愛国心について考える、結論。 | 井上政典のブログ

井上政典のブログ

 歴史を通じて未来を見よう。

 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 ここ数日、過則勿憚改さんとの議論にいろんな読者の方が読んでいただいたり、直接コメントを頂いたりしてきました。そのレベルの高さにブログ主として嬉しく思います。ただ見守っていただいた方々も愛国心について深刻に考えていただいた思います。

 

 私はここでの議論で相手を論破しようとか、ねじ伏せようとかは全く考えておりません。この議論を読んでいただいている方々の中に疑問や問題点を生じさせ、結論はでなくても問題意識を持つことができれば大成功だと思っております。

 

 ネット上ではありとあらゆる情報が飛び交い、真実を知っている人間から見ればよくこんなことが書けるなというものの多数あります。つまりこれらのネット上の情報は味噌も糞も混在している状態なのです。

 

 それをほとんどの人が自分がこうだろうという前提に沿った情報だけを選択し、それを金科玉条の様に振りかざして他人を攻撃するのです。

 

 では私が常に正しいのかと言われると残念ながら私も完全無欠な人間ではないために誤解もミスも多々あります。

 

 それを避けるためにできるだけオープンな議論ができるようにここのコメント欄を活用しているつもりです。

 

 また知らないことは知っている人に聞くようにしています。どうせ聞くならよく知っている人に聞くようにしてきました。それをずっとやり続けていると数種類の分野で日本の権威と言われる人とつながりができ、直接疑問に答えていただくことができるようになりました。

 

 原子力関係では奈良林直先生や出光一哉先生等々それぞれの分野において一番詳しい人から話を聞くことができます。

 

 防衛関係では、田母神閣下をはじめ野口裕之氏、それから退役・現役の将軍閣下たちから。軍事史に関しては荒木肇先生。

 

 朝鮮半島関係では呉善花先生など書き始めれば枚挙にいとまがありません。私の身近な人たちがその事実を証明してくれます。

 

 別に自慢しているわけではありません。ただこういう先生に直接質問ができるということは、考えに考え抜いて自分の考えを構築してからぶつけるので、相手もこちらの真剣さが分かってもらえるのだと思います。

 

 私が絶対しない質問は「○○についてどう思いますか?」というような質問です。

 

 以前、永遠のゼロの山崎貴監督の記者会見に出席させていただいた時に、マスコミの記者から出る質問がこの手の質問で、「ゼロ戦についてどう思いますか?」でした。

 

 山崎監督もどこでもこの質問が出るようで、さらさらとあたりさわりのない答えを返していました。

 

 私も質問する機会が貰えたので、「国ために死ぬことをどう表現されたのですか?」とお聞きしました。

 

 すると山崎監督はしばらく腕を組んで考えておられました。しばらくしてからおもむろに「私はエンターテイメント作品を作りました。作者の思いはいろんなところにちりばめています。観る人がそれをご自由に持ち帰ってください」と答えられたのです。

 

 私はその答えになるほどと思いました。今までの日本映画は作り手のイデオロギーを観客に押し付けてきたために不快感や息苦しさが付きまとって映画としてのエンターテイメント性が失われて、観客が減っていったと思っていたからです。決してテレビの普及の影響ではないと思っていたからです。

 

 「愛国心」が今回のテーマです。

 

 愛国心を監督がこうだと決めつけて映画を作ったら同調できない観客は失望するだけでしょう。でも、自由に持ち帰ることができたら映画として成功となるのでしょう。永遠のゼロは大好きな映画の一つとなりました。

 

 ただ、詳細に関してはおかしいぞと思う所がたくさんあります。でも、おおむねよくできたおじさんが涙を遠慮なく流せる映画だと思っています。

 

 「親に対してなぜ敬わなければならないのか?」という質問に対して、私の答えは「当たり前のことを聞くな」が最初の答えです。少々屁理屈をいえば、「この世に生を授けいただき、育み育ててくれたから」だと思います。親がいなければこの人生自体が始まっていないのです。だからいくら事情があるとはいえ親を軽蔑するような発言をする人は信用しません。そうであるならば黙っていればいいのです。

 

 「国家に対してなぜ愛さねばならないのか?」という質問に対して、私の答えはこれも「当たり前のことを聞くな」です。なぜならば日本国民として生まれていなかったらこんな自由な生活や豊かな生活は送れなかったからです。

 

 「愛国心はどこからくるか?」という質問に対して、私の答えは「どこからくるかわからない、でもなぜかそこに必ずある」というものです。

 

 つまり、愛というものの実態を言葉で説明できるでしょうか。

 

