湯地丈雄というのは、明治時代の人で福岡の県庁前にある東公園の亀山上皇像を作った人です。
定遠、鎮遠という大型戦艦が長崎港に入港し、その大きさに長崎市民が度肝を抜かれている時に、清国兵が長崎の町で乱暴狼藉をはたらき現地の警官と衝突した事件があります。「長崎事件」といいそれは、日清戦争の10年前のことでした。
定遠は7700トンの大型艦で、かたや日本海軍の当時の一番大きな船でも2000トンクラスしかありませんでした。
福岡の警察署長であった湯地はその事件の応援に行き、この事件は日本人の平和ボケからきていると思い始めました。いつ外国が攻めてきてもおかしくないと危機感を持つべきだと、思うようになりました。
そしてそれはこの福岡の地に元寇の記念館がないことに着目し、一念発起して元寇の記念碑を建てることを決意しました。
元寇は当時唯一日本本土が外国から攻められて火に焼かれた場所なのです。
その活動の為に、警察署長の職を辞して、全国を行脚し講演しながら浄財を集めていきましたが、なかなか集まらず、生活も極貧の中で妻や子供に苦労をかけながらも20年の歳月をかけて福岡市の東区に亀山上皇の立派な銅像を建立しました。
しかし、その銅像には湯地の名はありません。ただ、妻と子の名前を書いた石を下に埋めたのだそうです。
昔からどうしてこの像が立っているのか不思議でした。でも、こうやって話を聞いてその像の台座に触ってみると、涙が出てきます。それは、自分の信念を曲げずに貫き通した男のロマンとそれを支えた女の偉大さが身にしみてわかるからです。
福岡市民よ、もっとこの像のことを知るべきだと思います。誰がどうしてこれを建てたのか。そうすれば自然に背筋がしゃきっとなり、日本国がまた好きになるでしょう。
今私が声を上げなければいつの間にか誰もこの湯地丈雄のことを語れなくなってしまうでしょう。それではあまりにも湯地丈雄がかわいそうです。
先人の思いを後世に伝えるのが私たち日本人の良さです。私は今後も伝える活動を続けていきます!