昨日は左巻きのシンポジウムに参加してきました。 | 井上政典のブログ

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 歴史を通じて未来を見よう。

 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 月刊日本という愛国者の雑誌と思っていたところの主催で、なおかつ元自民党参議院の重鎮の村上正邦氏の会に、村山富市元総理、矢野絢也元公明党委員長、辛淑玉女史、美根慶樹元日朝国交正常化日本政府代表、伊藤信勝田川市長の5人がパネリストで月刊日本の南丘喜八郎編集長が司会でした。

 冒頭主催者の村上正邦一般社団法人「躍進日本!春風の会」の代表挨拶に、故菅原文太氏のお話が出て、反原発を語り始めました。

 あらしまった、全く場違いの所に来てしまったと思い始めました。あとで聞くと会場の方々の中に私と同じ思いの人が多数おられました。

 そして、村山富市元総理の村山談話を出すに至っての言い訳が始まりました。

 当時社会党の委員長だった村山富市氏がどうして総理になったかを若い人のためにちょっと解説します。

 1955年に自由党と民主党が合併して自由民主党ができ、日本の保守本流と標榜し、改憲を党是としてきました。

 その対抗馬が日本社会党で完全な社会主義を信奉する人たちが集まり大きな勢力を持っており、戦後の混乱期に政権についたこともありました。

 しかし、野党として自民党の足を引っ張り、ごねてごねて最後に足して二で割る日本的な解決方法で自民党を妥協させ、それを巧妙にやったものだから、日本は徐々に左傾化していきました。

 1993年、新党ブームで自民党からも大量の脱党者が続出し、そしてついに宮沢内閣の時に不信任案が可決されて戦後の55年体制というものが崩れ、自民党が下野しました。

 この時に大活躍したのが小沢一郎であり、田中角栄の最後の愛弟子だったが自民党を追い出されてその恨みから政治信条をかなぐり捨てて復讐の鬼と化したのです。

 その時の総理は細川護熙氏、今から20年ほど前のことであり今年の都知事選に細川氏が出てきた時には老いさらばえて醜くなった姿を見てたくさんの人が時の流れの恐ろしさを感じたのではないでしょうか。

 下野した自民党は何とかもう一度政権を取り戻すために寄せ集めの与党を分断させます。その時に取った秘策がなんと自民党・社会党・新党さきがけの連立政権でその総理大臣に社会党委員長の村山富市氏が指名されたのです。

 そして総理大臣の時に今まで反対していた自衛隊や日米安保を認めたために、急速に社会党に対する左派の求心力が無くなり、退陣後日本社会党から現在の社会民主党に党名を変更、その時に自民党からさきがけの代表幹事をしていた鳩山由紀夫が新党構想を立ち上げました。

 それが民主党です。その時に旧社会党の党職員が大量に民主党に移り、事務的なものがすべて社会党の流れになっていきます。

 そして忘れてならない阪神淡路大震災がこの村山氏の時に起きるのです。官邸で寝ていた総理への報告が遅れ、自衛隊への出動命令が出せずに救えたかもしれないたくさんの命を犠牲にしました。

 その時の村山氏の言葉が「なんせ初めてのことじゃったからのお」という許せない言葉でした。

 ちなみに東北大震災の総理は菅直人でした。やはり日本の神々は売国奴を総理に迎えるとお怒りになると思えてなりません。

 以前から何度も講演会に誘われていたのですが、以上のようないきさつがあったために、聞く気も起きませんでした。
 
 でも、今回91歳という年齢もあり、今聞いとかないともう聞く機会がないと思ったために参加しましたが、やはり正真正銘の売国奴でした。

 自分はなりたくて総理になったわけじゃない、行きがかり上なったのだが、自分が総理になったのは歴史的必然性があったからなったと思っていると述べました。

 そして戦後50周年の節目、内政外交の節目をつけるべく外交を繰り広げ、出したのが村山談話だったと言います。

 この談話のせいでどれだけ日本の国益を害してきたか。

 しかし、昨日の村山氏はこれで戦後のけじめをつけたのに、その後の総理が蒸し返すからおかしくなっているというようなことを発言していました。

 中韓と仲良くしなければ、日本は孤立してしまうというのです。全く水と油で相容れないものを感じました。

 二番目は元公明党の矢野絢也氏でした。公明党を批判していましたが、二年ほど前に和解をしたそうで、舌鋒鋭く公明党や創価を批判するのかと期待していましたが、言質を取られないように慎重にしゃべっていました。

 三番目が、辛淑玉女史です。この人は1910年におじいさんが日本に来て以来三代にわたっての在日であり、自分は江戸っ子と言っていましたが、そこからカチンときました。

 よく日本人から聞かれるそうです;「日韓が戦争をしたらどっちにつくのですか?」と。

 すると辛女史は「あなたは私に踏み絵をしています」というそうです。そして「もし日韓が戦争になれば、一番最初に殺されるのが私です」と迫力を持って言われました。

 完璧な日本語、完璧な論理です。

 さらに、「韓国に日本人がしたことを言うと、その日本人が私に謝ろうとします。だから、日本を背負うな、あなたから私は何もされていない、というようにしています。そんな国のことは関係なく目の前の困っている人たちに対してどうするかを一緒に考えましょうというようにしています。」と発言します。

 こういわれると自虐的な思考に入った人は、この辛という人がすごい人になってくると思います。

 会が終わってからこの人には、「日本人は国家を信じることのできる民族であり、国家を信じることのできない在日から日本を背負うなと言われることは余計なお世話だ」と言ってやりました。
 
 その後、美根というアジア助成基金に中心的にかかわった人が話しをされ、田川市長が自分は場違いだといいながら、山本作兵衛さんの絵の話をされていました。

 タイムスケジュール的に進まなかったのです、質疑応答の時間はもうないのかと思っていましたら、質問なりご意見を会場からということだったので、すぐに手をあげ、次のように発言しました。

 「私は今日の発表者から見れば右側にいる人間なので、今日の会はとても居心地が悪く、聞いていて気分が悪かった」と発言し、「みなさんの共通の発言が日本が悪かったという発想からの発言です、戦争も喧嘩も片一方が一方的に悪いということはない筈であり、このように一方的に日本が悪いと言われるのは心外だ」と言いました。

 さらに、「靖国の戦犯といわれますが、戦後日本の国会で日本には戦犯は存在しないという決議をしたはずですが、談話よりも決議の方が強いはずですが、それをどう考えているのか」と村山氏に質問しました。

 氏の答えは、それを真っ向からはぐらかし、私の質問が理解できないようでした。

 ただ村山談話案が出た時に、自民党もそろって衆議院では可決しましたが、村上氏がいる参議院では否決したことだけはどういう意味があるのかを考えてほしいと村上正邦氏が代わりに応えられました。

 さらに村上氏が締めで靖国問題は総理大臣が行く行かないの問題ではなく、天皇陛下が行きやすい環境を作るのが政治家の使命だとおっしゃっていたのはちょっとほっとしました。

 でも、この村上氏の想いと昨日のパネリストの想いは全く異質なものだと理解できたのは数少ない人だけだったと思います。

 なぜなら、先の戦争の戦争責任という言葉が何度も出ていました。

 彼らは天皇陛下の戦争責任を追及しようとする根っからの左巻きであり、それらと共通点を見出そうとしている月刊日本の南丘氏と村上氏の思想的甘さがあると感じた夜でした。

 その一昨日の伊勢の乗組員や若い海上自衛隊の士官のことがあるためにあまり昨日は悪夢にうなされることなく睡眠がとれました。