年将校たちが決起しました。

 

 228事件の時は、台湾の国民が全国で決起しました。

 

 両方ともその後とても大きな傷を負いますが、それが今の発展に繋がっていると思っております。

 

 そして今年両国とも大きな岐路に立っています。良い方に向くために私たちがしなければならないことを考えましょう。

 

 歴史からどう学ぶかによって、未来が変わります。ぜひいろんな本を読んでみてください。

 

 226事件は映画『動乱』や『226』がお勧めです。このころの映画は左巻きが映画界を席巻しており、決して一本だけでなく、複数の映画を観ることをお勧めします。立体的に見てあとは自分で判断してはいかがでしょう。興味をもてば、いろんな本が出ていますよ。

 

 228事件のことは門田隆将先生の『汝、二つの祖国に殉ず』という本をお勧めします。

 

 こうやって歴史を知ることで、今の日本が置かれている状況と比べてみることが大事なのです。