「国民に正しい歴史的観点を教育」を望むとCHINAの外務省が日本国へ求めているようですが、さすが名官房長官の菅さん、「政府としてコメントを控えたい」と軽く一蹴!
南京問題が捏造だとするアパホテルの経営者の著書が部屋に置いてあることに対してCHINAの反応ですが、そっくりそのままお返ししたいと思います。
1937年の南京事件と言われる虐殺事件はありませんでした。
当然、戦時であり第二次上海事変という日中両軍合わせて85万の兵力が戦った事変の最後の戦いになるのでそれなりの死傷者はでていますが、皇軍が無辜の一般市民を虐殺することなどあり得ません。
当時の様子を知るためには、ウキペディアで「第二次上海事変」を検索し、それを印刷し、自分で年表を作成してみるといいでしょう。
時系列で捉えると何が起こったかが明瞭に把握できます。
そしてその背景をちょっと想像するだけでいろんな世界が見えてくるのです。
たとえば蒋介石の国民党軍が持っていた武器はほとんどがドイツ製です。
1937年7月から60万人の部隊を動員して軍事作戦を行うためには数年前から巨額の武器を輸入し、将兵を訓練し、弾薬を備蓄せねばなりません。
誰が儲かるか? それはドイツです。
では何のために? 当時のドイツの様子をちょっと調べるとそれが見えてきます。
ヒトラーが政権を奪取して1935年3月16日に再軍備宣言を行っています。第一次世界大戦の敗戦後ドイツは丸裸にされ、多額の賠償金をむしり取られ、二度と立ち上がれないようにと国際社会が制裁を加えるのです。
そのためドイツ国民は塗炭の苦しみを味わいます。政府に対して不平が充満し、弱腰の政府に代わって強い政府を求めるのです。その背景によってヒトラー政権が誕生しました。
そしてこの再軍備宣言を行うのです。
しかし、ドイツにはお金がありません。武器を造ってもヨーロッパではだれも買ってくれません。そこで目を付けたのがCHINA国民党軍です。
CHINA人は国家に対して忠誠心なんかありません。お金で雇われる傭兵のようなものです。だから、自分たちが優勢な時は一気に盛り上がりますが、ひとたび劣勢になると蜘蛛の子を散らすように逃げ出すのです。
だから国民党軍部隊の後ろには「督戦隊」という機関銃部隊が存在し、その銃口は自軍の兵士の背中に向けられており、逃げ出してくる将兵を容赦なく撃ち殺す部隊なのです。
そのため優秀な兵器が必要だったのです。
ドイツ製の兵器はやはり優秀です。大量の発注によってドイツ国内の兵器生産は活気づきます。工場はフル稼働し、大勢の労働者の職を提供します。技術革新も進み、新たな強力な兵器も作ることができました。
これがヒトラーが国民の人気を得た政策の一つです。
でも、一通り行き渡ると売り上げが止ります。すると、その兵器や弾薬の消費を考えるのです。
そこで軍事顧問団団長のファルケンハウゼンは「日本が第一の敵で、共産党は第二の敵」とし、優勢な武器を使用して数的にも少数の日本軍陣地を奇襲し、撃滅することを蒋介石に進言します。
これにより大部隊が一斉に軍事行動をした場合、弾薬や兵器の消費量はどうなるでしょう。
そしてその補充により、またドイツの国内生産は潤い、ヨーロッパ戦線を戦うだけの軍備が拡張できたのです。
もうお分かりだと思います。ドイツにそそのかされた蒋介石は日本軍と干戈を交えます。
盧溝橋事件(7月7日)が共産党の工作員の手で起こりますが、日本政府はまだこの時も何とか戦線を拡大せずに穏便に収めようとします。
しかし、CHINA軍の挑発は止まらず8月9日大山中尉惨殺事件が起こります。
上海市長はもはや自分には何もすることができないと日本軍に漏らしたため、戦力の増強を図りますが、8月12日蒋介石は正規軍3万を以て上海共同租界の日本人地区を包囲します。
対する邦人を保護するための戦力は4千名弱。
一方的な陸と空からの攻撃に劣勢の日本軍は防御に徹します。
しかし、蒋介石軍の意図が開戦だとし、8月15日閣議で「支那軍膺懲(支那軍を懲らしめる)、南京政府の反省を促す」と動員命令が下り、松井岩根大将を司令官とする上海派遣軍が派兵されました。
九州や台湾からの航空機による渡洋攻撃も加え、上海方面の制空権を確保し、次第に蒋介石軍を撃退し始めます。
航空機を輸入に頼る蒋介石空軍など日本の航空部隊の敵ではありません。
しかし、優秀なドイツ製兵器を持ちドイツの軍事顧問団に指導された蒋介石軍のトーチカをなかなか破壊することができずに松井司令官の上海派遣軍は損害を出していました。
