今回は小碓命物語の復元に取りかかるのですが、
その前に「大碓命殺人事件」が書かれていない「日本書紀」の方を見ておきましょう。
「日本書紀」では
大碓皇子が美濃の神骨の娘兄遠子、弟遠子を略奪しますが、やはり景行天皇はそれを咎めることなく
小碓尊には全く別に西征を命じます。そして帰ってきた小碓尊を褒めます
(^^)/(^▽^)
次に蝦夷で反乱がおきた時に、小碓尊は
自分は西征で疲れてるので、ここは大碓皇子に行ってもらいましょう( ´∀` )b
と言います。
ところが、大碓皇子は怖じ気づいて草の中に逃げ込んでしまうのです(((((((・・;)
草の中とは皆さんも呆れたと思うのですが、景行天皇もさすがに呆れて
そんなに嫌なことを無理強いするわけなかろう。なんでまだ敵に会ったわけでもないのに、そんなに怖じ気づくのやら┐(-。-;)┌と
本来は皇位継承の候補者であったと思われるこの皇子を、美濃へ行かせます。(江戸時代で言えば江戸から出して、松平家として地方の一大名とした感じでしょうか)
それでもなんだか景行天皇は大碓皇子に甘いですよね。
で、
小碓尊(もう日本武尊ですが)は私が行きましょう!疲れてるけど···(-""-;)
というので
景行天皇は天皇軍のしるしを与えて励ましの言葉や家臣を付けて出発させます。
この辺りは
天皇に恐れられて東奔西走する「古事記」の倭建命とは全く違いますね。
優等生です( ^ω^ )
こうして大碓皇子は歴史の舞台から退場しますが、
お父さんの妃は寝取るわ、
命令には従わないわ、
そのわりに反応が情けなさすぎるわで
イメージがたがたになってますね。
ところが民間伝承ではこのふたりの仲は良かったらしく、岐阜県では大碓皇子の後日譚が伝わっているのです。
それが岐阜県の旧武儀郡(大碓命の子孫牟宜都ムゲツ君、伊自牟良イジムラ君の本拠地)になる山県市柿野で行われる柿野まつりの垣野神社と清瀬神社なのです。
下記は岐阜県の神社庁のHPにある垣野神社(岐阜県山県市柿野)の由緒です。
下線の部分が柿野まつりを指します。
創祀未詳。日本武尊牛に乗りて大碓命の後を尋ねて乱賊を討伐しつつ本区の南口に来座せしに、其の牛遂に斃れために依り、其処に遺骸を埋め碑を建て給ひしと伝へて古来是を牛塚・牛象と云ひ伝へ来る。尊の賊を平らげ民を救ひ給ふを以て奉斎したると伝ふ。後鳥羽天皇文治二年正三位を授けられし。外宮柿野明神、西宮と称し、内宮柿野明神東宮は清瀬神社なり。大正十三年三月十四日御鍬神社・神明神社・大将軍神社の三社を合祀したり。
特殊神事、清瀬神社と兄弟神なれば、御旅所へ神幸両神社を合せて祭祀を行う。獅子神楽の舞、からくりの奉納
ここで「内宮柿野明神」とされる清瀬神社こそ、大碓命が祭神の神社なのですが、
そこへ日本武尊が牛に乗ってきた伝承があるというのもびっくりです。それなら乗馬が一般化する5世紀より前の話でしょうか?
大碓、小碓命の父、景行天皇は4世紀に比定される天皇ですから、たしかに馬に乗ってたらおかしいのですが
邪馬台国には牛も馬もいないので、牛の方が早く伝えられたということになります。
馬が伝来しなかったのは軍用であるため、という見解もあるので、
最新の戦車というイメージ、
牛は農耕用でトラクターなので、半島から伝わるのが早いのもうなづけます。
さて、柿野まつりですが山県市のHPによると
柿野まつり
例年4月第2日曜日に行われます。
垣野神社と清瀬両神社から、古式にのっとりみこしを担いだ行列が御旅所で出合い、神楽やからくり人形舞を奉納します。
とあります。
YouTubeにも動画があがっていて様子を見ることができますが、なかなか盛大なようです。
他のサイトの情報では鎌倉時代から伝わるということですが、
最後には餠撒きもあるようで、そんなお餅をもらったら
碓→餠→穀霊→白鳥説の私は、もったいなさで泣くかもしれませんね(*T^T)w
その内宮の清瀬神社も山県市柿野にあり
岐阜県神社庁のHPに
大碓命美濃國に座し此の柿野に住給ひしを、後其の霊を祀ると云ふ。又大碓命何の故にか密かに此の柿野に住給ひし跡なりとて字戸立の渓谷に四方巌にて戸を廻らしたる如き所有り。大碓命の霊を鎮齋し、内宮柿野明神と云ひ、(外宮柿野明神・西の宮の対)東の宮と唱ふ。文治二年三月正三位を授けられしと伝へども確証なし。美濃國神名帳内清瀬明神は乃ち本社のことなるか。異本神名帳内、東宮明神とあるは本社のことなるべし。大正十三年字内の門之宮神社字浦山猿子神社の二社を相殿に合祀す
とありますので、
平安時代前期、律令が最後の光芒を放った「延喜、天暦の治」において編纂された「延喜式神名帳」に載っている古代からの神社ということでしょうか。
赤字(水無瀬による)の部分を見ると、都から追われ蟄居していた雰囲気ですね。
実際に訪ねられた小椋一葉さんの著書では、自動車の運転に自信がないととても無理そうな場所なので、
とりあえずGoogleMapで見ると
運良く入口の由緒を記した立て札の内容が読めました。
