私はかねてより、右翼とか左翼とかいう呼び方を辞めようと主張しています。
というのは、欧米の右翼でも左翼でも一度国難になると、一致団結して国民や国益を護るのが普通なのですが、日本の右翼・左翼と呼ばれている人たちはちょっと違うと感じているからです。
右翼や右翼団体というと一般的には「怖い」「軍国主義」「暴力的」等のイメージが付きまといます。
これは、本物の右翼とは全く別物の「街宣右翼」という在日や左翼のシンパが右翼という言葉のイメージを壊すために破壊的・暴力的なイメージの団体を作り、大音量で軍歌を流して町中を流したり、特定の目標に向かって執拗に嫌がらせをする団体の活動が功を奏しているからです。
左翼のイメージはというと、共産主義・社会主義で凝り固まった人たちですが、以前の暴力革命路線を捨てて、ソフト路線に切り替えているために、「なんとなくインテリ」「庶民の味方」「反米」的なイメージで見られがちだと思います。
さらに、保守・革新という分け方もありますが、保守のイメージは「おじさんくさい」「利権にまみれている」「なんとなく古臭い」というマイナスイメージが多かったのですが、最近になってやっと日本人が覚醒してきたと思えるようになってきています。
革新はというと、「庶民の味方」「新しそう」「なんとなく斬新」という切り口で来ていましたが、ここ最近は、「何でも反対」「左巻き」というイメージも強くなってきています。
現状の日本を見てみると、そういう西洋的な価値観の分け方では日本の社会は分類することが難しいと思います。
西洋の民主主義は、投票によって自分たちの王様を決めるということです。
皆から選ばれた民主的な王様は「権威」と「権力」を併せ持ち、強大な力を持っています。
それに従うのが当たり前という風潮があります。でも、そうすると選ばれた王様が暴走を始めるので、マスコミという監視装置が働いて、政権の批判や暴走を止める図式となっています。
それをジャーナリズムと呼んでいます。
しかし、日本にそれを当てはめると、民主主義をマッカーサーに教えてもらう前から、話し合いで決めるという世界でも最古の民主主義国家でした。
アマテラスオオミカミさまが天の岩戸にお隠れになった時に、神々は天の安河原で一堂に会して相談したと古事記に書いてあります。
強力な指導者ではなく、皆が知恵を持ち寄って対策を練ったことがわかりますね。
これを民主主義と言わずしてなんというのでしょう?
アメリカの歴史の浅い民主主義などを導入せずとも、責任のある立場の人間が己の矜持をかけて話し合い、時には命を懸けていました。
その権力を持った人たちの決断に「権力」を授けるのが、「権威」をお持ちになる天皇陛下の信任でした。
天皇陛下は、権威と権力が分離し始めた鎌倉時代以降から、それまでお持ちになられていた大御宝(おおみたから)という心で国民に接し、国民も権力者とは別に大御心(おおみごころ)をお持ちになる皇室を尊崇してきました。
つまり、日本以外の国では、支配者と被支配者の二元対立の世界でした。これはマルクスやレーニンが西洋的な資本主義の病巣をしっかりと描いています。
でも、日本では、一時期は西洋の物まねをすることもありましたが、やはり日本的な「君臣一如」という概念に収束していき、伝統的であり、日本的な価値観が今でも大切に守られています。
その観点から政治家を見てみるとどうでしょう。
西洋にかぶれ、日本的な価値観も考えずに右翼とか左翼というレッテルを自ら貼り、さらに深く考察もせずに保守や革新という分け方に甘んじている人が多数おられます。
でも、私は日本の政治家を分類するうえで最も適しているのは、「愛国者の政治家」と「売国奴の政治家」とすることだと思っています。
反日の活動を歴史的にひも解いてみると、海外からの影響も多々ありますが、それ以上に日本人の中に強敵がいることがあるのです。
その人の出自や教育された環境なども大きく影響しますが、日本国籍を持つ人が日本の伝統的な文化や風習を破壊しようとしているのに驚愕するのです。
政党で言えば、皆さんご存知の共産党や社民党は日本人のための政党でないと十分にお分かりだと思います。
それに民主党も三年三か月の政権運営を見てきて大勢の日本人が日本の伝統文化や価値観を護ろうとする政党ではないことが露見しました。
かろうじて自民党が皇室を重んじ、日本の伝統的家族制度や価値観を護る人が他党よりもまだ大勢いる政党だと思ってきました。
安倍自民党以前の自民党は一般の声を上げない国民(サイレントマジョリティー)の期待を全く裏切り、伝統文化や価値観を大切にしない政党だということがわかって、国民の支持を失い下野したのはほんの4年ほど前のことです。
それから安倍総理が復権するにしたがって自民党の中の変な勢力、あえて自虐史観にまみれた人たちと言わせてもらいますが、が離れていき、日本と日本人のための未来を語る政党にやってなってきたとこの一年の安倍政権の活躍で思えるようになってきました。
皆さんいかがでしょう?
