ご訪問ありがとうございます。

年末の話に戻るのですが、
何かとバタバタしてテレビをつけっぱにしていたら、NHKで「いいいじゅー」という番組になりまして、
「岐阜県山県市」というワードが聞こえてきました。

お!?

山県市というのは、続ヤマトタケルでご紹介した大碓命と小碓尊(ヤマトタケル)の双子の兄弟が、いまだに「柿野まつり」で揃って演芸を楽しむという垣野神社と清滝神社があるところ‼️

というので手を止めて見ていました。
(車で行くのもたいへんだと聞くので、どんなところだろうと💧)




神社の場所ではないのですが、加藤さんという若い男性が移住されて、
かつて名産だったけど忘れられてしまった「柿渋」の生産をされているということです。

柿渋の紙って水に強いので、昔々美術の時間に柿渋の型紙でステンシルをしたことがあって、その頃は入手方法がわからずその切れ端をいまだに持っています。
(前回の挿し絵の着物の柄はそれで染めています。)

 
白地に銀の岩絵具使用

友禅の型紙に使うんですよね。

加藤さんは柿渋で染め物や染め物体験をやってらして、ネット通販などで広がっているようです。

柿渋の紙って繊維が強くなって、防虫効果があるので、畳やカーペットの下に敷くといいそうです。

このように柿渋染めは復活し、若い方にも人気があるそうなのですが、
地元の人には「古いもの」という意識があり、高齢化のため伊自良イジラの大柿なども、もう更地になりつつあって、材料の渋柿の生産を行う農家が少なくなっているのが、これからの課題だそうです。

ほかにも廃校レストランなどもインスタからバズってるみたいですよ。

過疎化に直面しているところなので、柿野まつりが続いてくれてるように祈るばかりです。(下のブログに動画あり)

「続ヤマトタケル」大碓命の話はこちら 



さて、この前は四道将軍が決まって、出発までの間に起きたことを飛ばしましたので、そちらを見ておきたいのですが、
ざっとここまでのあらすじを(^∇^)

崇神3年9月
磯城瑞籬ミズガキ宮へ都を移す。
5年
国民の半分以上が疫病で亡くなる。
6年
天照大神を豐鍬入姬トヨスキイリビメ命に祀らせる。日本大國魂神は渟名城入姬ヌナキノイリビメ命に祭らせるが、衰弱のため祀れず。
7年2月
大物主神が夢で神託を授ける。
7年8月 大物主神の子の大田々根子オオタタネコに大物主を祀らせると疫病が止んだ。
7年11月
伊香色雄イカガシコオに祭祀用の八十平瓮ヤソヒラカを作らせる。大田田根子を大物主神の祭主に、市磯長尾市イチシノナガオチを倭大國魂神の祭主にする。
9年
神託を受け、盾と矛をもって墨坂神と大坂神を祀る。
10年9月
四道将軍のメンバーを決める。

こうしてみると即位してずっと祭祀に追われていますね。

ちょっと気にかかるのは、
大物主神や倭大國魂神を祀るときは「八十平瓮」を使っています。

これは神武天皇が兄磯城エシキや長髄彦ナガスネヒコを討つ前に
神託によって天香久山の土で平瓮を作り祭祀を行ったのに似ていますが、
それは投降した弟猾オトウカシもアドバイスをしているので、大和式の祭祀だと考えられます。

そして土をとった場所をのちに埴安ハニヤスというとします。

つまり在地の勢力を従わせるのに、在地(大和)の祭祀の方法を使っているのです。

崇神天皇も平瓮を使うのはやはり大物主神と倭大國魂神のような土着の神様で、
逆に平定し奈良盆地の入り口にあたる墨坂と大坂の祭祀には、矛が使われています。

このころ矛といえば銅矛でして、これは北部九州を中心に出土します。

百科事典マイペディア (平凡社)より(コトバンク)

銅矛【どうほこ】
青銅製の刺突用武器。両刃で,柄は身内部に挿入される。中国では殷(いん)代にすでに用いられ,日本では弥生(やよい)時代に朝鮮製の細形銅矛が伝わり,これらは九州北部の墓に副葬されることが多い。銅戈(どうか)と同様,のちに大型化して幅広のものがつくられるようになり,儀器として土中などに埋納された。

というように、初めは甕棺墓に副葬されていたのですが、大型化するにつれ、

弥生時代後期になると、北部九州地域で副葬品としての青銅器が衰退し、すでに中細形段階からみられた埋納品が多くなる。(Wikipedia「銅矛」)

ということになります。
また、その分布は
銅鐸が高さ28cmと大型ではないものの、ほぼ完全な一体と鋳型が佐賀県の吉野ヶ里遺跡からも出土しているのに対し、
銅矛は畿内からは出土しておりません。

ところが「日本書紀」や「古事記」にはここ以外に、
おのころ島の天の瓊矛アメノヌボコや、日本武尊のところのヒイラギの八尋矛が出てくるのです。

畿内では銅矛の出土はないのに、天皇家の伝承としては残っていて、
逆に銅鐸は畿内にたくさん出土するのに、伝承には出てきません。

いったいこれは何を意味するのでしょう?