それによると
東征以前にすでに大碓命がここにいたらしく、
日本武尊(小碓命)が東征の命令を伝えるために、ここを訪れたものの
大碓命は自分は適任ではないとご辞退され、代わりに日本武尊が東征に出られた。
そして日本武尊は東征から帰ってしばらくここに滞在していたものの
伊吹山の神を鎮めるために出立し、帰らぬ人となった。
という旨の記載があります。
このような話を総合すると
二嬢略奪でこの地に蟄居していた大碓命は、景行天皇によって中央へ返り咲くチャンスとして東征の任務を与えられた。
しかし、大碓命は赦されて再び光のあたる場所に戻ることを望まず、
東征の命令を伝えに来た小碓命は、
兄の気持ちを聞き、代わりに東征に向かったばかりか、帰りには兄のところに逗留する。
そして美濃の人びとが畏れる伊吹山の神
(おそらく風害や雪害をもたらす荒ぶる神であったのでしょう。)
それを退治しに伊吹山に赴いた小碓命は、神に敗れ白鳥になって
故郷の犬上郡に戻る。
というような話になると思います。
たしかにもとは穀霊で、それが牟宜都君や犬上君の祖先神となっていったのでしょうが、
伊吹山を挟んで野洲~武儀郡にわたる広域の氏族連合体ができるにつれ、
一定のドラマ性のある神話が形成されていきます。
その時このような物語が生まれた···
これがもともとの大碓、小碓物語であろうとわたしは考えます。
小椋一葉さんは岐阜県の垣野神社と双六神社は小碓命名義で祀っていると言われます。サイトによってはそうなっているのもあるで、神社では小碓命として祀っているのかもしれません。
毎年4月の柿野まつりでは、清瀬神社と垣野神社から御神輿が出て御旅所で出会い、神楽やからくり人形が奉納されるということですから
2人は1700年後の時を超えて、今も年に一度一緒に神楽やからくり人形を楽しむ仲の良い兄弟でいるようです。
山あいの集落の神社ではあるのですが、
柿野まつりの内容を見ると、この地の人びとの大碓、小碓命に対する愛情は並々ならぬものがあり、
大碓命と小碓命が人びとの間に今も息づいているように感じるのです。
さて、それとは別に
「古事記」「日本書紀」では尾張の美夜受比売のもとから伊吹山に向かうヤマトタケルが、
ここでは大碓命のもとから伊吹山に向かったというのは注目に値します。
なぜなら後にまた検証しますが、尾張の草薙剣とヤマトタケルの関係はおそらく持統朝に捏造された話だからです。
ご興味があれば
以前の記事ですが、草薙剣についてはこちらをご参考にされてくださいね。
壬申の乱に勝利した天武天皇は、不思議なことに天皇の護身用の草薙剣の祟りで亡くなります。
そのあと熱田神宮に返還された草薙剣は
三種の神器でありながら持統朝以降、宮中に置かれませんでした。
熱田神宮も江戸末期慶応4年になって、尊皇思想が強まる中で熱田「神宮」となりますが、それまでは熱田神社でした。
現在天皇の即位の時に移されている「剣璽」の宝剣は、
持統天皇の即位の際に使われていた剣が、源平合戦で安徳天皇と共に壇之浦に沈んだあと、伊勢神宮から奉献されたものです。
ですから草薙剣に関する伝承は持統朝以降の伝承の可能性が高いのです。
なぜ三種の神器でありながら草薙剣は尾張氏の奉斎する熱田神宮にあるのか?
その理由をヤマトタケルが東征の帰りに置いていったということにしてあるというのが吉井巌さんの指摘以来、ほぼ定説になっています。
それとはべつに、わたしもヤマトタケルが尾張で伊吹山の神のことを聞き、でかけるというのはとても違和感がありました。
東海道はかつて熱田の宮宿から三重県の桑名宿までは船で渡っていました。
熱田は東海道にとって重要な拠点で、普通は中央に行く用事があれば鈴鹿山麓を越えて東海道で行けばいいので、伊吹山がいまの名古屋の人びとを苦しめているというのは、なんとなく遠いな~と思っていました。
もちろん織田信長の上洛や、関ヶ原の戦いの時の東軍の進路は美濃経由なので、
大軍勢は東山道を使いますが(^_^;)
そういう点でも大碓命のもとから伊吹山に出立したという柿野の伝承の方が、
研究の成果とも合致し、
実際の土地感覚とも合うように思えます。
父の天皇も巻向日代宮ヒシロノミヤにいた景行天皇ではなく、晩年遷都したと伝えられる近江高穴穗宮の「もう一人の原景行天皇」であったかもしれません。
···ということは「古事記」の「大碓命殺人事件」はちょっと怪しくなってきます。
吉井巌氏もあの「脳筋のやっちゃった事件」の原型はやはり民間の笑い話であるとされます。
やはりあれは、ヤマトタケルの悲劇性をより高めるために入れられた話だと思って良いでしょう。
加えて、伊吹山が原息長氏であるオホホド王家(継体天皇の家系)の本拠地米原市息長に近く、
系譜的にはヤマトタケルの系譜を両道入姫を通して継体天皇の系譜に取り込んでいることを考えると
継体天皇とこの物語の関係を知る必要があります。
次回はこのあたりをテーマに、詳しく検証してみたいと思います。
またのご訪問をお待ちしております。