奥茂治氏の慰安婦問題帰国報告会を実施しました。その1. | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 奥茂治氏は武士(もののふ)です。

 

 この言葉が話せば話すほどしっくり感じられました。綿密な作戦、でっかい肝っ玉、そして正々堂々とした真摯な態度。どれをとっても今までにないタイプの人物でした。

 

 嬉しいことに話せば話すほど波長が同じで初対面とは思えないほど分かり合えました。すごく楽しかった二日間でした。

 

 事の始まりは田母神閣下支援で知り合った鹿児島の今村氏からの電話でした。奥茂治氏が韓国で孤軍奮闘しておられる。支援の輪を広げたいから協力してほしいとのこと。

 

 今村氏も私も田母神閣下がどんな状態でも支持する気持ちを微動だにしなかったのでとても信頼関係にあります。いったん自分が信じた人が世間からどんな評価を受けようが、本人とじっくり話し合えば不当であるということがわかるので、田母神支持だということを一切変えませんでした。決して盲信ではありません。

 

 私としても奥氏のために何かができないかと思っていた矢先ですから、さっそく福岡で帰国報告会を計画しました。

 

 しかし、そのためには一か月を切る時間しかありません。

 

 そこでいつもの仲間である福岡県郷友連盟の稲葉事務局長とアジアプランの永島氏に相談し、実施するための協力を要請、お二人は快く即決、行動に入りました。

 

 主催を福岡県郷友連盟にし、福岡文化政経塾の塚田会長を巻き込み、集客に奔走しました。

 

 おかげさまで当日は寒い中120名を超える大勢の人が筥崎宮へ集まっていただき盛況のうちに会を進行することができました。

 

 まだ奥氏が韓国におられるときにご挨拶の電話を入れました。

 

 「福岡の井上と申します。今回お世話させていただきます。福岡に来られたらどこか行きたいところはありますか?」

 

 「福岡に行ったら最初に筥崎宮へお参りしたいのですが・・・」

 

 「えっ、講演の会場は筥崎宮ですが・・・」

 

 両人とも電話口で「ええっー!」と歓声。

 

 もうここから二人の息はぴったりでした。翌日は宗像大社へ行きたいとのこと。ご存知のように私は神社の本を書いている人間です。ご案内するのに一番適した人物です。ここで奥氏の魂が融合したと感じました。

 

 12時に福岡入りされましたが、私は他の場所で講演していたので、永島氏とビデオ撮影でいつもお世話になっている曽川夫妻に出迎えをお願いしました。奥氏の要望で博多ラーメンをご馳走したそうです。

 

 奥氏も「やって日本に帰ってきた気がする」とおっしゃっていたそうです。

 

 15時45分にホテルにお迎えに行きました。

  

 ここで初対面なのですが、一向に初対面とは思えないほどの近さを感じました。昔からの友人をほいっと車に乗せるみたいな感覚で筥崎宮へ向かいました。

 

 車中でいろいろ話をしていくと田母神閣下をはじめとし、エルドリッヂ博士などたくさんの共通の友人がいることがわかりました。

 

 筥崎宮では郷友連盟の吉田会長や福岡文化政経塾の塚田会長をはじめ、清酒「庭の鶯」の山口さんなど10人ほどの面々で正式参拝をしました。寒い中でしたが、背筋がピシッと伸び、祖国のために闘ってこられた奥氏を筥崎の神様も大歓迎されているご様子でした。

 

 ここで稲葉さんや福井さんという会場設営隊は会場に行かれスタンバイをされ、残りは筥崎宮の応接室で歓談していました。ここですこしでも話を聞いておくことが、のちの質疑応答の際に講演で漏れた貴重な逸話を知る機会になるのです。

 

 会場に行くと続々と寒い中熱い心を持つ方々がお見えになられます。

 

 もちろん国旗に敬礼し、国歌を歌って会をスタートしました。

 

