福岡で硫黄島の慰霊祭に出席してきました。 | 井上政典のブログ

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 3月31日の今日、福岡県粕屋郡篠栗町にある安楽寺にある硫黄島戦没者の慰霊祭に初めて参加させていただきました。

 

 10日前の21日は佐賀県唐津市で硫黄島で戦死した唐津出身の市丸利之助海軍中将の慰霊祭に出席したばかりで、何かと最近は硫黄島づいています。

 

 それもこれも敬愛する友人H氏が昨年末硫黄島の遺骨収集に行かれたことが大いに影響しております。

 

 硫黄島は小さな島ですが、そこで74年前に日米両軍の死闘が約40日繰り広げられた大激戦地です。日本軍は21000人の戦死者が出ましたが、米軍も死傷者が26000人以上に上りました。

 

 これほどまでに米軍の死傷者が増えたのは、今までの水際で敵をたたく作戦から、島内にまずはいれて、そこで地下トンネルを伝っての神出鬼没の攻撃により、戦死者と戦傷者および精神に異常をきたした将兵が続出するのです。

 

 この戦い方はペリリュー島の戦いでまず行われ、沖縄戦でも実施されました。ベトナム戦争ではベトコンがこの方法で米軍を大いに悩ませ、勝利しました。

 

 そのトンネルを掘る作業が過酷とは聞いていましたが、実際に御遺骨収集のためにトンネルに入ったH氏からの60℃70℃の暑さの体験談を聞けば聞くほど、わが先人たちは一日でも米軍の侵攻を遅らせるために努力されたことを頭に浮かべると涙があふれ、感謝の気持ちでいっぱいです。

 

 何のために絶対援軍の来ないこの島で文字通り死ぬまで戦い続けたのか本当に不思議です。

 

 アメリカ国立海兵隊博物館の外観は、硫黄島にある摺鉢山山頂に掲げられたアメリカ国旗をモチーフにしてあり、三角屋根になっています。それは両軍が死に物狂いで取り合った摺鉢山の激戦を端緒にあらわす写真で、米兵が山頂に米国国旗を立てようとするモニュメントから取ったものです。

 

 この米国国旗は実は二回目のもので、一回目に掲げた星条旗はその日の夜に日本軍が夜襲をかけ、引きづり降ろし日の丸を掲げ、またそれを米軍が死闘の末引きづり降ろし、米国国旗を揚げました。そのまた夜に日本側が血染めの日の丸を掲げましたが、今度は力尽きすぐに米国国旗が山頂に掲げられたのです。

 

 国士西村慎吾氏の得意なお話の一つですから、ぜひ「西村慎吾 硫黄島 日の丸」で検索して、西村慎吾氏の渾身の魂の叫びを味わってください。涙なしには読めないでしょう。

 

 唐津の市丸利之助海軍中将の慰霊祭は今年で二回目です。唐津の同志たちが昨年から始め、今後もずっと続けていくとのこと。私もできるだけこの日は唐津に行くようにします。

 

 硫黄島は、東京都です。1200キロほど離れていますが、れっきとした日本本土であり、その土地をアメリカに取られることは絶対にしたくなかったといろんな本には書いてあります。

 

 しかし、戦争というのもは感情で決まるものではありません。この島が戦略的に重要な場所にあるから日べり両軍の死闘が繰り広げられたのです。

 

 もしこの島が今の位置より200キロほど東西どちらかによっていたら、この島をめぐる戦いは起きていませんでした。

 

 それが戦略上の要衝であるからこそ、そこを掌中に収めるために戦うのです。

 

 これは沖縄県の位置にも同じことが言えます。

 

 なぜ沖縄に米軍の基地が集中しているのか?という問いがよく発せられますが、その場所が戦略上の要衝だからです。米軍も欲しいところは、CHINA軍も喉から手が出るほど欲しいのです。

 

 だからいろんな理屈をこねては米軍を追い出そうと現地の工作員が扇動して反米感情が強いお年寄りをそそのかして反基地運動をしています。

 

 沖縄戦でも米軍は戦傷者の合計は10万人を超えました。

 

 それだけの犠牲を払ってもぜひとも必要な場所だったから、アメリカはそこを奪取しました。戦後74年も経っていますが、沖縄県の戦略上の重要性は全く変わっていません。

 

 その反面、硫黄島はその戦略的意味を失っています。だから航空自衛隊の基地はありますが、ほとんど利用されていません。

 

 硫黄島の位置はサイパンやグアムから東京をはじめとする日本の各都市に爆撃をするために必要な拠点だったのです。

 

 飛行機には航続距離という性能を表す数値がありますが、B-29はこれがとてつもなく長く、8時間かけて日本に来て爆弾を落とし、そしてまた8時間かけて基地に帰っていきました。

 

 現代のように空中給油機というものがないために、途中で燃料が無くなると太平の大海原に墜落してしまいます。そこで途中にある硫黄島の飛行場がとても助けとなるのです。

 

 またいくら優秀なB-29でも、戦闘機の護衛がなければ被害が出ます。護衛の戦闘機はB-29のような長大な航続距離を持つことはできません。一人乗りの戦闘機のパイロットが16時間も一人で操縦することも不可能です。

 

 だから硫黄島が必要になるのです。

 

 よく軍事のことを知らない人が、B-29は日本の戦闘機が届かない成層圏を飛行して爆弾を落とすので日本軍は手も足も出なかったと書いていたり、しゃべったりしています。

 

 とんでもないウソです。

 

 まず、高度1万メートルから爆弾を落としても風に流され目標に全く当たりません。有効な爆撃をするためには日本軍の戦闘機が上がることができる高度まで降りてこなければならないのです。5000メートルだったら、日本軍の高射砲も十分に届きますし、戦闘機も迎撃ができます。

 

 約半年間の日本本土爆撃であの超空の要塞と呼ばれたB-29はなんと275機も日本側から落とされて、乗員が約3000名ほど戦死しているのですが、左巻きの戦争テラーたちは日本軍は手も足も出なかったと言いふらしています。

 

 全くのデマです。

 

 その被害の多さに米軍も何とかしてB-29の護衛する戦闘機の基地が欲しかったのです。

 

 だから硫黄島が日米両軍の血と地で洗う戦闘になりました。

 

 日本軍の将兵もそのことを知っていたのです。

 

 だから一日でも長く抗戦をして米国の戦闘機の基地を機能させないように奮戦されたのです。

 

 満足な飲み物も食べ物もない中、また兵士として戦う弾薬や手りゅう弾も不足していました。米軍が入ってこない壕の中は60度を超えるサウナのような状態でした。もちろん水もまともないのです。

 

 それでも日本軍将兵は歯を食いしばって一日でも長く耐え忍んだのです。

 

そのおかげで内地の大都市の小学校高学年と中学生の疎開が進み、3月10日の東京大空襲の際の明日を担う子供たちの犠牲は他の年齢層に比べ少なくなっています。

 

 この人たちが戦後の日本の高度成長を担ったのです。

 

 硫黄島で亡くなった方々は決して無駄死にではありませんでした。

 

 日本の将来を担う子供たちを護ったのです。

 

 硫黄島にはまだまだ日本兵の御遺骨が残っているそうです。しかし、暑い地熱と長い年月が経ったために骨はぼろほろになって骨のかけらはたくさん見つかるのですが、一柱と数えることのできる御遺骨は一回の遺骨収集作業で幾柱も見つからなくなってきているそうです。

 

 でも、硫黄島は日本の内地です。外国ではありません。

 

 少しでも早く本土の地を踏ませてやらねばなりません。それが平安な世に生きる私たちの使命だと思うようになりました。