釈迦の悟りが日本に出現した3.11 | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
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 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 毎週金曜日に早朝勉強会に出席してきたばかりで興奮冷めやらずにこれを書いています。


 今日のところは、お釈迦様が悟りを開いたところを読みながら、松岡先生が解説をしていただきました。皆さんもご存知と思いますが、釈迦は悟りを開くため、苦行をしていました。生老病死の四苦、愛別離苦の八苦の世界をどう自分の中で理解するかを思い浮かべての苦行です。


 いまでも、インドやキリスト教の一部にも自分の肉体に苦痛を与えて神の言葉を聴こうとする行者さんがおられますが、それと同じようにお釈迦様も、他の命を奪うことにより吾が命を永らえるというこの世の中のすべてのものに疑問を抱いて苦行をされていました。


 ところが、苦行では悟りが開けないと気付いて川に入り、6年間一度も洗ったことの無い体を水で洗い清め、垢を落としました。そして、そのときにバラモンの娘のスジャータから差し出された牛乳で作った粥を飲み、体に栄養をつけるのです。


 この世の中、他の命を取らないと自分の命を永らえることのできない殺し合いの世界と思っていました。だから、子牛のための牛乳もそれを横取りするような気がして飲むのをかたくなに拒否していたのです。食事も自分の命を何とかつなぐためのわずかなもの取りませんでした。


 そのためにあばら骨が浮き出て、その上に血管が見えるようなガンダーラ美術の代表作のひとつである「出仙の釈迦像」であらわされる像のような姿になっていたのです。


 しかし、その痩せさらばえた自分の前にさしだされた今まではかたくなに拒否していた牛乳粥を受け入れるのです。それは牛乳という食べ物を受け入れたのではなく、少女の愛(慈悲)を受け入れたのです。


 するとどうでしょう、いままで殺し合いの世界だと思われたところが、助け合いの世界だと気付くのです。

 

 自分を取り巻く世界は何も変わっていません。ただ見方が変わっただけなのです。


 私はこの話を聞きながら3.11のことを思い出しました。自分では九州福岡で何も体験していないのですが、テレビの画像を通して伝わる悲惨な状況、つまり自然が人間や動物、そこにある命や生活手段や思い出をすべて奪いつくしていく地獄が出現したのです。


 まさに殺し合いの世界です。多くの人が神も仏もいないのかと天を仰いだのですが、その後に現れた世界は、まさに仏の世界でした。


 生き残った人々が不足する物資を分け合い、助け合って行く姿が出現しました。その映像を見たすべての人々が、日本人だけでなく全世界の人々が賞賛したのです。これこそ仏の世界、神の国が現れたと。


 この姿を見て、後にアメリカで起こった自然災害のときに、誰も略奪や暴動に参加しませんでした。数年前のハリケーンのときは、暴動や打ちこわしが各所で起こったにもかかわらず、今回はほとんど無かったと聞いています。


 日本の人たちが現実に見せた彼らにとっての神の国の世界に倣ったのです。自分たちの今までの行いがどれだけひどかったのかを気付かされたのです。奪い合えば足りない、分かち合えば足りるの世界を知ったのです。


 3.11でたくさんの命が失われました。たくさんの愛する人たちが死別しなければならず、いまだに復興のめども立っていない悲惨な状況が続いています。


 しかし、その場にいた人は無意識のうちに、仏が悟った世界、つまり助け合う世界を現世界に出現してくれたのです。


 それは私の心を打ちました。多くに人の心を揺さぶりました。だから、日本人すべてといっていいほど、義捐金をだし、ボランティアとして現地に入り、すこしでも人々ためになろうとしたのです。それは世界に飛び火し、貧しい国々からも精一杯のお金が届けられました。海外の人たち出合うと、合う人毎にお見舞いをいわれた方も大勢おられると思います。


 

 お釈迦様は仏教によって、人を救おうとされました。


 今回は、3.11の大災害によって、人々を救われようとされているのでないでしょうか。私たちはたくさんの犠牲によって生かされています。もし私たちがすばらしい未来を気付いていかなければ、この犠牲になった人々は犬死になってしまいます。


 この件から何を感じるかは人それぞれだと思います。


 でも、何かを感じるならば今の自分にできることをすることが必要ではないでしょうか。


 人を赦すことでもいい、ちょっとだけ周りの人に親切にするのでいい、身近な人にありがとうというのでもいいのです。小さな素敵なことを積み上げることがこの世を幸せにするんだということだとお釈迦様が行っているように思えてなりません。


 私自身煩悩多く、迷い多き人間ですが、ただ自分がしなければならないこと、自分の役割は気付き始めています。それを一歩ずつ確実に歩んでいくことが大切なことだと思っています。


 なぜなら、私たちは生かされておかげで生きていけるからではないでしょうか。