昨日は、フグの会がありそこにゲストとして招かれました。
その会場となったのが、福岡市の中心地天神にある警固神社の境内。普通は、こういう飲食には一切貸さない神聖な場所なのですが、その会の長老が御年97歳の博多織の大功労者で、この方の肝いりだから、神社の社務所を使っての宴会ができました。
当然、私にスピーチを求められるのですが、その題目は警固神社のいわれについてです。
日本神話をご存知の方なら、イザナギとイザナミの夫婦の神様が国産みをされたということはご存知だと思います。知らない方も多いと思いますが、今年は古事記出版1300年に当たる記念すべき年です。ぜひ、古事記に挑戦されてはいかがでしょう。
奥さんのイザナミが火の神様をお生みになった後、産道をやけどされとうとうお亡くなりになり、黄泉の国へといかれました。突然の妻の死に嘆き悲しんだ夫のイザナギは黄泉の国へ迎えに行くのですが、すでに黄泉の国の食べ物を口にしたイザナミは元に戻れなくなってしまいました。
しかし、そこを何とか頼み込んで帰ってくるように懇願したところ、黄泉の国を出るまで決して後ろを振り返らないでと約束をさせられます。
しかし、するなと言われたらしたくなるのが、神様も人間も同じです。不安に思ったイザナギは後ろを振り返ってしまいます。
「みたなー!」と恐ろしい形相をしたイザナミが激怒し、よもつしこめが追いかけてきます。
ほうほうのていで逃げ出したイザナギは穢れた体を小戸のあわぎはらで洗い清めるのです。それが、「禊(みそぎ)」です。
その禊によって生まれでた神様のひとつが警固大神です。
この禊の場所って宮崎だと思われている方が多いのですが、この福岡ですよ。その証拠にそこで生まれ出たたくさんの神様を祭ってある神社が普通にあるからです。
そのなかでも、埴安神社はこの福岡を中心に12箇所ほどあり、全国的にもこのように集中している場所はありません。これを話すとちょっとマニアックに成るので、ご興味のある方はメールください。
話を元に戻します。
この警固神社は、もとかつて外国施設をもてなす鴻矑館(こうろかん)の警固所にあったため、警固とよばれており、いまはそれが地名となっています。
さらにここに祀られている三柱の神様は、神直毘神(あみなおほびのかみ)、大直毘神(おほなおびのかみ)と呼ばれる曲がったことを正しくする神様や禍を転じて福となす神様なのですが、もう一柱の神様は、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)というなの凶事を引き起こす神様なのです。
キリスト教的な善悪で捉えると、どうして禍を起こす神様が祀ってあるのか理解できないのですが、ここが日本らしいところなのです。
つまり、この世の中「いいこと」も「わるいこと」も存在します。わるいことを否定しても現実にはそこに存在するのです。しかし、それも一緒に受け入れ、自分の見方を変えてみるとそこには、違う面が現れてくるのです。
たとえば、大震災という大変な凶事が起こったのですが、それは堕落した日本人を目覚めさせる大きな転機となりました。またそうならねば、たくさんの命が無駄になります。
凶事を否定しても、何も始まりません。そこには現実としてあるのです。しかし、それをどのように捉えるかによって、未来が変わるのです。そうやって日本人は、自然災害を受け入れ、その悲しみを共有し、乗り越えていきました。
そこには西洋的自然を克服しようという傲慢さはなく、その自然の驚異を受け入れ、おそれ、敬いながら生活をするという自然と共存する生き方が生まれでたのです。
それを警固大神は教えてくれていると思います。
ある学者は「神道には教義(ドグマ)がないから、宗教ではない」と言い切る人がいますが、こんなあほが学者をやっている限り、日本の神道のよさは理解できないでしょう。この警固大神のように神様の名前と存在が教義につながっているのです。
福岡ではフグのことを「ふく」といいます。
私たちは、この警固神社で禍を福(ふく)となすために、腹いっぱいに最高級のフクをひれ酒とともにいただきました。