ある世論調査で、朝日新聞が信頼できないと答えた人が8割を超えたそうです。
産経新聞は8%、毎日新聞3%(読む人がいない)ということでいろんな人を対象に調査したのではないかと思える数字です。
戦前戦後を通じ、朝日新聞は日本を悪い方に導いてきた新聞だと言えます。
まだ朝日新聞が日本の良識と勘違いされていた1960年代から70年代の頃。私は学生で毎日学生会館の新聞を数種類読むのが日課でした。
まずは、日経新聞。ディリーyomiuriという英字新聞。朝日新聞、西日本新聞や読売新聞。まだこのころは産経新聞は福岡では読むことができませんでした。
そんな中、朝日新聞の記者である本多勝一の「中国の旅」「北爆の子」など社会的問題を真正面からとらえた力作が次々と発表され、むさぼるように本に飛びついて読んだ記憶があります。
読みながら、気分がどんどん悪くなっていきます。そして自分が日本人であることが恥ずかしくなっていくような気がしてきたのです。
父は召集を受け、兵隊に行きました。努力家だったようで、軍隊の中での試験に合格し、甲種士官候補生となり、特務士官になりました。
大勢の戦友の方々が南方へ行く輸送船ごと沈められて海の藻屑になり果てた時に、父は内地で教育を受けていました。もし、父が勉強ができなければ私はこの世に存在しなかったのかもしれません。
戦後復員して炭鉱などで働き、夜間の大学へ行き、教員となり、そして福岡市立の中学校の校長先生はほとんどが福岡教育大学卒業生という中、校長を二つの中学校で務めました。
こういう尊敬する父がCHINA大陸で非人道的なことをしていたのかと本を読んだ直後は一瞬疑いましたが、日々の親父の姿を見ながらそんなことはないと思うようになりました。
おかしい、どこかおかしい。と日に日に疑う気持ちがどんどん強くなっていったのです。
そのころ私は英語を一所懸命に勉強し、海外の人とできるだけお話しするようにしていました。学生時代暇さえあれば、街で道に迷っている外国人を見つけては話しかけ、道を教えてあげたり、そこまで連れて行ってやったりしていました。
感謝されるし、英語の武者修行にもなるからです。
ある時、パキスタン人が困っていたので話を聞くと、自分の乗ってきた船がどこに停泊しているのかわからないということだったので、港湾事務所に連れて行き、その船を探してあげたことがありました。
彼はたいそう喜んで、船に乗れと言います。興味津々だったので、船に乗り込むとあまり清潔とは言えない船内でお茶やお菓子をふるまってくれました。数人の船員が出てきて仲間が親切にしてくれたお礼を口々にいい、これを食べるかとか飲むかとかとても好意的でした。
その時にふと感じたのです。
もし、私の父の世代がアジアで朝日新聞や学校で教えるように酷いことをしていたのなら、どうしてこのパキスタン人たちは私をこんなにも歓待してくれるのだろうかと。
1970年代に日本まで来れるアジア人はこのような船員を除いてはあまり多くありませんでした。来ることができた人は本国でもお金持ちに属するような人ばかりでした。
みな親切で、日本に対して好意的でした。
1976年にアメリカに40日間一人旅をしてきました。グレイハウンドバスでアメリパスという一か月間乗り放題のチケットを買ってほぼ一周してきました。そこでも多くのアメリカ人とも出会いましたが、最初の飛行機の横に座っていたのはタイ人。英語はとてもくせがありましたが、とても好意的でした。
テキサスで何日も日本人と合わず、日本語がしゃべれないでさみしくしていると韓国人の船員たちが日本語で話しかけてきました。子供のころ日本語で教育を受けたという50代の男性は、日本語に餓えた私にとても親切にしてくれました。
この旅でいろんな経験をしましたが、総じて日本人の若者の一人旅に対して好意的で親切でした。もしこの時の経験が悪いものだったら日本が好きにはなっていなかったでしょう。
どこに行っても親切でいろんな国の人と一所懸命にお話をした旅でした。
「あれれ、日本ってどこに行っても好かれているぞ。」と思うようになったのです。
その旅で日本のことをいろいろ聞かれるのですが、ほとんど答えられませんでした。英語や西洋の文化ばかり学んでいたので、自国の文化に関しての知識はなかったのです。
ですから、帰国後日本の文化や歴史に関しての本を読み漁りました。どうやったらこれを外国人に伝えられるかという観点から本を読んだ記憶があります。その時の膨大な読書量が今の知識の源となっています。
当然のごとく当時は今のようなネットとかありません。情報は新聞やテレビ、そして本しかありません。
新聞やテレビがこれだけ偏向していたなど夢にも思いませんでしたが、常に違和感を持っていました。「なんかおかしい」と。
