外尾悦郎氏の講演を聞いて | 井上政典のブログ

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外尾悦郎「三千年紀を如何に生きるか」講演をきいて

                     20111115日                       

福岡シンフォニーホール(アクロス福岡)

歴史ナビゲーター 井上政典

 3.11の震災の後、人々は何のためにどのようにして生きるかを真剣に模索し始めたのではないでしょうか。今日はそれを考える時間にしていきたいと思っております。


 三千年紀というのは、二千年紀はヨーロッパや日本など、それぞれの国々がそれぞれの国の都合で過ごしてきたものでしたが、これから1000年は地球という単位でものを考えていく時代に入ってきたのではないでしょうか。


 この地球という石ころは、猛烈なスピードで飛んでいるものです。それをここにいる人々は誰も気づきません。ちょうどこの建物の中にいる人が外に出ない限りこの建物の外観を知ることができないようにであります。


 私は33年間、このサクラダファミリアで石を彫っています。どうしてここで石を彫っているのかをお話しましょう。京都市芸術大学美術学部彫刻科を卒業し、いろんな学校の非常勤講師をしていたときでした。一所懸命に働き、生徒たちに教えるというそれはとてもエキサイティングな仕事をしていました。彼らの疑問にはできる限りの努力をして答えてきました。ところがふと、自分の疑問にはどう答えるかという疑問が沸き起こり、何かが呼んでいるのではないかとヨーロッパに渡り石を彫るようになりました。すると石の中に私を待っているものを見出したのです。何万年も空気に触れたことのない石を彫ることにより、そこの中にあるものを出現させることができる喜びを見つけ、そしてサクラダファミリア教会にたどり着き、そして現在まで石を彫り続けています。


 昨年11月にローマ法王ご臨席の元、献堂式を行い、内部は教会として使っていいよというお墨付きをいただきましたが、外観はまだ100mクラスの塔を後10本建てなければなりません。ガウディが作り始めたこの教会をガウディ死後100年に当たる2026年までに完成させようとしております。

 それでは、なぜガウディはこのサクラダファミリア教会を作ろうとしたのでしょう。ガウディの気持ちになって考えてみました。ガウディは1926年に市電に轢かれ、死ぬまでに三日間その貧しい身なりのために、どこでも引き取り手がなく、やっと運ばれた病院でも満足な治療も受けられずに激しい苦しみの中で無残に死んでいきました。


 しかし、私の持っているガウディのデスマスクをみると彼の顔は満足げで穏やかな顔で死んでいったことがわかります。痛みと苦しみが体を襲う中、病院の片隅で神に祈りながら治療を受けられずに死んでいったガウディは、どうして幸せな顔をして死んでいけたのでしょう。本当の幸せってなんだろうと考えるようになったのです。


 不思議なことに100年以上にわたる建設中に一度も死亡事故が起きていません。これは奇跡というしかありません。そして今も命綱もつけずにひとつひとつ石が運び上げられ、高いところまで積まれていっているのです。


 青い目をして一生独身を通したガウディは、生まれたときからリューマチを患い、まっすぐに眠ることのできない体を持っていました。タラゴナで生まれ勉強し、そしてバルセロナに出てきてこの教会を作り始めました。両親はガウディが生まれる2年前に二人の子供をなくし、生まれてきたガウディは体に病気を持っていました。両親は彼の立身出世よりも何とか生きていてほしいという願いが強く、生きてさえいればいいというところから、学校も行かず日々を痛む体とともに彼に無理をさせないように育てたため、スペインの大地とともに生活をする日々を送りました。


 しかし、それは学校にも行けず友達もいない、もうひとつの痛み、「孤独」という痛みが付きまとっていました。来る日も来る日も石の上に座り、とりおり蝶や鳥や動物が顔を見せてくれるのが唯一の楽しみであり、だんだんに自然を受け入れるようになっていきました。


 ガウディの唯一の友達たちがひょいっと入ってきてくれる植物の間が彼にとっては門のように見えたのでしょう。そのタラゴナ地方のどこにでも生えている植物がこのサクラダファミリアの塔の形となりました。彼を本当に幸せな気分にさせてくれる、つまり自然を観察し、受け入れることができた植物がこの教会の100メートルの高さの塔になり、シンボルになっているのです。それは体の痛みをやわらげてくれたばかりではなく、そこから生きているという実感を持つことのできる友達である虫や鳥や動物が入ってくる門のような存在だったからです。


