12月13日は南京城陥落の日です。堅壁清野作戦を知っていますか? | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
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 今から81年前の今日、国民党政府の首都だった南京城が陥落しました。その後いわゆる南京事件が起こったと難癖をつけられていますが、それはまったく事実無根です。

 

 この南京攻略作戦を時系列的に見ていきましょう。

 

 1937年7月に支那事変(日華事変)が始まります。これはお互いに宣戦を布告していないため、事変と呼ばれました。決して日中戦争ではありません。戦後の自虐史観の呼び方です。当時大陸では蒋介石の率いる国民党政府らがありましたが、これは決して全土を統べる統一政権ではありません。よって国家間の戦争ではないから、事変なのです。

 

 蒋介石には軍事顧問団がついていました。団長の名前はファルケンハウゼン。ドイツ参謀本部のエリート参謀でした。このドイツ軍事顧問団は蒋介石の第一の敵は日本、第二の敵は共産党と位置付けます。

 

 その判断の根拠は、当時毛沢東の率いる共産党は日本軍や国民党軍から逃げ回っていたので、当面の軍事的脅威にならないと判断されたのです。毛沢東の共産党軍が力をつけるのは戦後日本が武装解除をし、その集積された膨大な軍需物資を手に入れてからです。毛沢東共産党は決して日本軍とは戦っていませんし、相手にもなっていません。

 

 そしてドイツ軍事顧問団は上海付近での戦闘で日本軍を撃滅しようと考えるのです。ゼークト・ラインという塹壕陣地を構築して日本軍に戦いを挑みましたが、激戦の末日本軍に突破されてしまいます。それが3か月後の10月26日のことです。

 

 しかし、ここで皆さんにぜひ知ってもらいたい事件が二つあります。その事件を知らないとなぜこのような大規模な戦闘になったかがわからないからです。

 

 非のある被害者が訴える時、いかに自分が被害に遭ったか、どんなにかわいそうなのかを必死で訴えますが、何故そうされたのかという原因についてはしれっと黙っています。そしてそこには誰も突っ込みません。

 

 この第二次上海事変と呼ばれる日本軍と国民党軍の間に起こった戦闘は、8月12日の国民党正規軍本隊が国際共同疎開の日本人区域を包囲したところから始まります。そこまでに一触即発の状態に沸きに沸いていたのです。

 

 ドイツ軍事顧問団の作戦は、日本軍と軍事的衝突をして、堅固な陣地であるゼークト・ラインに日本軍を誘導し、一気に殲滅をしようと企図しましたが、日本軍が強すぎるのといかにドイツ製の武器で装備しようと国民党軍将兵が弱すぎたのです。その兵力差は日本側が最大5000、国民党軍は3万とされていて、本来は日本軍は圧倒的に不利だったのです。

 

 数的に不利な日本軍を戦いに引き込むために色んなゲリラ戦や虐殺事件を起こします。

 

 日本人が忘れてならないその一つが、7月29日に起きた通州事件です。北京郊外の通州で起きたCHINA人約4000人ほどによる攻撃で、そこに居留する日本人(朝鮮系も含む)が約260人ほどが猟奇的な殺され方をしたのです。ぜひ、通州事件で検索してください。

 

 そして8月9日の大山勇夫海軍中尉惨殺事件が上海で起きます。

 

 たび重なるCHINAからの挑発に日本国内では暴支膺懲(ぼうしようちょう・傍若無人にふるまう支那を懲らしめよ)というスローガンで日本国内にCHINAに対する攻撃論が高まるのです。決して軍部の暴走ではありません。当時の国民が望んだことなのです。それほそCHINAは無法で理不尽な無差別テロを仕掛けてきていたのです。

 

 そして8月12日の日本人区域を国民党軍が包囲するのです。

 

 兵力差は歴然、すぐに国民党の勝利に終わると思われました。しかし、私たちの先人はすごかった。一般の日本人を救うために帝国海軍陸戦隊の5000人は死に物狂いで戦ったのです。対する国民党軍は後詰も含めて20万。圧倒的な戦力差で、大ピンチです。

 

 そこで日本は陸軍の派遣も決め、上海派遣軍を送り込みます。

 

 英米仏の各領事は日中双方に停戦の申し入れをしますが、準備万端戦力を整えてきた国民党軍は一歩も引きません。

 