先日亡くなられた渡部昇一先生の著書『萬犬、虚に吠える』と出会って、目からうろこ状態になりました。そこから私の日本大好きが大きく前進したのです。覚醒したと言っても過言ではありません。
どうして外国の人から日本人は尊敬されるかと調べていくと、明治期から海外で活躍した日本人はたくさん存在し、その人たちの郷土では誇りをもって後世に伝えていました。それらを調べれば調べるほど、日本が先の大戦で果たした役割の大きさがわかるのです。
大東亜戦争の緒戦、マレー半島攻略作戦がありました。普通の歴史書では日本軍は銀輪部隊(自転車)を使ってマレー半島をすごいスピードで南下していったと書いてありました。
しかし、ちょっと考えると軽装備で体がむき出しの自転車で行軍などおかしいとわかるでしょう。
イギリス軍も十分な装備の元に日本軍を迎えうったはずですが、日本軍は快進撃を続けていました。不思議だなと思い、いろんなマレー作戦に関する本を読んでいくうちにその謎が解けだしたのです。
イギリス軍の中に多くのインド兵の部隊がありました。日本軍はそのインド兵に呼びかけたのです。「君たちの敵は日本軍ではない」と。
どんどんインド兵は日本軍に投降し、イギリス軍は戦線が崩れ、退却を余儀なくされたのです。信ずべき友軍がいない状況が出現したからです。
そうやって調べていくと、日露戦争でロシア軍の中に侵略されて国が滅亡していたポーランド兵が最前線の部隊に配属され、日本軍と直接ぶつかるところに配置されていました。これも世界の戦史では当たり前のことで、投降部隊は被害の最も大きい最前線で使うのが常識でした。
そこに投降を呼びかけ、ロシア軍の最前線を歯抜け状態にしたから兵力や装備で劣る皇軍が大会戦ごとに勝利したのです。
もし、これらが日本の我欲だけで戦争をしていたら到底成し得なかったことがどんどんわかり始めました。
そんな中、プライベートでもベトナムやタイやマレーシアや台湾などに行くようになるとどこに行っても日本人は歓迎され、親切にされます。
そういう中、すっかり朝日新聞の言う贖罪意識は自虐史観のなせる業とみなす根拠などが肌感覚でわかるようになったのです。
それでも「井上は右だ」とか、「あいつは軍国主義にかぶれている」と長い間言われてきたのですが、一度覚醒してしまえばぶれません。
最近はネットでマスコミとくに朝日新聞の酷さがどんどん暴かれるようになってきました。
慰安婦の問題にしても、この問題をじっくり調べた奥茂治さんの話を聞けば聞くほどすっきりします。だから初対面とは思えないほどに奥氏とは息がぴったりと合ったのです。
朝日新聞がついた嘘により、どれだけの国益と名誉が侵害されてきたか。
先日もF2の後継機の国産化を断念などという飛ばし記事がありました。
記事のでどこをはじめに確認するようにしています。ああ、朝日か、ちょっと様子を見てみようと思えばいいのです。
安倍総理も名指しで朝日新聞を批判するようになりました。新聞を敵に回して堂々と戦いを挑む政治家は初めてではないでしょうか。
佐藤栄作氏が総理大臣の退任会見の時に、「新聞はどうぞ出て行ってくれ」といってガラガラになった記者会見室でテレビに向かって話すのを子供心に不思議だと思っていましたが、今になって佐藤総理の勇気がわかります。沖縄返還交渉でどれだけの苦労があったのかを読み聞きすればその感激ひとしおなのです。
トランプ大統領もアメリカのマスメディアと戦っています。
私たちも何が真実で何が嘘なのかをもっと知るべきなのです。
朝日新聞が言い始めた文書の書き換え問題も国会内だけの争いで終わりそうです。もうこれ以上は大きくならないでしょう。国民も全く関心がありません。時間の無駄としか言いようがありません。
今朝のテレビ朝日の放送も、この問題を取り上げるよりも北朝鮮問題を長々と取り上げていました。正常な判断だと思います。
どちらが国益に適うのか、どちらが国民の生命財産を守ることができるのか。
これでも朝日新聞を購読する人がいるのが不思議です。私の周りには誰もいませんが、まだ購読している人がいるのですね。
嘘を垂れ流し、日本を貶めるための情報をねつ造してまで流す朝日新聞はもう消えてなくなるべきだと思います。これも国民一人一人の意識の問題です。「朝日なんて」と言い始めてもう数十年、だから私の周りには朝日新聞を購読している人がいないのです。
覚醒した国民運動としてひとりが一世帯の購読者を変えさせれば、もっと激減するはずです。それを見て周りの新聞も態度を改めると思います。願わくば、産経新聞の購読者数が今の3倍になれば、もっと日本は良くなると思っています。特に九州ではもっと増えなければならないと思っています。
現代の日本に不要になった朝日新聞は、読む価値もありません。不買をもっと周りに呼びかけましょう。