昭和天皇を偲んで  | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 このブログの熱心な読者にクリーニングのまるさんがおられます。

 昨日の昭和の日の元である、昭和天皇の誕生日の記事のコメントを読んでびっくり仰天しました。4月29日が昭和天皇陛下の誕生日と知らなかったなんて・・・。まるさんの名誉のために言っておきますが、この方も日本国の行く末を案じ、クリーニング業を営みながら自分のできる活動で日本国のために活動しておられる方です。

 でも、平成の御世になって既に24年、昭和という激動の時代がどんどん遠くなっていくのですね。

 でも、私も若い経営者と定期的に勉強会を開いて歴史を題材にお話していますが、今の若い人は本当に日本の歴史を知りません。だから、お話しするとみんな感動してくれます。

 これは私の話術で感動するのではなく、日本の歴史の凄さに感動してくれるのです。それが楽しくて毎月一回、今年から別の勉強会も立ち上がったので、毎週どこかでお話をするようになっているのですが、私が知って感動した話を少しでも多くの人に聞いてもらい、日本って凄い国だ、すばらしい国だ、もう少し勉強してみようと思っていただくのが歴史ナビゲーターの使命だと思って活動しています。

 産経新聞の九州山口版では毎週木曜日に「こんなことあったかも」という題で九州山口にまつわる歴史の裏話を書いています。ネットでは読めないので、ぜひ九州山口の方は日本の良心 産経新聞をご購読ください。

 さて、そういうことでもう少し先帝陛下のことについて書こうと思います。

 今上様、現在の天皇陛下のことをお呼びする場合はこのように言うのが美しい、崩御されて初めて昭和天皇とお呼びするのが常識であり、間違ってもご存命の時に「昭和」とか「平成」とか元号をつけてお呼びするのは大変不敬です。ときどき知らないでいわれる方がいるのでご注意を。

 行幸(ぎょうこう)、天皇陛下が宮殿を出られて各地を訪問されることですが、陛下以外の皇族の場合だと行啓(ぎょうけい)となります。天皇皇后両陛下の場合ですと行幸啓(ぎょうこうけい)と呼びます。こういう独特の言い方も日本人として知っておきたいものです。

 大東亜戦争後(太平洋戦争は戦後アメリカが押し付けた先の大戦の呼称で、日本では大東亜戦争というのが正しいと思います。)、全国各地を行幸された先帝陛下ですが、佐賀にもこられました。その時のお話です。

 このお話は、松岡さんという福岡にある生長の家の事務局長さんから聞いた話です;

 佐賀に因通寺というお寺があり、そこの梵鐘に、昭和天皇の御製が鋳込まれていると聞きつけ、そのお寺に見に行った事から始まります。

 佐賀はとても田舎ですが、更に田舎の基山町にそのお寺はありました。車で坂道を登っていくと、不意に広い場所になりました。よく見るとそこは、幼稚園の園庭でした。幼稚園の人が血相を変えて、とんできました。無理もありません、幼稚園の園庭に急に車が入ってきたものですから。

 お詫びと共に来訪の意を告げると幼稚園の方の表情が一変し、それならば住職にご紹介しましょうと、飛び込みの私を寺に案内していただきました。

 すると、先客がおられたらしく私と入れ替わりに白髭を蓄えた紳士とすれ違いました。気にも留めずに調寛雅(しらべかんが)住職から直接お話を聞くことができました。

 昭和24年5月22日に佐賀の基山町の片田舎にお寺にどうして天皇陛下が行幸されたかというと、寺で戦災孤児の面倒を見ていたからです。引き上げ船が博多港へ付くと孤児たちは福岡市内の高宮中学に入れられたそうです。それを佐賀県からリヤカーを引いて調(しらべ)住職が引き取りに行かれていました。(大体40kmくらい離れています。)

 戦災で親を亡くした子供たちは、恐怖とあまりにも大きな悲しさでまったくの無表情で、男の子も女の子の区別なく坊主頭でそこには無数のしらみが付いていたそうです。その一人ひとりを抱きしめながら、『心配しなくてもいいんだよ、これからはもう仏の子だからね』と語りかけたそうです。

