フォーNET12月号寄稿分 野田総理大臣と老中阿部正弘 | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
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 野田総理大臣をはじめて認識した時、というのもあまりにも地味で気づかなかったのですが衆議院議員5期目の大ベテランでした、誰かに似た人だと思っていましたが先日やっとその疑問が解決しました。


その人の名は阿部正弘で、備後福山藩第7代藩主というよりも、ペリー来航時の老中首座(総理大臣)といったほうがとおりがいいでしょう。この御仁も25歳で老中(つまり国務大臣)に抜擢され、以後39歳で亡くなるまで老中を務めます。この人のあだ名は「瓢箪鯰(ひょうたんなまず)」といい、泥鰌(どじょう)総理と何か通じるものを感じます。


任期中の情勢も現在と酷似しており、老中になった時が1843年、ちょうどアヘン戦争により清国がぼろぼろになっているときで、日本にも開国の圧力が日増しに高まっているときでした。若いときには、罷免された水野忠邦が老中首座に復帰するとそんなことをしたら将軍の権威と沽券を傷つけるものだと具申するなど硬骨漢ぶりを見せたかと思うと、年数を重ねると相手の話を良く聞くが自分の意見を言わない調整型の政治家に変貌します。


そしてハイライトは、1852年にペリー提督の東インド艦隊が浦賀に来航して通商を求めると、一度は鎖国を理由に拒否しますが、この国難に際し、阿部は外様大名を含む諸大名や市井からも広く意見を求めます。しかし積極的な打開策を見出せないまま、翌年再度来航したペリー提督と日米和親条約を締結し鎖国政策を終焉に導きました。当時の幕府は政権担当能力が極端に落ちており、国難に際してなんら手を打つことなく、外様大名とはいまでいう野党のようなものですが、ここにも意見を求めるなど混迷を極めています。


片や野田総理も野党のときは靖国神社に行くのは当然のように言っていたのに実際総理になると行かないと言い出し、英霊に哀悼の意を表するだけでなく、一般の国民に報恩・感謝の重要性を説くことができる絶好の機会を失ってしまいました。つまり国のために勇猛果敢に働く人を育てようという気がないのです。総理大臣自ら報恩・感謝の意を態度で示すことがどれだけ大切かを理解していないのか、わかっていても反対勢力が怖くてできない臆病者なのです。さらに国会は衆参のねじれ状態は相変わらず続き、党内でもTPP慎重派の動きが気になりなかなか前に進めません。これもなにか平成の開国といわれているTPPのなし崩し的な参加表明と相通じるところがあるように思えてなりません。


阿部正弘も攘夷派、開国派の両方の勢力からもみくちゃにされ、39歳という若さで他界してしまいます。ただ、この人の歴史的価値は、吉田松陰先生の密航の罪を穏便に済ませたため、萩へ送り返しました。そのため松陰先生は松下村塾を開くことができ、高杉晋作や伊藤博文など明治維新に欠かせない人々を覚醒させることができました。


ただ幕末と現在の大きく違うところは、幕末の人々は攘夷派であろうが、開国派であろうが日本の行く末を自分のことのように憂い、日本国のためには自分の命まで捧げる覚悟の人々がたくさんいましたが、今の日本にはそんな熱い人はいるように思えません。それどころか、政権内部に日本のことよりも他国の利益を優先する輩(やから)がごまんといるからです。


この優柔不断な阿部正弘が亡くなった後に出てきたのが安政の大獄で有名な井伊直弼です。大老井伊直弼は地に落ちた幕府の権威をもう一度復活させるべく強権政治を発動します。それによって殺された人々の恨みを持って倒幕へと大きな舵が切られます。


この井伊直弼に当たる人は一体誰がなるのでしょう?歴史は繰り返すといいますが、これほどまでに酷似した状況になるのでしょうか。それは、今の日本人にきっとこの国難は乗り越えられると示唆しているのではないでしょうか。