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今日は、さっそく武埴安彦との戦いの様子を読んでみましょう。


そこで天皇は将軍たちを集めて会議をした。するといくばくもなく、武埴安彦と妻の吾田媛とが、謀反を起こそうと、挙兵してたちまちにやってきた。

夫婦はそれぞれの進路を分けた。

夫は山背ヤマシロから、妻は大坂から、ともに都を襲おうとした。

その時、天皇は五十狭芹イサセリ彦命=吉備津彦を派遣して、吾田媛の軍を討たせた。(五十狭芹彦命軍は)大坂で吾田媛の軍を遮り、皆で大いにこれを破り、吾田媛を殺して、その兵卒をことごとく殺した。


また大彦と和珥ワニ臣の祖先の彦国葺ヒコクニブクを派遣して、山背に向かわせ、埴安彦を討たせた。


(二人は)忌瓮イワイベ=祭祀に使う瓶を和珥の武鐰タケスキ坂の上に鎮座させた。

(戦勝祈願みたいなことですね。)


そして精鋭部隊を率いて進み、那羅ナラ山(奈良県と京都府の県境)に登って戦闘を行った。

その時官軍はそこに集合し、草木を踏み均ナラした。それでその山を那羅ナラ山という。


さらに那羅山を出て、進むと輪韓河ワカラガワに到った。埴安彦と河を挟んで留まり、お互い挑イドみ合った。それで世の人はその河を挑河イドミガワと名付けた。今泉河イズミガワというのは訛ったのである。


余談~この泉川は木津川のことで、百人一首の「みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ」に詠まれています。作者は中納言兼輔で、紫式部のお父さん藤原為時のお祖父さんです。この前、為時が申文で、「祖父は中納言で……」と言ってた人です。

この方は当時「中川」と呼ばれていた、鴨川の西に邸宅「堤邸」を営なみ、「堤中納言」と呼ばれていました。そこに後世「盧山寺ロサンジ」が建立され、皇室の崇敬を受け、御陵も営まれました。

当時、祖父から伝領した為時の屋敷に、母を亡くして父のそばにいた紫式部も住んでおり、当時は通い婚であったため、結婚して娘大弐三位ダイニノサンミもここで産み、ここで亡くなったと思われるため、同寺の庭には、紫式部の顕彰碑が建てられて、「源氏の庭」も作られています。

元中納言の新邸宅となると、あのテレビの屋敷はちょっとボロすぎかもw


埴安彦ハニヤスヒコが彦国葺ヒコクニブクの軍隊を見て

「どうして、お前たちは兵を起こして来たのだ?」と言った。

彦国葺は答えて、

「おぬしは天に逆らい、道に背いて、皇室を滅ぼそうとしている。そのため義勇兵を挙げ、逆らうおぬしを討つ。これは天皇の命である。」

それから各々は先を争って弓を射った。


どうもこの二人は知り合いのようです。

彦国葺は淀川水系を押さえていた和珥ワニ氏です。

一方の武埴安彦は第8代孝元天皇の子、

母は河内青玉繋カフチノアオタマカケの娘、埴安媛ですが、

次に出てくる記述で、北河内の大阪府枚方市樟葉クズハが拠点と考えられるので、

武埴安彦は「埴安」という大和の在地勢力の聖地の名を負いながら、淀川水系の古い支配者の血を引く王であったと見ることができます。おそらく崇神天皇の叔父ではなく、欠史八代の銅鐸祭祀を受け継ぐ人だと思われます。


一方、和珥氏はこれ以降、

「淀川水系の庶兄の叛乱伝承」でいつも出てくるようになり、6世紀には息長オキナガ氏と組んで、滋賀県から継体天皇を迎え入れるのに協力したと見られています。

こそういったことから、これはもともと淀川水系の支配権を巡る戦いだったといえます。


和珥氏は開化天皇に姥津ハハツ媛を入れ、その子が丹波の王と考える日子坐ヒコイマス王ですから、天理市和爾ワニ町から開化天皇の本拠地の奈良市春日、さらに山城を抜け山陰道へつながる「山城道」(国道24号線)に沿って北へと勢力をのばしたのでしょう。


