奥茂治氏の取材の同行させていただきました。 | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
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 2月に緊急帰国報告会をしていただいた奥茂治氏から、一昨日の晩にメールが入りました。

 

 「明日久留米で6時ごろ一緒に食事をしませんか?」というお誘いでした。

 

 久留米?明日? 行くようになっているけど・・・。とその奇遇さに驚きました。というのも29日の14時半から田母神閣下の講演会と懇親会に出席するように予定していたのです。

 

 すぐに電話をして福岡に到着する時間を聞き、9時半に福岡空港へお迎えに上がりました。それからずっと二人で車中で誰に気兼ねすることなく語り合いました。

 

 先日の緊急帰国報告会の時も、初対面にもかかわらずすぐに意気投合し、旧知の仲のようになりました。いろんな偶然が重なったのです。

 

 たとえば、講演まで時間があるので福岡観光にお連れしますが、どこに行きたいですか?と尋ねると「筥崎八幡宮にお参りがしたい」と言われました。

 

 それを聞いて私はびっくり、なぜなら講演会場が筥崎八幡宮だったからです。この符牒の合い方にびっくりしました。それから共通の友人が多いこと。

 

 話すにつれてこの方はただの思想家や行動家ではなく、ちゃんと地道に調査をし、資料を得たうえで、戦略的な道筋を構築してきているとわかったのです。今まで出会った人にはまったくいないタイプの方でした。

 

 その尊敬する奥茂治氏から、謄越(とうえつ・みゃんまー)の激戦で唯一生き残った方の子孫が久留米におられるから会いに行きますが一緒に来ませんかというお誘いなのです。

 

 その方は吉野孝公という第56師団所属の衛生兵の方でした。56師団と言えば私のおじさんと同じ師団であり、戦死した場所がその近くの拉孟(らもう・ミャンマー)だったので、他人ごとではありませんでした。

 

 また謄越の戦いは陸地での戦いにもかかわらず玉砕をした激戦中の激戦でした。

 

 拉孟・謄越の戦いは「断作戦」の一部で、ビルマからの援蒋ルートを遮断するために日本陸軍それも福岡の部隊が中心となって奮戦した場所なのです。

 

 2000メートル以上の高地であり、戦争がなければその名前を一生かかっても聞くことのないような奥地中の奥地です。そういう場所に私たちの先人は使命感を持って赴き、文字通り死守しようとして玉砕した場所です。

 

 もし、ここが陥落し大陸の蒋介石の軍隊に英米からの物資が運び込まれるようなことになれば、大陸に展開する友軍が大いに損害を受けることになるからです。自分の持ち場を命を懸けて守る、これが本当の「一所懸命」です。最近は「一生懸命」と使う人が多いのですが、本来の日本語は「一所懸命」という鎌倉武士の心意気なのです。

 

 なぜ奥氏がここの生き残りの方に興味を持ったかという話がまた神懸っているのです。

 

 奥氏が裁判で自分が犯罪人となりながらも裁判所に吉田清治のうそを認めさせたので、韓国の慰安婦学会でももう吉田清治の名前は全く消えてしまいました。代わりに出てきたのがビルマの謄越の戦いの時に30人の朝鮮人慰安婦を日本軍が殺したというでっち上げの写真と説でした。

 

 それを知った奥氏はすぐに謄越に飛び取材をしたのです。行く前にここに数年留学していた人と出会い、その人を通訳として同行させたのも今回の発見の一助だったかもしれません。

 

 いろいろ取材する中で図書館で一冊の本を見つけます。そこには抗日戦争を推移を記した歴史書でした。日華事変のことが詳細に書いてあり、その4巻の一ページにある記述があったのです。

 

 それは謄越の戦いで唯一の生き残りだった吉野孝公という元衛生兵が戦後記した『謄越玉砕記』という本からの引用でした。そこに朝鮮人慰安婦30人を「日本にもう義理立てしなくてもいい」と言って逃がしたという記述があり、それをCHINAの歴史書の中に引用されていたのです。

 