 とうとう11月5日杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を突かれた国民党軍は上海方面から主と南京方面に潰走し始めたのです。つまり逃げ出したのです。強固な塹壕やトーチカを配置し、幾重にも重なる重機関銃の射線をもったドイツ軍事顧問団自慢のゼークトラインは日本軍の猛攻の末突破されたのです。

 

 11月7日上海派遣軍は第10軍とともに中支那方面軍と改変され、11月19日には逃げ出した国民党軍の追撃戦が始まりました。

 

 日本政府は不拡大方針を発表しますが、大勢の犠牲を出した軍隊を止めることはできません。ここで相手に体制を立て直す時間を与えたらまた戦友が、日本人居留者の犠牲が出るからです。

 

 12月1日には軍中央も軟禁攻略命令を下達します。

 

 国民党軍は11月の南京高級幕僚会議で南京固守作戦の方針を決定し、唐生智を防衛司令官に任命します。同時に首都をさらに奥地にある重慶に移すことを決定するのです。

 

 ここで、また皆さんにぜひ知っていただきたい作戦があります。

 

 これは国民党軍の作戦で、「堅壁清野作戦(けんぺきせいやさくせん)」と言います。

 

 これは守る陣地を堅牢な壁を作り、その周りを徹底的に破壊して整地にしてしまうという作戦です。

 

 西南戦争の際に熊本城の参謀であった児玉源太郎が熊本城の周りにある家屋を全部壊して、寄せ手の薩摩軍が身を隠すところを作らせないようにしていましたが、規模が違います。

 

 南京城の広さは35キロ平方メートルで茅ケ崎市と同じくらいの大きさだと言います。その周りを荒野にするのです。もちろん付近の住民は強制的に立ち退かせました。これは寄せ手を寒い冬空の下で野営させるのと、射撃しやすいようにするのです。

 

 この作戦を国民党軍側で体験した後の韓国軍第11師団長崔徳新は、1951年の朝鮮戦争の際に朝鮮半島で実施します。共産ゲリラ掃討のためと言いながら、この堅壁清野作戦を実施し、付近の住民を虐殺するのです。一連の作戦で1424名の韓国人が韓国軍の手で虐殺されています。

 

 またこれを日本のせいだと言い出さねばいいのですが…

 

 話を元に戻すと;

 12月7日唐生智防衛司令官をのこして蒋介石らは南京を脱出。

    8日 日本軍南京城を包囲、

    9日 無血開城をするように勧告

   10日 返事がないために、攻撃を開始

   12日 唐生智防衛司令官、城外へ脱出。

   13日 南京陥落

 

   それが81年前の今日なのです。

  

 南京城内の人口は100万人と言われていましたが、南京攻略作戦のために、日本軍機の爆撃が始まり、大勢の住民が城外へ脱出しています。そして南京安全区に20万人ほど避難しており、松井司令官は唐生智防衛司令官と密約を結び、安全区には攻撃しませんでした。尚この密約は軍中央には報告されておらず、松井司令官が自分の首をかけて南京の住民の命を救ったのです。

 

 陥落後、城内に入った日本軍将兵が見たものは、トーチカの中で鎖で足を縛られ逃げ出すことができないようにされた国民党軍の兵士たちの遺体でした。多くの日本軍将兵はそれを見て涙したと伝えられます。

 

 安全区にいた住民が次々に出てくるところが記録フィルムに収められていますが、皆笑顔で安心しきっています。写真だとどうしてもその一瞬だけですが、動画はその様子をあまねく伝えられます。女性や子供たちの表情は一概に明るく、笑顔でほっとした顔をしています。

 

 当時従軍記者が大勢入城しています。しかし、虐殺のことや城内に死体が多数転がっていたような話は一切出てきません。

 

 そのうちの一人が従軍記者だった山岡荘八ですが、虐殺された様子など一行も書いていません。

 

 もし、30万人も殺したのなら、この死臭はすさまじく、それをどうやって穴を掘って埋めるのでしょう。焼くのも大量のガソリンが必要ですし、物理的に不可能です。

 

 さらに、どうやって30万人も殺すのでしょう。もしご存知の方がおられたら教えてください。私は思いつきません。

 

 南京事件のことに関して、こういう質問は全く受け付けてくれません。また蒋介石がその翌年300回にも及ぶ外国人記者に対して記者会見をしていますが、南京のことは一言も触れていません。

 

 いい加減、日本政府もCHINAにきちんと言いましょう。南京事件なんてなかったと。

 

 私は孫や子供の時代に負い目を負うことなく、堂々と日本人として生きてほしいと思っています。だからこそ、いま真実を明らかにせねばなりません。