この物語の舞台です。


武埴安彦がまず、彦国葺を射たが当たらず、次に彦国葺が埴安彦を射ると、それは胸に当たって(武埴安彦を)殺してしまった。

その(武埴安彦の)軍の兵士は怯え、後退したが、(彦国葺は)すぐに追って、河の北側で撃破して、半分以上の兵の首を切り、その屍骨が多く溢れかえった。

それでその場所を羽振苑ハフリソノ=屠り園(京都府相楽郡精華町祝園ホウソノ)と名付けた。


また敵の兵士が怖じ気づいて逃げ、屎クソ💩が褌ハカマから漏れた。そこで甲ヨロイを脱いでさらに逃げ、逃れられないと知り、頭を地面に打ちつけ

「我君アギ(我が君よ)」と叫んだ。


世の中の人はその甲を脱いだところを伽和羅カワラ(京都府京田辺市河原里ノ内)と名付けた。褌ハカマより屎💩が落ちたところを屎褌クソバカマと言った。今、樟葉クスハ(大阪府枚方市樟葉)というのは訛ったのである。

また頭を地面に打ちつけた場所を我君アギ(京都府木津川市山城町❓️)と名付けた。


「我君」だけは本居宣長の「古事記伝」によって決められていますが、もう少し樟葉に近いところではないかと💦


樟葉はひどい地名起源説話ですが、たぶん河内青玉繋の本拠地とかで、ディスられてるんでしょうね(´-ω-`)


ここは6世紀に継体天皇の宮が置かれますから、その頃は和珥氏の勢力範囲になっていたのは確かです。


ちなみに「淀川水系の庶兄の叛乱伝承」の場所はここです。



①崇神天皇・彦国葺(和珥氏)vs武埴安彦

②神功皇后・武振熊(和珥氏)vs押熊皇子

③仁徳天皇・宇治稚郎子皇子vs大山守命

です。(宇治稚郎子が和珥系皇子)


和珥(春日)氏というのは、5~6世紀に多くの后妃を輩出して「内廷(天皇のミウチ)的豪族」となるのですが、蘇我氏が多くの后妃を入れるのと交替に名前が見えなくなりますが、その規模は大きく全国に丸部ワニベが展開し、その支族には小野妹子や小野篁・小野小町などの小野氏、柿本人麻呂の柿本氏などがあります。

ワニという名前から海洋系とされていて、その技術で淀川水系の水運を握ったと見られています。淀川の源流である琵琶湖の南東部に「和邇」という地名が残っています。


こういった親族間の争いに活躍する伝承を持つのも「内廷的豪族」だからかもしれません。


そうするとこれは史実かどうか怪しくなってきます。とくに途中から大彦命が消えちゃって、彦国葺が中心になっているのもどうかと……(^^;)


ただ「埴安」の名を負う武埴安彦は、やはり大和土着の祭祀文化と関係するでしょう。ですから「庶兄」という位置付けは、和珥氏の伝承に取り込まれて生まれたものかもしれませんが、

三輪王権と在地の勢力との戦いは、実際にあったのでしょう。


また「吾君」?かもという木津川市山城町の椿井大塚山古墳からは、

「卑弥呼の鏡」といって良い内向花文鏡や画文帯神獣鏡とともに、36枚の三角縁神獣鏡が出土し、墳丘もあの「箸墓」の½のサイズで作られています。


「箸墓」は巨大前方後円墳の中でも最古のもので、纒向遺跡の中に築かれているので、被葬者は誰であれ、三輪王権最初の古墳としてよいでしょう。


それと相似形であるというのは、三輪王権にとって大切な人ということです。


もしかするとこの地を鎮圧した彦国葺の墓であるかも、と思います。


武埴安彦の叛乱はこれで終わり、次回はその「箸墓」です。

めちゃくちゃ「邪馬台国」と関わるので、やりにくいのですが、頑張ってまとめます((*_ _)ペコリ


次回もまた、ご訪問くださいませ。