 これと同じように、サクラダファミリア教会は、自然をペットや克服するという思想で作られてはおらず、目に見えるものではなく本当に自然を作っているものを中心として設計されているのです。たとえば、この石を積み上げただけの100メートルの塔は、建築の最大の敵である引力によって成り立っています。ネックレスのように下方に描く放物線を逆さにして設計図をおこし、そのとおりに石を積んでいけば引力の働きできちんと100メートルの塔が微動だにせずにそこに立つのです。


 そこには、現代人がエコロジーとか言って自然をまるでペットのように考えている人が多いのですが、自然に対しての畏敬の念、智慧、感謝などを感じることによって今後の方向性も見つけることを考えなければならない時期に入ってきていると思います。これまでの私たちは、人間が万能の力を持ち、人間がすべてを判断できる力を持っていると過信していたのではないでしょうか。それを見事に破壊したのが3.11だったのではないかと思います。


 これは人間のもっている別のインテリジェンス、少し先のことがわかるという能力、それは子供が走り回り、『親があぶないよ、こけるよ』といった矢先に子供がこけるようなものではないでしょうか。私たちはまだ子供のようなものです。すべて人間ができると信じて突っ走ってきたことの反省をする時期です。もっと大人になる時期だと思います。


 このガウディの建築は、自然とともに成り立っています。たとえば、教会につき物なのは窓です。スペインの燦燦と輝く太陽が教会内部をあまねく照らすことが求められますが、窓を大きくとればとるほど、建物の強度は弱くなっていきます。そこで、ガウディは考えました。誰に相談しようかと。そして思い立ったのは、光を取り入れるための問題であったら、その光に答えを効けばいいということで、次のような形になりました。


 それは、横から見ると鼓のような形であり、開いている穴は小さいのですが、東から日が出て西へ沈む太陽を見れば、その太陽と同じ線を確保し、さらに強度を保つためにはこの形が最適だということがわかります。そうです、答えは光の中にあったのです。


 さらに、煙突の問題は誰に聞けばいいのでしょう。そうそれは風に聞けばいいのです。煙を出すには気圧が変えればいいのですが、風を巻き込むことにより煙を追い出すというふうに、これも風に答えを求めた結果がこうなるのです。


 自然というものから答えを求めたガウディは、病気というものを持っていたために子供のころから自然を観察してきた生き方が、大科学者がする自然から答えを導くというこれがオリジンです。ガウディの言葉に「オリジナリティとはオリジンに戻ること」とありますが、子供のような心をもち、目の前にあるものを素直に観察し、問いながら答えを得ることなのです。


 幸せは、人が家族や友や社会を持ち、楽しく過ごせる場所を得ることだと思っています。だから、サクラダファミリアの中には、働く人の家族のために学校があります。朝一緒にお父さんと子供が学校に行き、そして一緒に帰るのです。そのためにも危険を予知し、無理をせず、普通に働き、普通に帰るという生活の中で100年間一度も死亡事故が起きていないことにつながると思います。


 ガウディが悲惨な死に方をしたにもかかわらず、死に顔が幸福いっぱいだったということは、自分が自分の生きる道を見つけ、それを死ぬまで歩んでいったからではないでしょうか。彼が自然の中からいろんなものを学んだように、自然に帰っていったのだと思います。その自然という概念は、彼にとって自然=神様というものになっていったと思います。神から生まれて、神へ帰るという当たり前の行為の中で、神も御許に帰る事がいやなことであるはずがないからです。

 ここからは、質問に答えてのものなのですが、箇条書きにいいなと思ったことを書いていきます。

しっかりとふるさとを持っている人は、どんな遠くにも行ける。心の中にふるさとを持っている人は勇気を持つことができる。それがアイデンティティ。

ペルシャ人は、子供に馬に乗ること、老人を敬うこと、そしてうそをつかないことを教える。これが教育の基本。今の教育は知識偏向教育。智慧を教えるべき。

ガウディは日本人と同じような感覚を持っていました。自然を敬う心、深いところでつながっている。日本人と同じものがあると私は公言できます。

石を彫っても作品ができるだけ。でもそれを続けることで「私」という石に出会いました。それは探していたものであり、結局、自分は自分を探していたことがわかった。

「自由とは無知の証明」自由になりたかったら全部忘れることだ。素直に自分を高めていくことが大切である。

 以上、昨日の講演を聴いてまとめたものです。文責は井上政典にあります。