仏像に対しての敬意はないのか、韓国太田地裁判定。 | 井上政典のブログ

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 この記事を読み、怒りのため不調だった身体からエネルギーが噴き出し、復活しました。
 
>>>引用開始
 
 大田(韓国中部)時事】長崎県対馬市の観音寺から2012年に盗まれ、韓国に運び込まれた県指定文化財の仏像「観世音菩薩坐像」について、「かつて所蔵していたが略奪された」と主張する韓国の寺が韓国政府を相手取り、仏像を引き渡すよう求めた訴訟で、大田地方裁判所は26日、韓国の寺の所有権を認め、仏像を引き渡すよう命じる判決を下した。ーヤフーニュース
 
>>>引用終わり
 
 韓国の司法はいったいどうなっているのか?
 
 先週末、拓殖大学教授の呉善花先生と産経新聞九州総局長の佐々木類氏との対談をコーディネートしましたが、もしこのニュースがその前に入っていればこれをトップニュースでお二人に振ったことでしょう。
 
 いくつかの問題点があります。
 
 まず、この仏像は対馬のお寺に500年間にわたって大切に安置され、敬われてきたものです。それを泥棒が持ち出して韓国内で売りさばこうとしたときに押収されたものです。
 
 この仏像が対馬にお渡りになった理由を「倭寇」だとしているようですが、当時の李氏朝鮮の仏教弾圧が影響したとなぜ考えないのでしょうか。
 
 ここでは歴史研究家のブログらしく当時この仏さまが対馬に御移りになった時代背景を考えてみたいと思います。
 
 韓国内に残る仏教遺跡や仏像がどれくらいあるのかをご存知でしょうか?
 
 ほとんどありません。なぜなら、李氏朝鮮が徹底的に仏教を弾圧するからです。
 
 14世紀後半に李成桂という高麗の北方を守る武将がいました。当時高麗は政権末期で国が乱れに乱れていました。
 
 そして高麗王朝があまりにも貧乏だったのです。それは有力な豪族が喜捨としてお寺を建立し、そこを自分の財産を移すために、税収が王室まで納入されなくなったのです。
 
 各勢力が私兵を保有し、それを維持するための費用が掛かるためになおさら税金逃れに終始していました。その最たる手段がお寺だったのです。
 
 日本でも奈良時代に同じことが起きました。僧侶になれば税金が逃れられるということで貴族の多くが僧籍を勝手に名乗り(私度僧)、私有財産をお寺で隠していたのです。
 
 そこで伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと聖武天皇さまは栄叡、普照らが唐へ派遣され、当時僧侶の戒律を伝え研究する宗派である南山律宗の大明寺の住職であった鑑真の下を尋ね、戒律を伝えるよう懇請されました。
 
 戒律とは自分に誓うものを「戒」といい、僧侶の間での規則を「律」と言います。
 
 当時授戒を授ける分野で唐の国の第一人者の鑑真は異国から来た若い層の切実な願いに耳を傾け、そこまで真摯な態度で仏法を広めようとする気持ちに心打たれ、快諾します。
 
 そして居並ぶ数多くの弟子たちに正しい仏法伝授のための栄誉ある難仕事を引き受けるのか問うのですが、渡航に命の危険も伴うので誰も名乗り出ませんでした。
 
 それを見た鑑真は激怒します。はるばる異国から真の御仏の教えを学びたいという若い留学僧の願いに報えないとはどういうことかと、半ば弟子に失望してならば自分が行くと言い出すのです。
 
 しかし、鑑真は既に国の宝というような存在の人間です。それをおいそれと唐が手放すはずがありません。そしてそれをされてしまえばみすみす国の宝が去ってしまうことを黙認した高弟たちも皇帝の怒りにふれ無事ではおられません。
 
 そこで密告などで鑑真の渡航を阻止しようとするのです。 
 
 弟子たちのそのような行為に仏法者としての不屈の魂が沸き起こります。それから10年間計5回もの渡航に挑戦し、やっとのことで鹿児島の坊津にたどり着くのです。
 
 66歳と高齢の鑑真はその難行のために失明してしまいます。
 
 天平勝宝5年12月26日(754年1月23日)太宰府に到着、観世音寺に隣接する戒壇院で日本で初の授戒を行います。その後奈良の都に上り聖武天皇以下の歓待を受け、東大寺で400名に菩薩戒を授けるようになります。
 
 長々と書きましたが、これが鑑真和上です。
 
 この鑑真和上をここまで突き動かしたのはいったい何でしょう?
 
 それは聖武天皇をはじめとする日本人の仏法に対する真摯な思いが伝わったからだと思います。よく韓国が韓国が日本に仏教を教えてあげたと言いますが、本当にそうならば、この栄叡らは朝鮮半島で授戒を授けられる僧を探すはずでしょう。
 
 当時の日本人は何が本物かをわかっていたのです。
 
 そうして日本は私度僧(勝手に僧を名乗る人)を防ぎ、国家の屋台骨を揺るがすような税の不正が無くしたのです。
 
 でも、朝鮮半島の高麗ではそういう熱意も見られずお寺が反政府活動の拠点になるほどでした。
 
 日本でもその後僧兵の増加等で一時乱れましたが、織田信長の比叡山焼き討ち等によって見事に政教分離が果たされ現在に至っています。
 
 李氏朝鮮を建国した李成桂はこの事態を深刻にとらえ、仏教の弾圧に傾いていくのです。
 
 儒教(朱子学)を国教としたために、それ以外の教えは邪宗となり弾圧の対象となります。
 
 李氏朝鮮時代の僧侶の身分は「賤民」扱いで、都に入ることさえも許されませんでした。日本のようにたくさんあった宗派もどんどん統合されていき、禅宗の一派である曹渓宗だけになっていくのです。
 
 その間、寺院は衰退し、仏像は取り壊されていくのですが、その時代に仏様のみを案じた信心深い人が対馬に運び入れ、それを対馬のお寺で大切に安置し現在まで大切にされてきたというのが歴史的な背景です。
 
 これはちょっと調べればすぐにわかる事実です。
 
 李氏朝鮮の仏教を弾圧した事実を知らない韓国の知識人はいないと思います。韓国の法曹界の人たちも立派な知識人だと思います。
 
 その人たちが韓国の寺にこの仏様の所有権を認める判決を出したというのがどれだけくだらないことなのかがわからないのでしょうか。
 
 このことが世界中に広まれば、かつての大英帝国やフランス、そしてアメリカは徹底的に激怒することでしょう。彼らは世界中の富を略奪して回ってそれを大英博物館やルーブル博物館等に戦利品として展示しているわけですから。
 
 ただ私がとても悲しいと思うのは、この仏様が日本憎しの対象となっていて、本来の仏様が集める信仰心を韓国人が持っていないということです。
 
 よく外人が木で作った人形を拝むことは偶像崇拝を禁じられている自分たちからしてみれば奇異に映ると言われますが、私はたちはその木の人形を拝んでいるのではなく、その仏像を通して本来の御仏の教えに頭を垂れているのです。
 
 所有権がどうのこうのという前にこの仏様の前で手を合わせ、穏やかな心で仏様の声を聴こうとする努力が必要なのではないでしょうか。