 それで奥氏はその本を図書館で探し出しました。というより運命の出会いをしたのです。おびただしい数のそれもCHINA語で書かれた本の中からそれを見つける苦労は想像に難くありませんね。

 

 さらにあの悪名高き『従軍慰安婦』という言葉を生み出した左巻きの作家である千田夏光氏が『従軍慰安婦続編』という本の中で、この吉野さんのインタビューを掲載しているのですが、その内容が全くそのままの記述だったのです。

 

 つまり日本軍は同行していた慰安婦を逃がそうとしましたが、日本人の慰安婦は鉄兜をかぶって最後まで戦って亡くなりました。その際に朝鮮人の慰安婦に対しては「あんたたちは日本に義理立てすることないよ」といって逃がしたのです。

 

 そして吉野氏は後日捕虜収容所にいる時にその朝鮮人慰安婦たちと再会していたのです。

 

 つまり、先日韓国が新たな慰安婦カードとして出したビルマの朝鮮人慰安婦の問題は、たった一人の謄越の生き残りが出版した本により、嘘だということが証明されたのです。その本はCHINAの歴史書に引用され、また千田夏光の本によっても事実だということが認定されています。

 

 「千田夏光氏も吉野氏が語る強烈な事実の前に一片の創作が入る余地もなかったのでしょう」と奥氏。

 

 吉野孝公氏は残念なことに20年ほど前に鬼籍に入られましたが、その子供さんたち(とはいっても私より年上の方々ですが)と昨日は親しく長時間お話をさせていただきました。その時に取材に来たこの千田夏光氏のことも克明に覚えておられました。

 

 先日奥氏が一人で吉野氏の家を探し出し、息子さんと話したのがきっかけとなって、昨日吉野孝公氏の4人のお子さんたちと会う段取りになり、久留米に沖縄から飛んでこられたのです。

 

 その貴重な取材に立ち会わせていただきました。なんと幸運なことでしょう。

 

 吉野氏の敷地の入り口にはお堂が立ちその横には謄越の戦死者の慰霊碑が立てられています。亡くなるまで毎年慰霊祭を主宰されていたそうです。

 

 なぜ入り口に建てたのか? それはいつだれが来てもお参りができるための配慮でした。

 

 2000名以上の謄越守備隊の中で唯一の生き残りということで戦後たいへん苦しまれたそうです。子供さんたちも厳しく躾けをされ、褒められたことなどないとおっしゃっていました。

 

 ただお孫さんができてからは人が変わったように丸くなられたそうです。それを聞いて私も孫に対してメロメロなのでなんか気持ちがわかるような気がしました。「きっと肩から重荷を下ろされたのでしょう」というと、みなさん「そうだそうだ」とうなずいておられました。

 

 四人の子供たちは「お天道様に恥じない生き方を求め、厳しく、凛々しく接してこられたので、みなさん素敵な品のあるお顔をされていました。

 

 奥茂治さんはあの朴訥な語り口調で自分が見た謄越や拉孟の様子を語られ、時には声を詰まらせておられました。

 

 それを聞きながら、本当にこの人はご遺族と同じ目線に立ってお話をされる方であり、だからこそいろんな隠れていた情報にたどり着くことができるのだと確信しました。

 

 情報を得るためにそうするのではなく、ご遺族と同じ目線に立とうとされるので自然に情報が入ってくるのです。

 

 うわべだけの話ではなく、自分の足で丹念に調べ上げた資料を基に論理的に話される奥茂治氏はそこら辺の国会議員や評論家なんには足元にも及ばない凄味と迫力とそして人間的な温かさを持った人だということが今回ご一緒したことによりなお一層確認できました。

 

 日本語で書かれた資料だけでは国際的な歴史戦は戦えません。CHINA語で書かれた資料によって反証するという素晴らしい技術を私の今後の活動に参考にせよという配慮があったのだと思っています。

 

 人間的な温かさ、裏付けの裏まで取る徹底した調査、そしてそれを組み立てる論理性。何をとっても勉強になりました。

 

 田母神閣下には二人でご挨拶だけして失礼しましたが、今回の奥氏の取材に同行させていただいた経験を今後は大いに役立てようと思います。