長い箸の話の続き | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
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 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 昨日のブログをアップするときに、急いでいたため押すボタンを間違え、アメーバ専用になってしまっていました。気付いてから変えましたが、私はここの記事をどんどん広めたいと思っています。専用なんてするつもりはまったくありませんでした。せっかく訪問いただいたのに、読めなかったたくさんの方々済みませんでした。今後のこのようなことのないようにしますので、お許しください。

  この長い箸のお話は、日本で作られた説法といいましたが、日本の仏教というのはインド、CHINA、朝鮮半島を伝って入ってきてから、独特の変化を遂げていきます。

 たとえば、臨済宗が鎌倉時代に入ってきてから、江戸時代になるまで臨済禅は、神道と結びつき個という考えから、公という考え方がどんどん入ってきます。そしてCHINAには存在しない「忠」という考え方が「孝」と結びつき、日本独特の「忠孝」という考え方が発達していきます。

 江戸時代になって隠元禅師が大陸からやってきて黄檗宗を伝えたといわれますが、これは厳密には、臨済宗黄檗派なのです。ところが、400年間の間に日本で発達した臨済宗は大陸のものと大きく違っていたのです。

 そのため、黄檗派は黄檗宗として日本に根付きましたが、その内容はほとんど大陸のままの禅宗になっています。細かい内容は書きませんので、ぜひ、黄檗と臨済宗の違いを調べるのも面白いですよ。

 さて、長い箸の話の続きです。ここからは、私のオリジナルですので引用される方はご注意ください。

 地獄で長い箸を使ってみんなで助け合って食事ができたというお話ですが、そのときそこはもう既に地獄ではありませんでした。

 地獄というのは、自分の我欲だけに縛られて、それをそれぞれが主張する場と考えて良いのではないでしょうか。だれも他の人のことなど考えず、自分のことだけを考える場所。今の政界を見ていると、だれもが気分が悪くなるのはそういう地獄図を見せられているからではないでしょうか。

 田中真紀子のだんなで長く参議員をやっているからせめて一回大臣にしてあげないと協力しないわよといわれて防衛大臣にでもしようかとした矢先から、一川素人防衛大臣に勝るとも劣らない素人振りが露呈しました。これは安全保障の専門知識の問題ではなく、国家機密を扱う大臣としての資質の問題だと思います。

 長くやっているから大臣のポストに「つかせてあげたい」、「つけないと協力しない」、「まあ仕方ないな」という私心からの任命がまた国防の任に当たる自衛隊員の士気を大きくそぎました。

 これも、東日本大震災で活躍された自衛隊員の自負心を大きく傷つけ、やはり俺たちは日陰者だったと知らしめるための恣意的な任命にしか思えません。野田総理よ、あなたが自衛官の息子だったというのは、隠れ蓑だったのか?

 話を元に戻します。

 地獄で極楽が出現します。ちょっと考え方を変えるだけでこうなったのです。

 実はお釈迦様が悟りを開いたときと同じなのです。以前にも書きましたが、苦行では悟りを開けないとわかったお釈迦様は、それまで牛の乳は子牛のものでそれを取り上げるのは良くないとかたくなに拒否されていたのですが、弱った自分に牛乳粥を差し出してくれたスジャータの心の優しさによって、凍りついた心を溶かして飲んだ瞬間に、同じ景色が違って見えたのです。

 今までは、他の命を奪って自分の命を繋ぐという醜い世界から、自分の命を差し出して他の命のために生きるという世界が見えてきます。そして、菩提樹の下で悟りを開かれるのです。

 では、悟りとはなんでしょう?

 悟り(さとり)とは、他人との差を取ることです。差を取るからさとりなのです。

 これは、日本人が神道の中で考える神の概念と同じです。神の中に私は存在するという考えです。自分が自然(神)と一体化するときに、無常の喜びを感じ、幸せな気分になれます。つまり、そこにある自然と自分との差を取ったのです。

 そのなんとも言えない幸せな感覚を悟りといっていいと思います。それを仏教は理屈で説こうとしました。禅宗は座禅をすることによってその一体感を理解させようとしました。キリスト教は一神教のために矛盾が出るので、イエスキリストというナビゲーターを登場させ、神と人間を繋ごうとしたのです。

 話がまた難しくなってきたので、またぼちぼちとこのブログで書いていきますね。

 ただ、核心は日本人が本来持っている心が悟りの一番の近道だということです。