国旗・国歌に敬意を払うのは当たり前だ! | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
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 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 昨日は、私たちの会の恒例の新春講演会で日本ニュービジネス協議会連合会の会長でおぶつだんのはせがわの長谷川裕一会長にお話をいただいた。

 40名ほどの内輪の会ですが、はじめに国旗に礼をし、国歌を斉唱して始めました。全員が国旗に向かって直立し、荘厳に国歌を歌うと気持ちがしゃきっとします。そして、日本人でよかったと実感する瞬間でもあります。

 長谷川会長の話も日本のことを憂い、今は日本がアメリカの植民地だとまで言い切る歯切れのよさに本来の日本を取り戻すために、各自の役割を果たさねばならないと自覚した新春の夜でした。

 目覚めて朝刊をみると、君が代訴訟判決の記事が載っていました。

 だんだん日本人も日本人としての資質に目覚めてきているように思えます。日本人が日本の国旗、国歌に敬意を表するのが当たり前という感覚がだんだん出てきたように思えます。

 私の気のせいでしょうか。

 特に東北大震災以後、日本人の目覚めが顕著な例が多々見られます。成人式の様子もその大きな変化のひとつです。成人式が当たり前にできるありがたさをみんな理解しているのです。残念ながら沖縄ではいつもの様子が見られましたが、それでも以前に比べれば圧倒的に少ない模様です。

 日本国が独立国として国民の意識を統一するもの、それが国旗です。これにはサッカーの日本代表が大きな力を発揮してくれました。帰化人であるラモスが代表のユニフォームに日の丸がないのはおかしいといい始め、当時の日本代表の柱谷やカズも同調し、日の丸がつけられたと聞いています。

 自分たちは日本を代表して戦っているという気概でそれぞれの国を代表してくるチームとぶつかり合うために、国際試合は日ごろあまりサッカーに興味のない層の心にも強烈にアピールするのです。

 野球でも、日ごろクールと思われていたイチローが日の丸をつけてプレーする意味を熱く語り、それ以降彼の成績もあいまって、ヤンキースの松井の人気を凌駕しました。

 それを見て育ってきている子どもたちも学校で日教組の先生が日の丸を目の敵にする姿は奇妙に映ったはずです。やっとまともになってきたと思います。

 35年前大学の一年生だった私は、アメリカ大陸をバスで一ヶ月間かけて一周しました。会話できる程度の英語力でしたが、いろんな人に出会いすばらしい旅でした。しかし、旅を始めて2週間たつと、ホームシックにかかりました。テキサス州に入ると一切日本人とは合えず、日本語や日本のことをテレビや新聞を見ても目にすることはできませんでした。

 いまのようにインターネットやフェイスブックがあるわけでなく、ローカルな新聞しかないテキサスの田舎は、町の誰々の息子と誰々の娘が結婚式を挙げたというのが、一面に載っているような状況です。
 
 落ち込んでヒューストンの町の中を歩いているとデパートに各国の国旗が掲げられていました。もしやと思ってみていくとありました。日の丸が。

 いまでも思い出すと胸が熱くなります。アメリカやドイツやイギリスやオーストラリアの国旗に混じって、斜めに突き出されたポールに日の丸がテキサスの乾いた風に堂々と翻っていました。

 なんとも言えない感動を味わいました。

 俺は一人ではない! 日本人として日本国の国旗が見守ってくれているという日本人としての誇りが生まれてきたのです。

 それまでは、アメリカに憧れ、英語を学び、西洋のほうがいいと思っていた西洋かぶれが日の丸を外国で見た瞬間に、日本大好き人間に生まれ変わったのです。

 それから、学校教育によって染み付けられた自虐史観に疑問を持ち、歴史を学び始めました。そして、今ははっきりと日本のすばらしさがこれでもかこれでもかとつぎつぎに発見する毎日です。

 国旗を仰ぎ、国歌を歌うときにこの国土に存在するすべての魂と一体化するような気持ちになり、とても気持ちいいのです。隣の人とつながっている感じもあり、安心できるのです。

 日の丸や国旗を否定する人は、何を頼りに生きているのでしょうか、聞いてみたいものです。日本人が国歌・国旗に敬意を払うのは至極当たり前とおもうのです。