そこで派兵を渋っていた石原莞爾部長を更迭し、兵力の増強を決め第10軍を杭州湾に上陸させ退路を断つ作戦を実施、これによりもともと忠誠心のない蒋介石軍の部隊は動揺し始めます。
それでも開戦から11月8日までの日本軍の死傷者は4万名を超え、この戦闘の激しさを物語っています。
問題はここからです。CHINA軍将兵が退却するときに自国でありながら自国民から略奪・放火・強姦など悪逆の限りを尽くしたのです。
兵力差は10倍ですが、精強な皇軍は寄せ集めのCHINA軍を蹴散らしました。
そのCHINA兵が南京に逃げる途中で極悪非道の限りを尽くしていくのです。
このことは外国の駐在武官も目撃しており、日本軍の部隊の規律は保たれていたという証言もあります。
そこから南京への追撃戦が始まるのですが、一度崩れた戦線を立て直すのは精強な軍隊でも難しいのですが、もともと弱い蒋介石軍は立ち直ることなく軍服を脱ぎ捨てて民間人に紛れて逃げようとします。
蒋介石も南京を捨て、防衛司令官唐生智も逃げ出し、指揮命令系統は消滅し、ただの暴力集団となるのです。
武器を持ったCHINA人がどれだけ怖いかは通州事件や1927年の南京事件などを見ればすぐわかるのですが、戦後の教育の中でそこは一切タブーになっております。
ネット上でだんだんそれが焦点を当てられてきていますが、まだまだここら辺は光が当たっていないところだと思います。
ここの所をCHINA政府は自国民に教育しているのでしょうか。
基本的にCHINA人は自分さえよければという国民性です。
日本人のように「あいみたがい」というどんなときにも他の人を思いやる気持ちなどほとんどの人が持ち合わせていません。
たまにそういう人がいると「聖人君子」となるわけですが、この基準を日本人に当てはめるとほとんど日本人がそれに該当すると思います。
南京入城後は大した混乱もなく、すぐに治安は回復し、市民にも笑顔が取り戻されました。
戦闘が始まる前の南京の人口は20万人、虐殺したのが30万人とCHINAは主張していますが、数か月後の南京の人口は25万人と記録されています。
CHINAは無秩序な国ですが算数もほかの国と違うようです。
私はこの虐殺があったと主張する人と議論するときにはいつも「どうやって殺したのですか?」と聞くようにしています。
日本軍は南京までの追撃戦で弾薬のほとんどを使い果たし、その後の組織的な行動がとれなくなってき始めていました。
30万人も殺す弾薬はありませんし、極寒の南京(12月)で大地も凍っている時にどうやって埋めたのでしょう?その遺体はどこに?
1938年、蒋介石は300回以上も外国の新聞記者との記者会見を開き、日本の侵略について非難していますが、その中で一度も南京のことには触れていません。おかしいでしょう。
この問題が出てきたのは東京裁判のときですが、それまで語られることはありませんでした。
ただ60万人動員された蒋介石軍の死傷者は20万から30万人と言われています。指揮命令系統が消滅したためにはっきりとした数字がわからないのが現状です。
南京で30万人死んだ?将兵の被害が30万人だったらわかります。
一般市民も多数亡くなっています。でも、それはほとんどが蒋介石軍の乱暴狼藉によって亡くなっているのです。それを日本軍のせいにするのは止めてほしいものです。
日本側は最終的に6万人余の死傷者が出ました。それだけ激しい戦いだったのです。
これらのことをアパホテルにおいてある書籍には書かれているのですが、これのどこがおかしいのでしょう?
CHINAの常套手段は、まず大勢行って大量にお金を使う。その対応に設備投資をさせてその後一斉に引く。
すると困った業者や地方自治体は懇願して来てもらうようにお願いする。そして優位に立って無理難題を押し付けるという具合です。
アパホテルには、CHINA人それに呼応して一部の韓国人が泊まっていないそうです。
これほど安全なホテルはないではありませんか。これで安心してアパホテルに泊まることができます。
福岡市に限って言えば、ホテルの部屋数が足りません。
週末は予約をとるのが難しく、先日も嵐のコンサートがあっていた時はどこのホテルも満室でした。
これでCHINA人が泊まらなけば、その事情は好転します。
日本が嫌いだったら来ないでほしい。
日本が好きだったら来てください。歓迎します。
ただそれだけのことです。
今回の事件で日本国民が一人でも多く第二次上海事変のことを知ることのきっかけになれば私はとても嬉しく思います。
アパホテルはこれから最も安全なホテルとして多くの日本人客が利用することでしょう。
がんばってください!