飲酒運転事故に思う。あの3人の子どもの命を無駄にするのか! | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
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 昨夜も福岡市で飲酒運転による事故が発生しました。幸いにも死亡事故に至りませんでしたが、同じ福岡市民として恥ずかしい限りです。

 数年前、福岡市では泥酔した元福岡市職員が運転する乗用車が3人の幼い子どもを乗せた車に追突し、子どもを乗せた車は橋から落ち、両親は助かりましたが、三人の小さな命は海の藻屑となりました。

 母親は水泳の経験があったため、沈んだ車へ何度ももぐりわが子たちを助けようとしましたが、悲運にも子どもたちの命を助けることができませんでした。

 その後、飲酒運転撲滅の機運が高まり、一時は飲酒運転事故が減りました。しかし、近年またそれが増加傾向にあるのです。ほんとに嘆かわしいことです。

 この三人の小さな命が亡くなったことにより私は命の価値ってなんだろうと思うようになりました。そうしていたときに次のお釈迦様のお話に出会ったのです。

【お釈迦様のお話 人の一生とはどれくらいの長さか】

 人の一生はいくばくの間かとお釈迦様が弟子たちにお聞きになりました。

 飯を食う間だとか、起きて寝るまでだとかいろいろな意見が出ましたが、最後にある弟子が「息を吸って吐く間」と答えると、お釈迦様はにっこりと笑い、そうだとうなずかれました。

 「生きる」とは、「息を続ける」ことで、「生き」は「息」に通じます。「る」は続けるという意味です。

 吸って吐く、これの繰り返しが人生だとお釈迦様は説いたのです。

 そのため、少ない回数しか息をしない人もいれば、膨大な回数息をする人もいます。つまり、生きるということは短い長いの問題ではなく、その命の価値が何であったかが重要だと思うようになりました。それは、命が長い短いは宇宙からみれば、ほんの一瞬であると思ったからです。

 自分たちの命には、なすべき使命を与えられていると思った瞬間に、一瞬一瞬を大切に生きようと想いました。でも、そうしたら、この三人の小さな短い命は何のために存在したのかと思うようになったのです。

 彼らのこの世に生きた証って何だと思ったときに、

 「そうだ、私がこれを機に飲酒運転をしないと決意しそれを守れば、彼らが生きた証になる」と気付きました。

 私の飲酒運転といっても、お酒と女性に弱い私は、たくさんの量を飲むわけではありません。ビールをコップ一杯か二杯飲んだらおしまいです。そして飲んでから最低でも二時間、長ければ4時間ほど後に車を運転するように気をつけていました。

 でも、今考えれば、これも立派な飲酒運転です。特殊な呼吸法で、どんなに飲んでもアルコール検知に引っかかることはありません。今まで三度ほど検査をしましたが、三度とも警察官が首をひねっていました。

 でも、検査に引っかからなければいいという問題ではないということに気付いたのです。

 だから、その後一切飲み会のあとには車を運転しませんし、10回のうち9回はウーロン茶だけしか飲まないようにしています。

 たぶん私のように考えている人は全国にたくさんいると思います。その人達がそれを守れなくても、私だけでもそれを守っていたらあの三人の子どもたちの生きた証が残るんだと思っています。

 自分の考えを人に強要するつもりはありませんが、同じ福岡市民としてどうしてそんなことができるのだろうと不思議でたまりません。もし、飲酒運転の車に自分の大切な家族が殺されたらどう思うのでしょう?

 自分の身になって考えること、これは拉致被害者や特定失踪被害者に対して日本国政府が何もしないことによって、どれだけの人が嘆き悲しんでいるのかを理解しなければならないと思います。

 孔子は「己の欲せざるものを他人に施すなかれ」といいました。キリストは「Do to others what you wanted to de」(自分がして欲しいことを他人にもしてあげなさい)と説いています。

 今私たちはこのことを心に刻むときではないでしょうか。