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忍坂大中姫オシサカノオオナカヒメ、
允恭天皇・安康天皇・雄略天皇の三天皇を、后として、母として支えていたこの女性にはどのようなバックがあったのか?
今回はその実家について、考えてみたいと思います。
まずはこの前の系図からあげてみます(*´∀`)つ
これは「釈日本紀」という平安時代にできた、「日本書紀」の注釈書に引用された史料をもとに作った系図です。
今は散逸してしまった「上宮記」という本から引用されているので、
「上宮記逸文ジョウグウキイツブン」といいます。古代史の学会ではものすごく有名な史料で、
聖徳太子の子供や奥さんなどの詳しい系譜も分かるという貴重な史料です。
ところがこの系譜は「上宮記」の本文ではなくて(^^;)
そこに「一云」とまた引きされた系譜で、もともと載っていた史料は散逸して分かりませんorz
ところが、これがなかなかたいへんな史料で、一番最後の「乎富等オホド大公主」は継体天皇です。つまりこれは継体天皇の祖先系譜なのです。
継体天皇については
「日本書紀」には「系図一卷」があったという「続日本紀」の記録があるのですが、失われているので
誉田天皇=応神天皇の五世の孫、彦主人ヒコウシ王の子なり。
とのみ、
「古事記」はあんなに長ーい系譜が好きなのに
品太王の五世の孫
としか書きません。
それを補う系譜がこれなのです
(*´・ω・`)b
といっても
継体天皇のことは先になるので、今回は忍坂大中姫についての、大事なところを取り出しますと、下のようになります。
(左側は「古事記」)
世代を揃えてありますので、比較してみると、忍坂大中比売(踐坂大中比彌)の母は「古事記」では
弟比賣(真若比賣命)亦の名百師木伊呂辨モモシキイロベ
「上宮記逸文」では
囘に心=シツが出ないので黛弘道氏の論文をスクショして加工します(^^;)
したがって、忍坂大中姫の母は
モモシキマワカさんについては、
長女が忍坂大中姫、
その下は田宮中比彌タミヤノナカヒメ王、
「古事記」には田宮中比売と田井中比売がいますが、
ここは黛氏のご指摘どおり、
田宮→田居と誤写したものがあり、
それを「古事記」が二人と誤解したということでしょう。
大姫・大中姫・中姫・弟姫というのは、四人姉妹の場合に一般的な呼称ですから、大姫は伝わっていませんが、
藤原宮にいた妹が「日本書紀」では弟姫なので、中姫が一人の方が自然です。
さて「古事記」には皇后の忍坂部オサカベとともに、田井中比売に河部カワベが設けられています。
「日本書紀」では弟姫(衣通郞姫)に藤原部が設けられていますから、田宮(=田井)中比売も後宮に入っていたとも考えられ、
允恭天皇の後援勢力の姫たちであったと推測できるのです。
男子は「上宮記逸文」ではオホホド王だけですが、「古事記」には取売王、佐禰王がいます。この2人は無名ですが、息長氏に分家があったことを想像させます。
さて、彼女らの実家について「日本書紀」に記述があり
允恭天皇2年の条に
忍坂大中姫が母と一緒に家にいたころ=結婚前のお嬢さんだったころ
闘鶏ツゲ国造が馬に乗って無礼な態度で大中姫に話しかけたことがあり、
後に姫は処罰してしまう、という話がありましたが、
「日本書紀」を見ますと、今度は藤原琴節郎女(「日本書紀」では弟媛)が
時に弟姫、母に随シタガヒひて近江の坂田に在ハベり。
と出てきます。ここから二人の母モモシキマワカは息長氏の本拠地、滋賀県坂田郡にいたという事が判明します。
おそらく兄妹は坂田で育っていたのでしょう。
ただし、米原市から旧長浜市の昔の坂田郡の古墳は、5世紀の時点では旧長浜市の平野部に築造されていて、
ここが彼らの本拠地であったと思われます。
相手は皇子とはいえ四男で、少年期は優しい謙虚ないい子でしたが、大人になって病気をして身体も不自由なことになっていました。名を雄朝津間稚子宿禰ヲアサヅマワクゴノスクネと言います。允恭天皇のことです。
この少し後の顕宗・仁賢天皇は来目稚子クメノワクゴ・島稚子シマノワクゴと言いましたから、この名は小朝妻稚子という意味になります。若君様的な呼称でしょうか?
しかし宿禰は天皇の名としては異例です。スクネは古代の臣下に対する敬称で、武内宿禰、野見宿禰などのようにつけられるものなのです。
一説には「大兄オオエイザホワケ(履中天皇)」に対しての「スクナエ」からきているとも言われていますが、
当時大兄制はなく、臣下の名称としての宿禰は、同時期の「稲荷山古墳出土鉄剣銘」にも使われているので、実存していたとすれば、やはり違和感は拭えません。
もし允恭天皇が倭の五王の済だとすれば、河内春人氏のご指摘のように倭隋の子であり、
もともとは王位継承者ではなかったように思われます。
河内春人氏は安易な比定には批判的ですが、
住吉仲皇子の乱の際も登場せず、
父仁徳天皇が、皇后、イザホワケ、ミズハワケに部を設けたときも、この皇子には部は設けられませんでした。
この皇子が血統的に讃王・珍王と切れている済王であっても不思議はないでしょう。
それだからこそ、皇后の実家の後押しは大事だったのかもしれません。再三、即位を辞退する天皇を位につかせたのは、忍坂大中姫だと「日本書紀」は伝えます。
次回は彼女の宮である忍坂宮について、考えてみたいと思います。
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