冷戦の間の嘘で生まれた大韓民国! 幕末からの歴史を知ろう その1 | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 今度は韓国の外相が天皇陛下に対し無礼な発言をしました。私はこういうことが陛下のお耳を汚す事を心から心配していました。あの李明博の発言に対する政府の対応の甘さがこうなったと思っています。

 日本国民にもあまりにも彼らの発言の重要性に対する認識が無さ過ぎた結果でもあります。日本国民はもっと怒らねばなりません!

 なぜ、韓国はこういう発言を繰り返すか?
 
 それは、大韓民国が成立した過程に問題があるのです。大韓民国の国是は反日にであり、その反日は「嘘」によって作られらた国是を信奉しているからです。今日は、大韓民国がどうして「嘘」によって作られたかを書きたいと思います。

 1945年8月15日朝鮮総督府では、日の丸をおろし、朝鮮の旗を揚げました。日本側は「これからは自分たちの国として立派に治めてください」と申し渡しながら、朝鮮側も「わかりました、これからは自分たちでがんばります」というようなことを言って、お互いの言葉が嗚咽で聞き取れないくらいのなかでありました。

 その3日後、アメリカ軍がソウルに進駐してきて朝鮮総督府のポールに掲げられている朝鮮の旗を見て、不快に思い、すぐに降ろすように命じます。朝鮮側はいぶかしげにわけを尋ねると、アメリカ軍は吐き捨てるように、次のように言いました。

 「朝鮮は日本の同盟国だったじゃないか」と。

 朝鮮側はあわてました。必至で日本から侵略されていたんだ、いやいやながら強制されていたんだと嘘をつきます。アメリカもそれが嘘だと知っていましたが、ソ連との絡みでその嘘を容認します。そうやって生まれた国が大韓民国です。

 その成立までの歴史を振り返ってみたいと思います。

 戦前、朝鮮は日本の外地として日本と同様の扱いを受けていました。中には、朝鮮人の衛生観念無さから、差別的な待遇をされたこともありますが、これは朝鮮人だからではなく、清潔にしない人、嘘を言う人、まじめに働かない人などは日本人でも蔑まれます。それに習慣文化の違いによって起こった偏見が存在したことは否めません。

 でも、そういう中においても日本は朝鮮の近代化に多額の資金を投入し、国民に教育を施してきました。

 よく、搾取をされたと朝鮮側は言いますが、幕末の欧米列強がアジアを侵略していた時期に、日本は国を挙げて欧米列強を跳ね返そうと明治維新を起こします。そして、その圧力をはねかえしました。そのとき、李氏朝鮮は清国の属国として安穏と過ごしていました。

 なぜ欧米列強は朝鮮半島を領有しようとしなかったのでしょう?李氏朝鮮は属国のため、満足な軍隊を持っておらず、日本のように武士の国を侵略しようとするよりも簡単に侵略できたのですが、彼らはしませんでした。

 後にロシアが、クリミア戦争で負けて欧州側での港の確保に失敗した後に、アジア側の不凍港をめざして満州から朝鮮半島に向かったために日露戦争(1904-1905)になりますが、1860年代にはだれも朝鮮半島に手をつけようとしませんでした。

 それは、あまりにも朝鮮半島が貧しかったからです。強奪するものが何も無いどころか、もし朝鮮半島を経営しようとしたら、たくさんの資金を投入し、インフラの整備をしなければならなかったからです。そして地政学的にも日本がある限り、意味を成しえませんでした。太平洋に出られないということです。

 日本が明治維新を断行し、欧米の圧力を跳ね返しました。しかし、日本列島の位置が地政学上、たいへん重要な位置を占めているために、常に外圧にさらされる状態は変わりませんでした。
 
 アメリカ側からは、CHINA大陸の前に立ちふさがる壁となり、大陸側からは太平洋への道をふさぐ壁となります。どちらがわからしても軍事力と高い民度を誇る日本があることは目の上のたんこぶになるのです。

 明治政府の西郷隆盛は、「朝鮮半島は日本へ侵攻する通路なり」と看破し、日本の安全保障上朝鮮半島が自主独立することが重要だと説きます。

 だから鎖国をやめ、開国して日本のように富国強兵策をとるようにと説くのですが、小中華思想に固執する李氏朝鮮は兄である朝鮮にむかって弟である日本が何を言うかと聞いてくれません。そして西洋にかぶれ、伝統を捨てた日本を軽蔑するのです。