 郷友連盟の吉田会長のいつものように熱い挨拶の後に奥茂治さんが朴訥にしかし自分の足で集めた確かな情報をもとにこれまで戦いの足跡を語られました。

 

 吉田清治は目立ちたいだけの大バカ者であったこと。

 

 その陰に福島瑞穂を代表とする旧社会党の反日勢力が暗躍していたこと。

 

 サハリンに残された朝鮮人を日本政府の35億の予算を付けたことで慰安婦問題はお金になるということがわかりこの問題が起こってきたこと。そこには村山富市という売国奴が総理の座に就いたことで実現したこと。

 

 そのお金で韓国に10棟のアパートを作り、家賃・光熱費はただ、生活費は月6万円支給され、男性は朝から麻雀三昧、女性は花札三昧で毎日を過ごしているそうです。

 

 これはサハリンに残っていた日本人は日本政府が引き揚げさせましたが、韓国政府はそこまでの余力がなくほっておかれたのです。人道的支援というきれいごとによって多額の日本の税金が売国奴議員によって投入されました。その根拠は「強制連行」です。

 

 もうお分かりでしょう。「従軍慰安婦」「徴用工」問題の原点がここにあったのです。

 

 ここで日本政府が毅然とした態度で日韓基本条約で解決済みだと突っぱねればその後の問題はこれほど大きくなっていないのです。日本的温情が次の火種を次々に大きくさせていきましたが、これがこの問題の火元なのです。

 

 今回奥氏が韓国で裁判になった慰安婦の碑の書き換え問題でも、丹念に吉田清治のことを調べていくうちに吉田清治の実の子と知り合いになり、何度も話すうちに奥氏と大高未貴氏の誠実な心に触れて心を開き、自分の父親のせいで日韓の間にとげが刺さっているのなら、そのとげを抜いてほしいと依頼され、行動に及んだのです。

 

 吉田清治は実の子以外にも数人の韓国人を養子に迎え日本国籍を与えています。

 

 この実の子は表に一切出ず、結婚もせずに親父のしたことによる罪を償っているでした。この人も吉田清治の直接の被害者だと言えるでしょう。

 

 初めは碑を壊そうとしたそうですが、実際に見てみるととても大きく頑丈なものでした。国立墓地の中にある碑を簡単に人間の手だけでは壊せないことがわかりました。そこでその碑文の上に別な碑文を張り替えることにしましたが、そのプレートの重さが30キロ。

 

 夜間はカギが閉まりますから、その周辺を丹念に調べてカギのかからないところを発見し、夜間侵入して碑文を張り替えたそうです。

 

 碑文は読みやすいように斜めになっていたので、その上に接着剤をたっぷり塗って上から三分割した碑文を張り替えようとしたのですが、乾くまでずるずると落ちてくるので、自然石をいくつかおいてストッパーの役割をさせていたそうです。

 

 その犯行後、すぐに出国したのですが、何の問題にもならなかったので、10日後また韓国へ行ってその現場を見てみるとなにも変化もなく奥氏が滑り止めに置いた石もそのままだったそうです。だれもその変化に気づいておらず、仕方なしに帰国後手紙を書いて犯行を自供したところ、韓国の警察から自宅へ電話がありました。

 

 奥氏が「奥です」と答えると、「この電話番号は嘘ではなかったのですね、では住所も正しいのですか?」とびっくりしたように韓国の警察官が聞いてきたので、「日本人は嘘をつかない」と答えたそうです。もちろんここで会場からは拍手が起きました。

 

 その後、召喚状が来て警察官の半分が非番でいない土曜日に入国し、身柄を拘束されました。警察はとても慌てていたそうです。

 

 逮捕は、飛行機で韓国の領空に入るとすぐにCAが来て一番初めに飛行機を降りてくださいと言われ、そこから身柄が拘束されたことになります。

 

 武勇伝はまだまだ続きます。続きはまた次回!