しかし、今回の都知事選で、自虐史観にまみれ、瀕死の自民党を見限って離党し、それに残された自民党員も怒り心頭で除名処分にした舛添要一を推薦しようという動きがあることに本当にびっくりしています。
東京都議連で推薦しようとしている人たちはただ勝ち馬に乗りたいという本当に節操のないことをしようとしているのです。
こんなことでいいのでしょうか?
日本の政治家は日本の核である皇室を大切に御守りし、日本が世界に類を見ない同じ価値観を長年にわたって維持し続けている社会であることに誇りを持つことの重要性が理解している人がなってほしいと思っています。
違う考えの方もおられると思いますが、せめて政権を担う人にはそう願っています。
東京都の「都」という文字は、天皇陛下がおわす場所という意味です。だから日本の中心なのです。
その都知事が革新勢力、つまり売国奴たちが担当していた時に、教育はズタズタにされ、放送局や新聞社などのマスコミも完全に取り込まれ、「日本がいい国だ」という政治家はすぐに干されるような国になりました。
一都市と言いながらも、日本国の中心です。そこから発する情報は全国の基準になるのです。
幸いなことに日本は鎌倉時代から明治になるまで地方分権が進んでいたので、地方によっては中央の価値観を受け入れずにそれぞれが独自の価値観や文化を持ち続けてきたところもあります。
しかし、戦後70年経過し、戦前の価値観を徹底的に否定した教育が浸透していく中でまたここで自虐史観にまみれた「国際派」と言われる人が都政に担うことは完全に価値観の継承が断たれます。
案の定マスコミは絶対にとおってほしくない田母神候補をほとんど無視する作戦に出てきました。
そして舛添であたかも決まりというような論調を掲げてきています。
欧米では、権威と権力を持った王様をけん制するためにジャーナリズムが発達してきましたが、日本のマスコミはある勢力に加担するために存在するように思えてならないのは私だけでしょうか?
特定秘密保護法の時も一斉に反対したジャーナリストと言われる売国奴たちが、どうして全く価値観の違う自民党と民主党が一緒になって推薦をしようとしている舛添を応援するように気配をみせるのでしょう?
本物のジャーナリストであれば、価値観の全く違う自民党と民主党が相乗りで推薦することに対して批判の牙を向けることではないでしょうか。
それが日本のジャーナリズムの本質であり、その根底に流れるのが自虐史観です。
それは自虐史観を持った人でないとマスコミの世界では出世できない、会社に残れないという現実があるのです。
ただ、産経新聞だけはその殻を破った稀有な存在です。
物知り顔に、勝ち馬を見つけてそのちょうちん記事を書くことがジャーナリズムではないと私は思います。
政治家の政治信条をきちんと伝えて、過去にどんな発言をし、その発言が歴史的な大きな目で見た時に適切であったかどうかを顕彰するのがマスコミの役目だと思います。
マスコミができないのであれば、個人がネットの力を借りて政治家の政治信条を把握せねばならないと思いませんか?
私は日本がいい国だ、日本を東京を強くするという田母神候補の意見に大賛成です。
人に優しい街とか言いますが、それは安全が保障されてからのみいえるお花畑の話なのです。
地震やエネルギー問題、さらにCHINAの脅威などを考えると定まった国家観を持たない政治家や日本の伝統的な価値観を破壊しようとする政治家にゆだねてもいいのでしょうか?
まずは、自民党の矜持が試され、そして日本首都に住む都民の見識が問われます。