 男女が出会い一目で恋に落ちるという場面が多々あると思います。だから小説や映画になるのです。

 

 あのシェイクスピアの名作「ロミオとジュリエット」でも、敵同士の家柄の男女が満足な会話を交わすことなく舞踏会で仮面をつけて踊っただけで胸が高鳴り、自分の命を燃やし尽くすほどの恋になるのです。

 

 それを世界中の人々が「こんな荒唐無稽な話あるものか」とせせら笑わず、その悲劇に心を打たれ、涙を流すのです。

 

 さすがに映画では美男美女が演じます。私の青春時代はあのオリビアハッセ―が演じるジュリエットの美しさに心を惹かれた時代でした。

 

 現実社会では手をつないでいるカップルを見るとなぜこんな男(女)を好きになっているのかと疑問に思う事も多々あります(人のことは言えませんが・・・)。

 

 男女の愛というものは得体が知れず、実体のないものなのです。動物としての本能がそうさせるのでしょうか。時に男女ではない愛の形も存在するようですが、私にはまったく理解できません。

 

 親子の愛というのは、これまた不思議ですね。

 

 コウノトリという今話題のテレビ番組を偶然見た時に次のようなシーンがありました。妊婦が心疾患があって通常のお産に耐えられないと判断した医師たちが無痛分娩を計画していたところ、その妊婦の友人が「お産のあの痛みがあって生まれてくる子供に愛情が生まれるの」と吹き込んだために、その妊婦がその体の状態では危険な普通分娩をすると言い出した時のことです。

 

 先生たちがそうではないですよと説得し、その妊婦が納得した時に父親になる青年が「その痛みが無ければ愛情がでないって、男はどうするのよ」というようなセリフがありました。

 

 男にとって10か月前のことを覚えているわけではありません。でも、子供が生まれてきたらその子供に対する愛情はひとしおのものがあります。それは何か不思議で得も知れないものが自分の手の中で息をしているのです。その命はか細く、手を離した瞬間に床に落ちて砕け散ってしまうほどです。

 

 そこに父親としての責任と愛情がふつふつと湧きいでてくるのです。この子は俺が守ってやらねばというとてつもなく大きな責任感です。それを愛情と置き換えても何らおかしくないと思います。

 

 国家に対してもこの幸せな家庭が持てることの喜びを支えてくれているのは国家が安定しているからです。かといって国家が何をするということもありません。ただ自分が家族のために生活を営む器を提供してくれているだけかもしれません。

 

 その器が他国の現状を知れば知るほどとてつもなく重要に思えてくるのです。

 

 祖国に不満ばかり言っている人にとってこの器は全く見えていないらしく、国家自身が愛される努力をしなけばならないと言われるのですが、そこにものすごく不快感を持ちます。

 

 人が持っているものだけを欲しがる子供がよくいますが、日本国民は手に一杯おもちゃを持っている子供と同じです。それでも他の子供が持っているおもちゃが欲しくてならないのです。その人間の基本的な心理を巧妙に操って左巻きの扇動者達が普通の日本人を反日運動に引きづり込んでいます。

 

 以前講演会でご一緒した沖縄県出身の戦争体験者のおばあちゃんが普通に「牛島閣下」と呼ばれたにもかかわらず、今沖縄県で活動している反日活動家の山城氏のことを素晴らしい人だと評価していたことに驚きを隠せませんでした。

 

 今一度自分の手に何を持っているのかを確認しましょう。そのためには他国の現状をよく知らなければなりません。なぜ現在の日本の若者が留学をしたがらないのか?それは日本が物質的に豊かになりすぎているからだと思っています。

 

 私が青年時代はアメリカの物質文明に憧れていました。でも年齢を重ねていくにしたがって日本の良さをつぎつぎに発見することができ、アメリカよりも数段日本の方がいいことがわかりました。海外旅行に行って帰ってくると旅先でどんなに素晴らしい体験をしようとも自宅で入る風呂は格別なものがありませんか。

 

 どんなにおいしいものを外で食べようが、自宅で食べる妻のお茶づけが一番しっくりくると思うのは私だけでしょうか。

 

 これを当たり前と思うか、有難いと思うかによって人生の豊かさが大きく変わっていくことに気づきました。

 

 これは私の考えなので皆さんに押し付けるつもりは毛頭ありませんが、日本の歴史や文化や信仰を研究する身としてはこれが一番しっくりきます。

 

 私は日本が大好きです。それはあとから好きになったではなく、好きだったことを改めて認識したのだと思います。

 

 なぜ日本が好きなのかと問われると「日本が好きやけん、好いとったい」と博多弁で答えるでしょう。