博多の名刹承天寺で先日上演した「博多の恩人聖一国師物語」の制作秘話を書きたいと思います。
本格的な練習に入った上演一週間前、聖一国師役の日微貴君から質問がありました。
「仏教で本当に人が救えるのでしょうか?目の前の娘を亡くした父親をどうやって救うのでしょうか?」という質問でした。
というのも山笠の起源の章で、博多に疫病がはやり人々が疫病で倒れていくという場面があり、その象徴的な場面として5歳の娘を亡くした父親が『この世には神も仏もないのでしょうか?』と詰め寄る場面があり、その際に日微貴君が立ったままその話を聞いていたことに違和感を感じたために、『その受け答えはおかしい』と意見を言ったためでした。
仏教で人が救えるか? これは、聖一国師が宋に渡る前に悩みに悩みその答えを見つけるために6年間も修行したのです。その答えを見つけて帰国されたのですから、立ったまま悲しみのどん底にいる人のそばにいることはないと思いました。
『娘を生き返らせることもできないし、なんにもできないでしょう。どうやって仏教で嘆き悲しむ人を救えるのでしょう』と日微貴君は聞いてきます。
そこで私は自分が聖一国師だったらどのような行動を取るのだろうかと考えました。聖一国師になりきり自分が言われたらと一瞬考えました。
その瞬間、脳裏に浮かび上がったのは今上陛下が被災者の前に行かれたときの映像でした。寒い中ひざをつき、被災者一人ひとりと同じ目線で手を差出し、何も言わずそのおやさしいまなざしをおかけになっている姿です。
そこにはきっと私たちが感じる以上の「なにか」が存在し、一瞬にして被災者の心が理解できた空間が出現したと思います。ほとんどの被災者が涙を流し、暖かいものを感じたといわれています。
自分たちの為に毎日祈っていただいている陛下の真心が瞬間に伝わったはずです。
私はこの場面をたとえにだしました。するとまだ悩んでいる様子でしたが、
『ちょっと考えます』といってその時は話を終わりました。
本番前日、今度は娘を亡くした父親役の仲島君にどう対応すると聞いたときに、彼も悩んでいました。そこで日微貴君に話したことをもう一度話して聞かせました。
本番のその場面では、
『この世には神も仏もないのですか?』と跪いて聖一国師にすがる父親に、ゆっくりと笠を脱ぎ父親と同じ目線にして何も言わずに見つめる聖一国師がいました。
その場面を見て、住職があれは良い場面であったとお褒めいただきました。観客もその時に涙を流された方が多かったのです。きっと国師と父親の間に流れる暖かい空気感が伝わったに違いありません。
これは、演出ではありません。悟りを開いた国師様がどうされるかを考える時に天皇様の行動を思い浮かべられる幸せを感じました。演じる方も見る方もその同じ感覚を体験した瞬間ではなかったかと思います。
国民のことをいつも祈っておられる天皇様と衆生を救おうと一所懸命に修行された聖一国師様との共通点を感じることができた自分にも嬉しいと思いました。
その場面を見て、ご住職の最後の挨拶が;
「千年に一度の国難に私たちが遭遇したのは、私たちが選ばれたからだ。一緒になって国難に立ち向かおう」
でした。すべてが一体になった劇でした。
日本人に生まれてよかったと思った瞬間でもありました。