福岡在住の私は上京するたびにほとんどと言っていいほど靖国神社に参拝します。
それは、祖国のために命を懸けて戦って亡くなられた英霊の方々の御霊をお慰めする意味もありますが、ここに行くと自然に背筋がピンと伸び、自分のだらけた精神にぴしゃりと打ってもらえるからです。
九段下の駅を上り、本殿に続く緩やかな参道を上っていきながら、近づいていくとそこには何か暖かく包んでくれるような不思議な光が感じられます。それに引き寄せられるように歩を進めて大鳥居をくぐると、今度は何か懐かしさを感じるような風が吹いてきます。
とにかく心地よいのです。とても大好きな場所です。
もう20年ほど前になりますが、新宿で勤務していた時、正月の初出勤でどこにお参りしようかと思っていました。常々靖国神社にはいっていたので、そこにしようと挨拶に来た友人と連れ立って行ったのです。
すると本殿の横に列ができていて、聞くと昇殿参拝ができるとのこと。これはちょうど都合がいいやと思ってその列に何気に並んだのです。その時は今のように英霊に感謝とか、祖国のためにという思いは顕在しておらず、ほとんど興味本位で昇殿参拝をしようと思ったのです。
なぜなら、昇殿参拝もそれまでしたことがなかったからです。
ぞろぞろに皆に続いていくと拝殿で正式参拝しました。
するとどうでしょう。心がとても心地よくなったのです。とても気持ちがよく、軽やかな気分になりました。
いままで神社の前で何度もお参りした時には感じられない爽やかな空気に包まれ、とにかく何かに包まれているような気分になったのです。その心地よさが忘れられずにいつもここに上京の度に来ているのです。
その後、英霊に導かれるように神社に興味を持ち始め、神道を研究し始めました。そして宗像大社の沖津宮に参拝する機会を与えられたのです。そう、神の島 沖ノ島です。現在は世界文化遺産になって一般人は入ることができなくなりましたが、宗像大社の名誉宮司様と仲良しになり、その後4回も特別参拝団を結成し、いろんな方をお連れすることができました。
その中には田母神閣下をはじめとする著名な方々、そして九州財界の方々をお連れすることができました。都合5回も受け入れていただき、ますます神社の研究が進み、昨年『オッショイ 福岡の神社が面白い』(啓文社)Amazon等で絶賛発売中、を出版させていただきました。
いまではいっぱしの神社研究家として偉そうにしゃべっていますが、その発端となったのが靖国神社の昇殿参拝だったのです。
もし、まだ神社で正式参拝されたことがない方はきちんと神社を選んで正式参拝を申し込まれてはいかがでしょう。必ず何かが変わります。
それまで大学でキリスト教をアメリカ人の宣教師から学んでいました。だから聖書もしっかりと読み込んでいました。その聖書の記述と照らし合わせると、一つのことが見えてきます。
イエスキリストも、30歳くらいまで大工のヨハネの息子として普通に暮らしていました。誰も彼を神の子なんて思ったことはありませんでした。ところが、預言者ヨハネという著名な人がヨルダン川で洗礼をされていると聞き、人々の列に並んで普通に洗礼を授けてもらおうとしたときに、預言者ヨハネはイエスに気づき、『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』と言って思い止めようとしたのです。
ところが、イエス様は『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』といって洗礼を受けられました。
その後、天がイエスに向かって開かれたと言います。つまり、神の子イエスキリストでさえも、洗礼と儀式を経ないと神の子と自覚できなかったのです。それからやっと布教活動をするようになるのです。
これを村上和雄先生は、細胞のDNAがオンになったと表現されます。
私たちのご先祖様から受け継いだ日本人としてのDNAがオンにならない限り、日本人として覚醒することはないのです。私の場合は靖国神社で昇殿参拝したことがDNAをオンにしたということでしょう。
みなさんも必ずそういう場面があったはずです。もしそんなこと今までなかったと言われる方は近い将来必ずそのような場面がやってきます。ぜひ、お正月に普通とは違う行動をしてみてください。
だから左巻きの人たちにも神社の正式参拝をしてほしいのです。そうすれば、日本人としてのDNAが目覚めるのではないかと思っております。
以前、自民党系の県議会議員の決起大会に呼ばれてお話させていただいた時に、「投票するなら神社にお参りする人にしましょうね。」と言ったら拍手喝さいでした。それ以上言わなくても意味が伝わっていました。
前置きが長くなりましたが、そういう魂の故郷というべき靖国神社でCHINAの55歳の男が新聞紙に火をつけて燃やし、警察官らに取り押さえられる映像を見ました。それを見ると怒りより、悲しさがあふれ出ました。
「やめろ!、そこは私の魂のよりどころだぞ」と動画に向かって心で叫んでいたのです。
もし、イスラム教の聖地で同じことをしたらどうなるでしょう。きっと周りにいる人たちから石を投げられ八つ裂きにされるでしょう。
もし、キリスト教の聖地で同じことをしたらどうなるでしょう。きっと周りにいる人たちから石を投げられ八つ裂きにされるでしょう。
でも、仏教や神道ではそういう報復をしません。きっと私のようにそのような行為をした人間を可哀そうな人だと憐憫の情を持つことでしょう。
それが日本人の優しさであり、日本人の強さの根源だと思います。
暴力的に解決しようとはせずに、相手を憐れみ、そして相手の魂の未熟さを悲しんであげるのです。
私はこのCHINA人の行動を見てとても悲しい気分になりました。それは大切な両親の悪口を言われているように感じるのです。
このような人たちに今後どういう風にして付き合えばよいのか?
力をもってねじ伏せるのか。大きな声で罵倒し、ぐうの音も出ないようにするのか。
それとも徳の力をもって悪かったと思わせるようにするのか。
徳の力が正しい答えだと思うのですが、まだまだ私は未熟者です。どうしても頭ではわかっていても、もし目の前でそんな行動を見たら、力でもってねじ伏せることでしょう。まだまだ未熟な私です。修行が足りませんね。