日本国民よ、今のままでよいのか! | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 新聞テレビ報道を見るにつけ、今回の選挙の行方にいら立ちを覚えます。

 どうして重大な選挙違反の疑いのある東京12区の太田氏の疑惑を報道しないのでしょう?

 一週刊誌が報道したうちわの件を国会で取り上げ何週間も国会でされるべき議論を止めていたのに、同じ与党であっても公明党に関して何も言わないのでしょうか?

 東京12区ほど今後の日本の行く末を占う戦局はないと私は思っているのですが、普通の国民は違うと思っているのでしょうか?

 私は宗教を肯定します。

 宗教心のない人よりもある人の方を尊敬します。
 
 それがどんな宗教であろうと否定はしませんし、ネットや巷で言っているような創価学会だからというレッテルを貼った良い方は好きではありません。

 たくさんの方々が信仰する宗教に対して信者でもない私がとやかく言う権利はないと思っています。

 しかし、創価学会が公明党の母体となれば話が別ものになります。

 宗教団体の信者はその教祖に全身全霊をゆだねます。もし、そうでなければ中途半端な信仰であり、それもまた非難されるものではないのですが「宗教者」とは言えなくなるでしょう。

 公明党の議員の数人の方ともじっくり話したことがあるのですが、個人の政治信条や歴史観は立派なものをお持ちでも、創価学会ににらまれたら次の当選はないものになると公では本音を語られません。

 労組を支持母体にされている議員の方もそれぞれの政治信条があっても労組の意に反することはできません。

 それが組織票を背景に当選してきた議員の宿命といえるでしょう。

 それでも、それが野党ならば仕方ないと思っています。民主主義では必ず違う意見を尊重するのが基本だからです。

 公明党がご皇室を普通の国民と同じように大切に思っているとはあまり思えないのです。

 どうしても支持母体の創価学会の教祖、指導者の方を向いているとしか思えないのです。

 学会員の友人と話しても天皇陛下は大切だと思っている人がたくさんいる中で、公明党となると『あれ?本当に大切に思っているのかな』という違和感を持っているのは私だけでしょうか?

 信教の自由は憲法で認められています。しかし、同時に政教分離も考えなければなりません。
 
 政治に宗教勢力が口を挟むのはどこの国にも存在しました。

 政という言葉も「まつりごと」と呼び、もともとは天の声を聴くという宗教行事から始まっています。

 当然昔は稲作をするにしても天候や季節の変わり目を知ることにより、作付や稲刈りなど生活に密接にかかわることでした。

 そのため神の声を聴く存在が必ず存在していたのです。

 日本では古来より女性つまり巫女が天の声を聴いていました。それを男性の審神者(さには)がその声は神の声か獣の声かを審判したのです。

 神功皇后と武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)の関係といえばわかる人にはわかるでしょう。

 和気清麻呂と弓削道鏡の事件と言ってもわかる人はわかると思います。

 このように日本も昔から宗教と政治は密接に関わりあっていました。

 世界はと言うと、宗教分離と言いながらアメリカの大統領の宣誓式では聖書に手を置いて宣誓し、その宣誓文の最後には「だから神さん助けてね(So help me God!)と締めくくられます。

 イギリスの女王の戴冠式もイギリス国教の教会で宗教色満点に行われます。なぜなら王権はキリスト教の神様より認められて初めて効力を持つものだからです。

 日本は戦国時代に織田信長が比叡山の焼き討ちによって政教分離を果たします。
 
 僧侶や神官が政治にかかわることはありましたが、決定的なことではありませんでした。

 明治期に富国強兵の下、西洋におけるキリスト教による王権の正当性を誇示するために、神道によって皇室の正当性を主張する根拠にしました。
 
 そのため1500年以上にわたって一緒になって日本を支えてきた神道と仏教が切り離され、日本の宗教界は迷走しているように思えてなりません。

 本来ならば神様の手と仏様の手で支えていた日本を無理やり神様だけのものにしようとしたのが明治期であり、そのいびつさに戦後揺り戻しが来て日本人の宗教的背景が歪んでしまったように思えます。

 しかし国民の大部分が除夜の鐘を聞いて新年を迎え、そして神社やお寺に初詣に行くということが普通に行われ、最近は神社がパワースポットとしてや、心の平安を求めて神社を見直しての参拝者が増えているということを聞いて少しうれしく思います。

 話が大きく脱線してしまいました。
 
 庶民の中に現世利益を求めるものがあっても何らおかしくないのですが、その後ろに神道という皇室に繋がるものの存在があってこその日本の信仰の形なのです。

 創価学会の信者さんの多くは皇室の存在を認めておられますが、新しい世代にはそれはどうだろうと疑念が付きまといます。
 
 創価の教えがすべてであると教え込まれた若い層が、神社への参拝を拒否する姿を見るたびに、神社は皇祖に繋がるのになと危惧するのです。

 しかし、それはまだ信教の自由の範囲です。私がとやかくいうことではありません。
 
 でも、それが政治、それも与党として政治の中核にいることはとてもおかしな存在になると思っております。

 つまり、天皇陛下が日本国の中心的な存在、権威の根源であるという共通認識が崩れることが日本を日本らしくない国にするように思えてならないのです。

 テレビや新聞では都知事選で60万票も取った田母神候補と現役の国土交通大臣の戦いを一切報道せず、全くの無視です。

 報道する価値もないのでしょうか?

 それとも報道すると何か都合の悪いことでもあるのでしょうか?

 創価学会の皆さん、政治と宗教は日本ではきちんと分けることになっています。それをこのままにしていては、カルトとか邪教だとあらぬ疑いをかけられる恐れがあるのです。

 さらに在日の信者さんが多いので自分の所に有利になるという理由から「外国人地方参政権付与」を主張しているのかと勘ぐられるのです。

 創価学会の信者さんの生活保護受給率が高いのも政治の力を使っているからといらぬ疑いをかけられるのです。
 
 ぜひ政治から手を引き、信仰の道だけに邁進されることをご注進申し上げます。