文楽「曽根崎心中」を見て思ったこと(どうして日本人は心中ものが人気があるかの考察) | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
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 博多座に人形浄瑠璃を見に行きました。正確に言うと連れて行っていただきました。


 というのも、こういう日本の伝統芸能はちょっと敷居が高く、今まで敬遠していたのですが、今年になって歌舞伎、大鼓、お芝居、日本舞踊、筑前びわなどなぜか一流どころとお知り合いになる機会がめぐまれたのです。


 文楽などどこが面白いの?という素直な先入観を持っていきましたら、博多座は年寄りで満員。ご婦人方は着物姿が多く、ちょっと雰囲気が違う、格式が高いなという感じがしました。


 太夫と呼ばれる語り手がお謡いを披露し、それにあわせて人形を操っていきます。早い話が人形劇なのですが、これがパンフレットの英語版いわく「世界で最も洗練された人形劇」なのです。


 まずは、舞台と人形の衣装の豪華絢爛さ。本当に目を瞠(みは)るという表現がぴったりの美しさです。その動きもはじめは人形の動きですが、だんだんなれて物語の流れに乗ってくると、人形を動かしている人はまったく気にならず、人形が生命を吹き込まれて感情を持つように見えてくるのです。


 『おお、これが本物の芸か』と感嘆せずに入られませんでした。それは、西洋の人形劇では到底表現することのできない使い手の命が乗り移った瞬間でもありました。


 太夫の語りも『おれの知性なら理解できる』とうぬぼれていましたが、日本語なのにほとんどわからず、睡魔との闘いでした。しかし、それでも流れについていけるようになると、面白さがわかるようになりました。


 床本と呼ばれる太夫の語りが書いてある本を休憩時間に読んで一通り頭に入れてみると、これが面白い。このせりふをこういう節回しで言うのかと感心しながら、人形の動きを見ていると、前述のように人形に命があるように見えてくるからさあ不思議。


 昨晩の二つ目の演目は「曽根崎心中」という近松門左衛門の代表作ともいえる大人気浄瑠璃です。名前は知っているものの見るのも初めてでした。


 遊女のお初と恋仲になった商家の手代が、友人にだまされてお店のお金を融通してあげたために、当時命よりも大切な商人の信用をなくしてしまいます。そのために、このままこの世で添い遂げられないものならば、いっそあの世で一緒になろうと心中をするのです。


 二つの人形が手に手を取ってくらい夜道を逃げていき、そして刃物を使って心中する場面は、もう「ふたつ」ではなく、「二人」としか私の目には映っていませんでした。会場からもすすり泣く音が聞こえ始め、二人がこの道しか選べなかったのかかわいそう、いや、この方が二人にとって幸せかもしれないと同情する感情が入り混じって、しっとりとした最後を迎えます。


 この心情はなんだと考えました。


 なぜ、この心中ものを長い間日本人は好んできたのかと。


 そこで考えたのが、次の考察です。


 男性と女性が好きあっているのに一緒になれないとき、それは世間や倫理観などによって状況は変わりますが、日本人は往々にして死を選んできました。


 それは現世(うつせみ)に生きる人間の命だけが本当の命ではないという死生観から生まれるものではないでしょうか。現世(この世)と来世(あの世)は同じように存在し、現世で一緒に成れなければ、来世で一緒になれるという魂(たましい)が生命(いのち)であり、肉体は本来借り物であるという日本人の感覚だと思います。


 そこに、女性も好きな男性がいうとおり、命の選択を相手に「委ねる」という行為に、無上の愛を感じるのだと思います。至上の愛といっても良いこの行為を日本人の感覚で「美しい」とみなすのです。


 なぜなら、我を持つことは、人間として卑しいという価値観が存在する日本人は相手のために我を捨てることがどれだけ美しいことかと映るのです。特に、戦後教育で日本の伝統的な価値観が失われつつある現在、この自分の命も大切だけど、その大切な命よりももっと大切なものがあるそれが二人が一緒に添い遂げることという優先順位のつけ方ではないでしょうか。


 この曽根崎心中のお初は遊女です。つまり春をひさぐ職業ひらたくいえば売春婦です。肉体の関係よりも精神の結びつきを重要視して日本人独特というよりこの時代の庶民の皮膚感覚に近いものがある中で、好きな相手に自分の命までも委ねる、つまりすべてを「受け入れる」という感覚が当時から現在に至るまでに私たちのDNAの中に入っているのではないでしょうか。


 「ラブイズオーバー」という昔の歌謡曲の歌詞で、「私はあんたを忘れはしない、誰に抱かれても忘れなしない」という歌詞があり、ずっと引っかかっていたのですが、昨日の文楽を見て、日本人の魂と肉体の分化がここに現れているのだと考えました。


 ちょっと考えすぎでしょうか?


 この世を「うつせみ」とよび、それは空蝉(せみの抜け殻)に通じるのが日本文化です。西洋のキリスト教的な死生観では絶対にありえない、自分が人のために命を投げ出すという行為が一握りの英雄だけでなく、一般の人々からも多数出現する民族です。


 キリスト教は、他人のために命を投げ出すことが至上の愛でイエスキリストはそれをされたお方だと説いているのは、日本以外の民族がそれをほとんどしないから大切な教えの中心になっているではないかとも思えてきました。


 日本ではそれが普通のことであり、それをすることがおとなの証だからです。東北大震災の津波の時には各地で自分の命を投げ出し他人を助ける行為が見られました。普通の人が英雄になった場面ですが、あまりにも数が多すぎるくらい当たり前の行為でした。


 人間が本来持っているものは、崇高な魂だけです。肉体は仮の姿であり、そこに惑わされるから人間には悩みが生じるのだということも納得してきました。それを人形という無機物が演じるためにぎゃくに魂という有機物が見えやすくなるのではないでしょうか。それが人形浄瑠璃の魅力だと思います。


 それを作り上げてきた先人たちの智慧は本当にすごい!これが日本文化の奥深さだと気付かされた一日でした。