昨日は福岡市の桜の名所西公園にあるうぐみ亭で盛大に花見を催しました。
お仏壇のはせがわの長谷川会長、産経新聞の野口裕之九州総局長、筥崎宮の権宮司、北九州から駆けつけてくれた光タクシーの石橋社長、久留米や直方からも駆けつけてくれました。先日の聖一国師で詩吟をしていただいた吉田城世上席師範や筑前琵琶の蝶美さん、語りの岩城さん、もと宝塚の穂高ゆうさんなど多彩な顔ぶれといつもの栄える会博多第二支部面々が集合しての総勢40名近い会でした。日本が大好きなフランス人や若手の市会議員なども参加していただき、とても楽しい会でした。
参加した人たちはすべてが顔見知りではなく、初対面の人も多かったのですが、すぐにトップギアに入り、隣の声が聞こえないくらい盛り上がりました。
どうしてこんなに盛り上がるのかみんなが不思議がっていましたが、私はその答えに気付いていました。この人たちの共通点は、日本のことが大好きなのです。
それぞれの活動で、日本やふるさとやみんなの為に行動している人ばかりなのです。そういう人が満開の桜を見ながら、同じなべをつつき、差し入れていただいたうまい酒を飲めば、盛り上がらないわけがないのです。
人をお誘いする上で一番気をつけるのが、その人が日本が好きかどうかです。
日本という土台の上に私たちは生きています。その生きている大本を好きだからこそ、その日本の為に自分の能力や役目を果たしている人たちはすぐに仲良くなれるのです。
産経の野口氏が一言コーナーで「桜は男の花です。散り際が美しく、潔い花、日本人の精神性を表している」と言われなるほどと思いました。
そこで私は、日本人の精神構造に合う「桜」の花とともに入学式を迎え、その花びらのように散りゆく運命(終わり)を知ることにより、この一瞬一瞬を大切に生きるということを学ぶために、桜が珍重されてきたのです。
桜は一年の始まりであり、希望に満ちた未来とその終わりを認識するために必要な要素です。終わりを認識することにより、現在の重要性を知るということを日本人は桜を見ながら学んでいるのです。
しかし、西洋のように花が咲き、散るまでが一生ではありません。花は散っても木が残り、そしてまた来年に花をつけるのです。個々の命が独立しているものではなく、大本から湧き出ずる木とは木っても切り離せない命なのです。
日本という国が木ならば、私たちの命は花です。木を守るためならば、花はいつでも散れるのです。木が存在する限り、また花が咲き誇ることができるのを知っているからです。
それが、本居宣長の「敷島の大和心と人問わば 朝日に匂う山桜花」という和歌になるのだと思っております。
旧知の気の合った仲間と飲む酒もうまいのですが、初対面でも日本の為に何かをしている人たちと飲む酒も格別なものがあります。
それを満開の桜が歓迎してくれている中で飲むことほど日本人冥利に尽きることはありません。