北部九州には西日本の土器、銅鐸が出土しているということは、人が移動していると思われます。それが博多湾の西新町遺跡に集まってきたのでしょう。

ところが大和の弥生時代後期の都市遺跡である纒向遺跡へ北部九州の人間は行っていないようです。日本各地の土器が出るのに、北部九州や楽浪系の土器が出ない。
これが「邪馬台国=纒向遺跡」説の大弱点です。

一方、天皇家の伝承には矛の祭祀が語られ、
また卑弥呼が行っていた祭祀に関係ある「鏡」が皇祖神天照大神のご神体として扱われます。

この状況を説明するには、どうでしょう?
素人考えかもしれないのですが、
崇神天皇が北部九州から纒向遺跡の王家に婿入りしたのではないか?
と考えれば、

少数の軍隊や家臣のみが大和入りしたために、土器などは食料の輸送のための最低限にとどまり、
祭器もほとんど持たなかった。

ただし信仰は変えられるものではなく、
鏡や矛を祭器としたために在地との対立が深まり、
結局は在地勢力にもともとの大和の神を祀らせることで折り合いをつけた。
というのが、
出土品とこれら神祀りの伝承の食い違いを解消できるストーリーになるように思います。

まあ、こればかりは学説というよりストーリーですが……

補強ですが、Wikipediaによると

同じく北部九州を中心に分布する銅戈とは在り方が異なっている。下條信行は、北部九州から同心円状に広がって分布している銅戈が後進地域にも保有を許されたのに対し、銅矛は北部九州先進地帯の中で「最高の権威あるもの」であったとする。(Wikipedia「銅矛」)

という見解が出ていますので、神武東遷や崇神東遷が史実ではなくても、
天皇家は弥生後期の北部九州の祭祀の記憶を持っている。
ということは間違いないでしょう。

したがって古墳時代の応神天皇の東遷や騎馬民族移動説はないだろうと思います。

それでは、続きを読みましょう。

崇神天皇10年9月27日、(四道将軍に任じられた)大彦命は、和珥ワニ坂(奈良県天理市和爾ワニ町)の上まで来た。その時少女がいて

御間城入彦はや おのが命ヲを弑シせんと 
ぬすまく知らに 姫遊びすも
ミマキイリヒコはなあ、自分の命を絶とうと
時をうかがってるのも知らずに、若い娘と遊んでるよ
と歌います。
大彦命は気になって、童女
「お前が言ってるのはどういうことか?」と聞いた。

けれども少女は
「なんか言ったわけじゃないよ。ただ歌っただけ」
そういってもう一度同じ歌を歌って、あっという間に消えてしまった。

怪しすぎ( ̄▽ ̄;)
童女というのは童男ヲグナと同じく神性があると考えられます。

大彦命はただちに引き返して、詳しく状況を天皇に申し上げた。
さて、天皇の大叔母上の倭迹々日百襲姫命ヤマトトトビモモソヒメ命は、聡明で、賢く、まだ起きていないことを知ることがおできになった。

(姫は)その歌の不吉な意味を知って、天皇に申し上げ、
「これは天皇の庶兄(異母兄)武埴安彦タケハニヤスヒコの謀反の前兆です。
私は武埴安彦の妻の吾田アタ媛が、倭の香久山の土を領巾ヒレ(乙姫様なんかが持ってる長いショール、呪具とされる)の端に包んで、呪文を唱え、
「これは倭の国の代わりにするもの」といいながら、持って帰ったと聞きましたよ。これを聞いてすぐにピンときたんです。早く作戦を立てないと、後手に回ってしまいますよ。」と申し上げた。

そこで天皇は将軍たちを集めて会議をした。するとまだ数時間もたたずに、武埴安彦と妻の吾田媛とが、謀反を起こそうと、挙兵してたちまちにやってきた。

埴安は香久山の神聖な土が採れる場所です
たいへん土着的ですし、皇子なのに「命」がありません。
同じ叛乱者の神武天皇の皇子、手研耳タギシミミ命は命がついていますから、
武埴安彦は在地勢力とも考えられます。

つちなみに吾田媛の吾田は南九州の地名です。
ニニギ尊の妻になるコノハナサクヤビメのまたの名は「神吾田津姫」でした。
神武天皇の長子で日向生まれの手研耳命との繋がりもありそうなので、
実はこの2つの叛乱は、ひとつのものであったかもしれません。

しかしここに出てくる倭迹々日百襲姫命
は、誰に聞いたのか、武埴安彦の怪しい行動を聞いてたんですよね(^^;)
これをもって予知能力というのか?
どっちかというと広い情報網を持つCIAみたいなイメージですね(^∇^)

この後、話が続きますが、長いので今回はこの辺で……

本年もよろしくお願いいたします。