なぜ天皇陛下は尊いのか | 井上政典のブログ

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 歴史を通じて未来を見よう。

 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 本日19時より、「玉音放送を聴く会」をNPO夢・大アジアの石井理事長と私の共同企画で行います。

 ある方から玉音を収めたレコードの音源からコピーしたテープを入手しました。これをCDにコピーしなおし、皆さんに聞いていただくわけですが、それはそれはきれいな音で先帝陛下の息吹が聞こえてきそうなものであります。

 なぜこれを皆さんに聞いていただく企画をしたかというと、現在民主党政権というとんでもない売国奴が祖国の中枢を担っており、それにより外国から貶められ、同胞を拉致され、国民同士が扇動されて仲たがいをしている状況が現出しているからであります。

 それならば大東亜戦争敗戦という戦後の復興の原点に立ち返り、もう一度その原点は何なのかを自分自身で見つめなおし、定点Aとします。

 そして、自分が今立脚している場所を定点Bとすると、定点Aが明確になった時点で、自分の進むべき道、つまり未来が見えてくるのではないかという試みです。

 私達日本人は世界の歴史に比べて平安な時代が多くあります。ただ、自然災害などは容赦なく降り注いできましたが、それをあるがままに受け入れ、地道に復興させてきました。

 これは先日からここにも書いている「個」よりも「公」を優先させて我慢をしながらみんなで力を合わせた結果だと思います。もし、個人が自分の満足を100%満たさないと納得しなければ、公である社会はぐちゃぐちゃになってしまいます。それが現状ではないでしょうか。

 個人の権利、人権と主張ばかりして自分の義務や犠牲をまったく払わねば、自分勝手ばかりしてと世間の支持は受け入れられません。

 自分が犠牲となる時は「相身互い」を信じ、その境遇を受け入れます。ところが、日本国のために命を捧げた英霊を祀ってある靖国神社に「政教分離」とか変な理屈をつけて総理大臣やさらに天皇陛下までもが自由に参拝できない状況を作り出している現在において、この「相身互い」という気持ちが共有できずに、どうして自分たちばかりという思いが強くなっているのが現実ではないでしょうか?

 沖縄問題を語るときは地上戦の有無をかならずいわれますが、本土でも多数の日本人が米軍の無差別爆撃を受けて子供からお年寄りまで亡くなっているのです。それを知っている人たちはどうして沖縄だけ?という想いもあるのではないでしょうか。

 当時は日本人と朝鮮人と台湾人が力を合わせて米英と戦ったのです。その認識を現代の人から取り除き、本土の日本人の一部が勝手に戦争を始めて他の人たちを巻き添えにしたという構図を作りたがっています。

 それが事実かどうかを自分自身で理解するためにも、原点に回帰してもらおうと企画しております。

 特定なイデオロギーに洗脳されていない普通の日本人にとって天皇陛下は特別な思いがあります。

 それは日頃意識していなくても、本当に自分たちが打ちひしがれた時に気付くものだと思います。

 3.11の大災害の後に避難所を精力的に回られた天皇皇后両陛下にお会いになった方々は口々に「ありがたいこと(有難い)」といわれていました。このときもご自分のお体よりも、自分がお出ましになることで一人でも励みになるのならばと強行されていました。

 被災者の言われた「有難い」という言葉の中には、普通の状態ではないことが出現したという感謝している以上のものがあります。

 「ありがたい」という言葉の反対語は、いつもある状態つまり「あたりまえ」なのですが、当たり前の時にはなにも感じなかった天皇陛下の存在が尊く感じられるのはどうしてでしょう?

 これは天皇陛下の宮中祭祀に秘密があります。

 お正月の宮中祭祀に四方拝という神事があり、四方の神々に向かって「もし、今年日本に禍が来るのなら、まず私を通して欲しい」と祈られているそうです。

 普通、私達は「家内安全、商売繁盛」と神仏に手を合わせていませんか?

 まず自分のこと、つまり「個」優先なのですが、天皇陛下はご自分のことではなく「日本国をはじめとする世界平和」を神々に祈っておられるのです。

 日本が凄いのは、その頂点に立つお方が自分のことよりも民のことを先に想っているということです。だから、下々である私達は天皇陛下に倣ってほんの少しだけ「個」を押さえ、「公」のためにできることをしようとするのです。

 これを普通の人ではない方がされているのです。それが日本の天皇陛下であり、けっして「エンペラー」と訳すべきものではありません。

 天皇陛下は個の肉体を持っていても個の精神をできるだけなくされている限りなく無私にちかいお方なのです。

 日本国の頂点に立てばなんでも好きなことができる? とんでもない、日本でいや世界で一番自分のしたいことができないお方が天皇陛下なのです。

 だから、被災地の方々が愛する者を無くした、財産をすべてなくした、生きる希望までもなくされたにもかかわらず、まったく無私の人である天皇陛下のお姿が目に入った段階で、その「無私」の生き方に感化され、何もない状態が決して不幸な状態ではなく、自分たちには天皇陛下がおられるという心の奥底に希望が湧いてくるのではないでしょうか。

 これが軍国主義でしょうか? これが天皇の個人崇拝でしょうか?

 判断するのは自分の心です。まずは原点に立ち返り、定点Aを確認することからはじめるのがいま一番必要とされていることだと思います。