今朝、普通に孫1号と3号と共にシャボン玉で遊ぶという小市民的な幸せに浸っていた時に、訃報が飛び込んできました。
私の兄貴分であり、10年以上タッグを組んで、福岡で伝統芸能を普及させる活動してきた相棒をなくしました。
相棒といえでも70歳を過ぎておられる大先輩ですが、とても仲良くしていただき、いろんなことを共に挑戦してきた同志でもありました。
昨年から肺がんを患っていることが判明し、ステージ4ということで復活に一縷の望みにかけていましたが、26日にすでに大阪の病院で亡くなっていたことがわかりました。
実は今月21日の平野國臣の慰霊祭に奉納行事を自分ではもうできないと、出演者に声をかけ、そして私に自分の代役をお願いされたのです。いつものように快く引き受けましたが、後になってこの日この時間に私にとって大切な孫一号の卒園式があることが判明し、一時は出演者との段取りだけを決めて欠席しようと思っていました。
しかし、打ち合わせのために電話した時の声があまりにもか細く、長年詩吟で鍛えた声が聞けなくなっていました。この時も電話を切った後につい泣いてしまいました。
もしかしたらという覚悟を決めた日でした。
出演者とのうちわせの時にやはりここは自分が大切な友であり、兄貴分であり、同志の吉田城世上席師範の代わりに自分が仕切るべきだと思いなおし、とても楽しみにしていた孫一号の卒園式の出席を取りやめて、この慰霊祭に参加するようにしたのです。
他の出演者の熱演もあり、私たちの奉納戯曲は大成功で、平野國臣慰霊祭の主催者からもとても感謝されました。
すぐに「無事終わったよ」と連絡を入れたのですが、電話は出ず、返電もありませんでした。
その時にもう9分9厘諦めました。
私も兄貴と慕っていましたが、弟としてとてもかわいがってくれていましたので、私の電話に掛け直してくれないことなど一度もなかったからです。
そして今日の訃報です。
悲しいです。
ぽっかりと心に穴が開きました。
ただ、今日はいつもの孫1号と3号と遊ぶ日だったので、孫たちの笑顔にとても救われました。
今月は、とてもかわいがってくれていたおじちゃんも亡くなり、さみしい思いをしましたが、今日で二回目です。
悲しいです。
このおじちゃんも2か月ほど前に倒れたと聞いて母を連れて飯塚まで行ったのですが、その時は奇跡的に持ち直し、私の顔を見て笑顔で話してくれていたのですが、今月の初めに急変し眠るようにして亡くなりました。80代後半の年齢だったので、大往生と言えるでしょう。
吉田城世上席師範の場合は、入院先が大阪の病院だったということもあり、平野國臣の慰霊祭が終わってからお見舞いに行こうと思っていた矢先でした。
明治安田生命を退職してこれからどのような道を進もうかと思っていた時に、歴史ナビゲーターという分野でがんばろうと決めた時と同時期に出会いました。
偉人たちの生の声である辞世の句や折々詠んだ和歌を詩吟と共に綴ったらどんなに効果的かと吉田上席師範との出会いで閃いたのです。
はじめはふんふんという反応でしたが、一度維新の志士たちの物語を構成してパワーポイントと私の語りと共に詩吟で和歌を朗詠してもらったらお客様に想像以上に喜んでいただき、それから色んなものをお互い作るようになりました。
三つのとても深い思い出があります。
一つは松陰神社にバスハイクを企画した時の話です。
まだできたばかりでグランドオープンしていなかった松陰神社の至誠館で松陰先生の留魂禄を見せていただこうと当時の宮司さんに面識もないのに何度もお願いし、受け入れていただきました。
その際、至誠館の中で吉田上席師範が「身はたとえ 武蔵野の野辺に朽ちるとも 留めおかまし 大和魂」と朗々と吟じてくれました。
すると至誠館の中に松陰先生の書かれた文字が宙を飛びはねているような錯覚に陥ったのです。あれほど鬼気迫る詩吟を聞いたのは初めてでした。本人もとても力が入り、またとても気持ちよく朗詠できたと大満足でした。
それを聞いていたツアーの参加者の高校生の女の子をはじめとする方々が感動で涙を流されました。
二つ目は、宗像大社の沖ノ島への特別参拝を企画した時の話です。
2011年の五月でした。
ご縁を頂き宗像大社の沖ノ島へ行った時のことです。真っ裸で禊の後に沖津宮で正式参拝後奉納の詩吟をされたのです。
「沖ノ島 森の茂みの岩陰に 千歳ふりにし 神祭りのあと」という平成27年の薨去された三笠宮殿下が沖ノ島に参拝された時に読まれた和歌を朗詠されたのです。
この時は特に東北大震災の直後ということもあり、参加したみんなが東北の一日でも早い復興を祈念して心が一つになっていたからでしょうか、吉田上席師範の朗々とした声が沖ノ島の巨石に響き渡って一段と身の引き締まる思いがしました。
詩吟独特の高い声も素晴らしいのですが、特に低音が響き渡り、和歌の幅を広げ、詠んだ人の思いがとてもよく伝わる声でした。いまでも頭にはしっかりと朗詠された時の声が残っています。
実はこれを書いている時も吉田上席師範のあの吟詠の声が頭の中に響いているのです。
三つめは、博多の名刹 承天寺で3日間にわたって上演した「博多の恩人聖一国師物語り」の第一幕を吟を二人で作ったことがとても印象に残っています。
また、いろんな会のプロデュースもされていたので、いろんなアドバイスをしてもらいました。そのおかげで3日間で700人以上の観客を動員できる大成果となり、またそれが昨年出版した漫画『博多の恩人聖一国師と博多祇園山笠』(集広舎)につながっているのです。
「 帰帆浪に没す怒涛の海
海神鎮め祈る箱崎の社
「南無八幡大菩薩 吾に力を与えたもう
わが命 我が物にあらず、天命により衆生を救わん!」
忽ち見る神恩九天に輝き
皇統を簇擁して長に天に接す」
これを二人で作って吟にしたのです。
いろんな思い出が頭をよぎります。
数日前から覚悟はしていたので、心の乱れはありません。
でも、最後の別れもできずに逝ってしまわれたのはちょっと残念です。
ただ、代役を自分の大切なものを犠牲にしてまでも果たしたので、ちょっと心は穏やかです。
吉田城世上席師範 いや吉田の兄貴 本当にありがとうございました。今の私があるのは兄貴のおかげです。