リクエストにお答えして、「在日がどうして帰化しないのか?」について書く | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 今回も読者からの質問に答えさせていただきます。

 早くからこのブログの読者になっていただいている「岸田中尉さん」からのリクエストです。在日がどうして簡単に帰化できないのかについて書きます。

 親や親戚のために帰化できないというは、韓国は儒教(朱子学)が根付いた国で、すべての価値観のトップに来るのが「孝」だからです。この小さいころから植え付けられたそれぞれの価値観は容易には帰ることはできません。
 
 そして年長者を敬うというのも日本より強力にあります。先日友達になったアメリカ在住14年目の韓国人は私達と一緒に食事をする時、ビールを左側を向いて飲みました。私(55歳)が彼(40歳)よりずっと年上なので、彼は正面を向いて飲むのを避け、左を向いて手で覆いながら飲んだのです。

 それは、年長者に対する礼儀の一つです。

 「ここは日本だからする必要ないよ」と一言添えると、安心して次からは普通に飲んでいました。

 彼のようにもう韓国に戻って仕事をしたくない、韓国で働くよりアメリカで働いた方が楽しいし仕事のやりがいがあると思っている人間でさえも、旧来の韓国の伝統は簡単に捨てられないのです。

 ましてや価値観の最重要項目である「孝」は簡単に捨て去ることはできません。

 皆さんは、新聞や本を踏んで歩けますか?私は無理です。新聞や本を足で踏む行為は絶対にできません。それはたとえ誰が見ていようといまいが関係なくできないものです。それは、身についた価値観であり、知識や智慧をすばらしいものとする人間にとって、新聞や本を足蹴にするなんて到底できないことになります。

 このように小さいころから植え付けられた価値観は簡単に捨て去ることはできないのです。

 だから、在日の方で日本で生まれ、日本に生活の手段がすべてそろっている人でも、「孝」と価値観が一番だと思う人には親や親戚が泣いて反対すれば、帰化できないそうです。
 
 ただ、これと在日特権といわれるものは別物です。外国人として日本で生きる決心をしたのなら、外国人としての義務をしっかり果たし、日本人よりも優遇されている権利をいつ剥奪されても文句を言わないようにしなければならないと思います。

 朝鮮名があるのなら、堂々と名乗ったら良いと思います。20年前は朝鮮人と知れたら歴然と差別があったと思います。でも、韓流スターや歌手のおかげで若い人の間にはその差別的な意識は薄れているでしょう。

 私の友人には朝鮮名を名乗って立派に会社を経営されている方もたくさんおられます。すぐには抵抗があるといわれるのなら、自分からはしなくて言いのですが、犯罪者の通名報道は取りやめましょう。これは放送コードを変えるだけですぐにできます。
 
 これにより家族意識・同朋意識の強い在日韓国人・在日CHINA人の犯罪発生率が下げられる効果があると思っています。

 普通にまじめに暮らしておられる方々は、ご自分の意思で通名を徐々に韓国名に変えられれば良いと思います。それが当然の権利だとも思います。でも、犯罪者はそれがどんなに微罪でも、その権利が剥奪されるのだと思うだけで、犯罪の抑止力になると思いますし、日本の治安の悪化の原因が明確にできると思います。

 ただ、外国人なんで当然日本の参政権はありません。本国での参政権があるのだからそちらで行使してください。国籍というものは、どこに忠誠を誓うかの問題だと思っています。

 帰化して日本人になったら、日本国の利益のために働くのが当然だと思います。私達も帰化した人たちを同胞として受け入れ、それを差別することを私は許しません。それはとても恥ずかしい行為だと思います。

 帰化しないで本国に忠誠を誓ったのならば、あくまでも「よそ者」として生きるべきだと思います。

 「税金を払っているから当然の権利だ」という人もおられますが、日本の選挙権は年齢要因はありますが、性別も納税額も関係ありません。日本国籍を持って20歳以上なら選挙権があるのです。税金を払っているかどうかは選挙権に関係ありません。これをいっている人は憲法違反になります。

 第二次大戦で、日系アメリカ人たちはアメリカ人としての権利を勝ち取るために、大勢の若者がアメリカに忠誠を尽くし、命を投げ出しました。それにより、日系アメリカ人たちは他のアジア人の誰よりも早くアメリカの社会で尊敬を勝ち取りました。ぜひ、442部隊の活躍に関するものを読んでみてください。日本人の特性がわかります。

 あと、「恨(はん)」の概念ですが、地勢学上2000年の間に1000回以上も外国の侵略を受けた国です。常に戦火にさらされ、外国からの侵略と国内の裏切りの連続が韓国の歴史です。

 李氏朝鮮も明に通じ、外国勢力を使った結果、李氏は朝鮮半島を統一できましたが、終生明やその後の清の属国から抜け出せませんでした。それを独立国として扱おうとしたのが日本の明治新政府でした。

 国内でも同じ朝鮮人を信じることができず、信じることができるのは家族だけ、その家族も9代までがその範囲なので、4,5千人の家族がいることになり、それを裏切ることは一族追放という重い処分になります。

 そういう中で、自分が悪い、自分に責任があるなんて思ったら何もできません。「信」の上に人間関係が成り立っている日本と違うのです。向こうの一番は「孝」ですから。

 自分の責任ではなく、すべてが他人のせいと割り切らねば、裏切りの連続の歴史は生きていけません。ただ、もちろん「信」に生きたすばらしい人もたくさんおられます。でも、日本人とは割合が違うのです。

 良い悪いの問題ではありません。良い悪いを判断する基準が違うのです。その判断基準は常に動きます。だから、日本人は物事を善悪で判断するのではなく、「美しい」かどうかで判断することを優先させるのです。

 だから私は隣の国籍を持つ人間とお話をする場合に、どこで生まれどこで育ち、どのような教育を受けたかをさりげなく聞くようにしています。日本で育ち、日本の学校に行き、日本語を自由にしゃべれる人間は「信」の価値が韓国で生まれ、韓国の学校しか行かず、日本語を理解しない人よりもわかっていると思っています。

 もちろん例外はありますが、大体大きく間違ったことはありません。やはり、鍵は「日本語」にあるのではないでしょうか。

 創価学会の件はまた別の機会に書きます。