聖一国師は博多の宝 | 井上政典のブログ

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 以前にも「博多は仏教の聖地だ」でも書きましたが、聖一国師のことについてもう少し触れてみたいと思います。というのも、役者をしている友人と一緒に博多の偉人シリーズで劇をしようということを企画し、その原稿を書いているからです。第一回は、やはり山笠や饂飩・饅頭を伝え博多になじみの深い聖一国師がよかろうと現在いろいろ調べており、その知りえた情報を書き記したいと思います。

聖一国師は、大変優秀な人物ではじめは天台宗を学び、その後臨済宗を学びました。国内のあらゆる高僧について禅を極めようとしましたがどうしても自分自身納得できません。そこで宋にわたって本場の臨済禅を学ぼうと博多にやってきます。


 当時大陸は西から興ったモンゴル帝国が金を滅ぼし、南宋を圧迫している時でした。扶桑の国(桑の葉の繁れる豊かで平和な日本のこと)から来た留学僧(聖一国師)はめきめきと頭角を現しますが、やはり帰国の際には暴風雨のため船が沈みそうになり、筥崎八幡宮に無事の帰着を祈願するほどでした。

 

 でも、ここで疑問が湧いてきました。

 

 「どうして、聖一国師はこれほどまでして宋に渡ろうとしたのか?」という疑問です。なぜならば、命をかけて渡航しなくても十分に国師は名僧といわれる存在になっていたからです。もし自分だったら命の保障も何もないところに敢えて行くだろうかと考えました。普通の歴史では「行った」としか書いていませんしそれ以上の詮索もしませんが、私の歴史に対する考えは「なぜ行ったのか」を重視するのです。何日考えても答えが出てきません。そこで、承天寺のご住職に思い切って聞いてみました。


すると、ご住職はたった一言、「人々を救いたかったのでしょう」と言われました。おおそうだと目からうろこが落ちました。どうしても歴史では『偉人』が何をしたという結果しか書いてありません。それを私たちも拾っていきます。その結果高僧になるとわかっているから、その過程も高僧になるためと決め付けてしまっていることが多々あります。しかし、このとき聖一国師は道半ばでした。まだ今の力では人々は救えないと純粋にご自身を理解されていたのでしょう。


「もっと人々を救えるようになりたい!」と熱烈に心で願われたに違いありません。そのためにはもっと自分が禅を極めなければならないとお思いになったのでしょう。だから危険を冒して東シナ海を木の葉のような舟でお渡りなったのだと思い至りました。


そして6年という長い期間をかけて臨済禅を学ばれました。そして、帰ってきてからも托鉢をするのです。また頭の中は「???」になりました。高僧が、本場の臨済禅を学んで帰国してからも托鉢???と本当にわからなくなりました。


そこでまたご住職にお伺いしました。すると老師はひとこと、「禅宗の坊主だからです」と。そして、「高僧というのは自分が決めるのではなく、人様が決めることです。禅宗の坊主ならば、基本中の基本である托鉢は欠かせません」といわれ、また聖一国師が好きになりました。どこまで、この人は真摯な人なんだと。こんな人がもし身近にいたら、きっと心酔していただろうと考えたとたん、七百年以上前の人なのに急に親近感が湧いてきました。またこの聖一国師という禅宗のお坊様が好きになっていました。


こうやって歴史上の人物の人間的な悩みを共有し、自分もその身になって考えることが偉人を少しでも身近に感じ、大好きになる方法だと思います。聖一国師は臨終の際にこういい残されます。


「我、まだ衆生を救えず」と。なんと実直な人なのでしょう。