 すると住職の体にしがみつきながらわーと泣き出すそうです。今まで自分の感情を押し込め我慢していたのでしょう、安心したとたんに心の奥底から感情が湧き出すのです。その子たちをしっかりと抱きしめて、一緒に涙を流すのだそうです。

 これは迎えにいくたびに出てくる光景ですが、毎回、子供たちが背負ってきているものが違うために一緒に涙を流しながらその心の痛みを共有していたそうです。

 そういう子供たちの面倒を見ているお寺があると昭和天皇がお聞きになられ、佐賀に行幸の折、ぜひ寄られたいといわれ、お寺の孤児院への見えられました。どうして陛下がこの寺のことをお知りになったか周りの方々は訝っておられましたが、陛下のたってのご希望なので行幸がしました。

 孤児たちが生活する建物の廊下にじゅうたんを曳き、天皇陛下は靴のまま歩かれます。その廊下に沿って部屋が並び、そこに2,3人づつの孤児たちの部屋を回られました。一人ひとりに声をおかけになり、その場の雰囲気がすごく暖かくなったそうです。

 ある女の子の前に行かれたとき、その子は両膝にひとつずつ位牌を持っていたそうです。天皇陛下は、その子にその位牌はお父さん?お母さん?とお聞きになりました。子供が、父はソ満国境で名誉の戦死、母は引き上げ途中に病のために亡くなりましたとはっきりとした口調で答えたそうです。

 そして、「お寂しい」、(いやこういう声ではなかった、「お寂しい」いやいやそうではないと、天皇陛下がその時に発せられたお声を調住職は10回ほど真似られました。いや違いもっと深いところからのお声だったと言われました。)

 するとその女の子は、「いいえ、さびしい事はありません。私は仏の子です。仏の子は亡くなったお父さんとも、亡くなったお母さんともお浄土に行ったら、きっともう一度会うことができるのです。

 その時に、天皇陛下は廊下と部屋に引いてあった紐を越え、靴のままで少女に近づき、頭をなでられ、音が聞こえるくらいの大粒の涙をぼとぼとと畳の上に落とされました。

 ご案内している住職も、新聞記者たちもみなその時に一斉に泣き出したそうです。

 孤児院から出られるとき、孤児たちが陛下の袖を持ち、「またきてね、お父さん」といったそうです。

 陛下は、流れる涙を隠そうともせず『うん、うん』とうなずいておられたそうです。 

 
 そして後日一首の歌が届けられました。

 「みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ」

 という御製でした。

 調住職はこの昭和天皇陛下のお言葉をみなに響き聞かせようと、この御製を寺の梵鐘に鋳込ませました。いまでも、因通寺に行くとこの梵鐘の響きが当たり一帯に響き渡ります。

 その後、住職が奏上を終え、ほっとしていると長い坂ノ下でたくさんの人々の出迎えを受けた天皇陛下がおられたそうです。しかし、その中にはシベリアへ連れて行かれ赤化教育を受け、わざわざ上京し、共産党へ入党した元兵士の一団がむしろ旗をたてて(昔百姓一揆で使用、反抗の意を表す旗、筆者注)すごい形相で待ち受けていたそうです。

 陛下をお守りしなければと駆けていこうとしましたが、先に陛下がその人々とお話になれていました。その一人ひとりに声をおかけになり、『たいへんだったね』、『辛かったでしょう』『辛い思いをさせてすまなかった』と言われていると、そのむしろ旗を持ってすごい形相の男が不意に地面に手をつき、「こんなはずじゃなかった、俺が間違っておった」と号泣し始めたそうです。後で聞くと、その青年の懐には短剣が忍ばせていたそうです。

 そこまで松岡講師にお話をなさると、調住職は不意にそうだ、私はあなたにこんな話をするつもりが一切なかった。もし、この話をするとわかっていたら、先ほどの人を紹介するのだったといわれたそうです。

 松岡講師が、『あの白髭の紳士のことですか』とお聞きになると、
『そう、彼はこの寺の檀家総代でな、あのときに昭和天皇の前でひざまづいて号泣した人だよ』と答えられました。

 松岡講師の話を終わります。

 これが昭和天皇陛下です。そして昨日がそのお誕生日だったのです。新聞やテレビではほとんど触れられず寂しい思いをしたのは私だけではなかったと思います。

 万世一系の天皇陛下がおられるから、日本であると心から信じます。