 日本は欧米列強の魔の手から日本を守るために西洋文化を取り入れ必死に対抗しようとしていましたが、朝鮮は清国の庇護の下鎖国状態を続け太平楽を並べていました。

 そして日本蔑視の言動を取り、使節団に対し国際儀礼にもとる対応をします。それにより、日本の世論は激高します。これが、「征韓論」です。木戸孝允らが中心に唱えていました。決して西郷どんは主戦論者ではありません。

 このままであれば日本の安全保障上良くないとペリーと同じ方法で江華島条約を結ばせ、鎖国を解きます。

 そして清国の属国を止めさせるために、日清戦争で朝鮮の独立を支援します。
 
 ここまで書くと、日本の都合で朝鮮に無理に条約を結ばせ、無理やり開国をしたように見えますが、これはあくまでも国家対国家の条約です。つまり朝鮮側にそう望む人たちがいたことを忘れてはいけません。

 志を持つ朝鮮人達もこのままでは自分たちの祖国が欧米の植民地になってしますと危惧するのです。そうです、ちょうど日本の幕末における尊皇攘夷の志士たちのような人が出てくるのです。

 方や明治維新の元勲たちもそのようにして日本を開国させてきたのです、その人たちの心情は手に取るようにわかりますので、なんとか支援しようとするのです。李氏朝鮮王朝が徳川幕府で、倒幕し新しい国を作ろうとする人たちが朝鮮にもたくさんいたのです。

 福沢諭吉などもしっかりと応援していますが、そのクーデターが失敗して首謀者たちが処刑されたのを見て、以後かかわるのをやめようと「脱亜論」を書きます。だから日本では根強い人気を誇る福沢先生も、朝鮮ではあまり人気がありません。

 ここで知っておいて欲しいのは、朝鮮国内においても祖国を何とかしようとしていた志士たちがいたことです。ただ、朝鮮国内の識字率は貴族である両班(ヤンバン)が独占していたために低すぎて情報や趣旨が思うように全国に広がらず、また奴隷のような生活をしていた一般の民衆は食うのがやっとで国家に対し何の感情も持っていなかったのです。朝鮮としての体裁を守りたかったのは、貴族だけと言っても過言ではありません。

 それほど王様とその取り巻きの貴族である両班がすべての富と知識を搾取し、一般の人たちは貧しく満足に教育も受けられていない状況だったのです。
 
 日本のように建前は士農工商という身分制度がありましたが、志があるものは身分にとらわれずに学問ができる土壌があり、全国にたくさんの寺子屋があり、漢字とひらがなという組み合わせにより、たくさんの庶民も文字文化に触れることができ、思想、技術などの伝播がしやすかったのですが、朝鮮ではこういうことは一切ありませんでした。漢字だけです。ハングルを使い始めたのは日本が統治を始めてからです。

 日本が日清戦争の後に三国干渉を受けて遼東半島の返還などをさせられてロシアが強そうだと見るとロシアに付こうという勢力が出たため、朝鮮半島情勢が日清戦争だけでは安定せずに、日本としてはしたくなかったロシアとの戦争に突入します。

 日露戦争の前にも、ロシアは満州に進駐しており、満州鉄道を敷設するなど着々と支配を強めていたため、日本政府としては満州をロシア領と認める代わりに、朝鮮半島の支配権を日本のものと認めて欲しいと交渉するのですが、決裂し1904年に日露戦争に突入します。

 ここでお分かりのように、既にこの時点で朝鮮は国として国際社会は認めていない状態になっています。このままでは朝鮮半島が他の国の配下に入ってしまうということで、日本国内でもたくさんの反対がありました。皮肉にもその反対派の筆頭だった伊藤博文公が朝鮮人に暗殺されたために日韓併合となりました。

 しかし、ここでも一方的に日本が併合のではなく、朝鮮人の多数が日本に頼るしかないという決断の元に日本国と朝鮮国が条約を結んで日本の庇護に正式に入ることを決定したのです。

 これが日韓併合です。


  長くなりましたので、続きは明日。