ニーチェの考え方に、弱者を慰めたりするのが美徳としてる人が多いよね。みたいな考え方があるそうです。めっちゃ言葉変えて書きました。

 

んで、そこから抜け出し、なりたい自分になるためには、自分自身で基準を作ると良い。らしい。

そんな考え方についての私的な解釈になります。

 

過去の私は、本当に、そんな感じだったな、と思いまして。

友達や家族との会話は、その日あった大変なことや、頑張ったことなどが話題となることが多かったです。

愚痴などを聞くことも多かったです。

そんな会話が日常化していたため、フォーカスもそっちへ引っ張られます。

嫌なことや大変なことは、生きているみんなが持っているのだと、思い込むくらい。

 

そんなに日常的な会話に、疑問を思えるようになりました。

もっと楽しい話題でおしゃべりしたいな。って。

 

ネットや本で、成功している人や資産を築いている方の情報を、本を読んだり、ネットで調べてみたりするようになり、そういう方々は、とっても楽しそうに見えました。

私が素敵だなって思う方々を思い浮かべた時、家族の愚痴を軽々と話題に出すようなイメージってつかなかったのです。

聞かれたら、話してくれるかもしれませんが、彼らの会話は、楽しかった事や素敵なこと、自分が夢中になっていることなど。

あと、誰かを褒めたり。

そんなイメージだったのです。

 

よくね、成功者のインタビューなどで見る言葉なのですが、「やりたい事をやっていたら、いつの間にか裕福になっていた。」

そんなお話をよく見るのです。

 

辛かったね、大変だったね。

そのような会話にフォーカスを当てている時。

きっと、ニーチェで言う、人の弱い部分にばかりフォーカスが向いてしまっているのかもしれない。

って思ったのです。

 

友達や家族に愚痴って、ふーんそうだったんだ、って言う反応をもらったとします。

それで、その時は、しゃべった満足感があったとします。

でも、それで、私が理想とするような、幸せな自分になれるかと言うと、そうは言えないような気がしたのです。

 

正当化し合うって言うのは、停滞に近い受け取り方なのかな、なんて思ったのです。

合わない人がいたら、愚痴のネタになるような出来事を仕入れる時間がないくらい、速攻逃げた方が、自分で使える時間が増えるし、やりたく無いことは、やらないようにするにはどうすれば良いのかに時間を使う。

そうしないと、物事は変わらないし、嫌な時間が増えるだけ。ってなってしまうんだろうな。って思ったりして。

 

確かに、シンデレラストーリーは素敵なのかもしれません。

でも、自分の人生に置き換えるのならば、最初から、大金持ちがいいし、やりたいことなんでも叶う人生とかがいいなぁ。

性格も、毎日幸せそうで、尊敬できるような自分になりたい!

 

自分のいる環境には、好きになれる人だけいればいいし、やりたいことだけしていたい。

自分の幸福が減るような事は正当化しなくていい。って今では思います。

楽しいことだけでいいし、日々幸せで良いんです。

悲劇のヒロインごっこは卒業しました。

せっかく年もとったし、1人なら、どんなにわがまましても、他人様に迷惑かけないし。最高だぜ。

好きじゃ無いものは言葉にする時間さえもったいないし、脳の容量は、やりたいこと、楽しいことで埋め尽くしていたい今日この頃。

 

そう思ったら、ニーチェの言うように、自分で基準を作って、そこに自分を合わせていくのって、とっても良い考えのように感じられました。

自分のなりたい自分を設定したら、その理想の自分に合う基準を自分で設定する。

その基準に合わせて、会話や人間関係、行動を選んでいったら、道筋がわかりやすくなるのかもね。

と思いました、今日この頃。

 

過去の私は、何でもかんでも、共感できないだろう自分基準でのことまで、家族とか、友達とかに喋りすぎてたのだろうなと思います。

子供の頃の、親族にその日あったことを報告する、みたいな習慣が、何歳になっても残ってしまった。みたいな感じかもしれないですね。

誰かの庇護下にあった時はマイナスな報告も必要かもしれませんが、自己解決が当たり前の年齢まで歳をとった今となると、確かに報告する必要性は感じられなくなりますね。

過去の私みたいに、マイナスな感情も、プラスの感情も、無作為に会話の話題にする習慣を持った方々が、私の周りに多かったのもあるのかもしれませんが。

 

共感は楽しいけど、共感できない事を伝えられたとて、楽しくはないですからね。

変に心配させてしまうのも、相手にとってはきっと負担になるんだろうなって今なら思えます。

自分の基準は自分にしか当てはまらないものです。

 

自分は成功するって思っていることでも、家族からしたら、心配って思ってしまうこともありますよね。

そのような場合は、やっぱり伝えるべきでは無いんだろうな〜って今なら思えます。

自分で楽しく信じて、行動して、ある程度安定したり、習慣化出来たら、安心させるような報告をさらっと伝えるくらいがいいのかも。

自分の事は自分だけがしっかり見れてれば良いのです。

やりたいことも、自分で決めて、自分でやれば、十分楽しいのです。

共有しない事を持つことも、とっても大切だなって、今なら思えます。

 

イメージできない事を永遠と説明されるのって、楽しいと思えないものです。

だから、夢は語らなくていいし、やりたい事、成し遂げたいことも、自分以外に語る必要はありません。

それは、家族でも、友人でも、知り合いでも、同じ事なのでは無いかな〜って思います。

 

自分1人で描いて、やってみて、自分固有の信念や基準、楽しみ方を他者に押し付ける事なく、自分自身、自分の心を楽しく保つと言うのは、素敵なことだと思ったのです。

人間、どこかミステリアスに見える人の方が、魅力的に見えるものですし。

 

そんな私的な解釈をした今日この頃でした。

 

 

 

環境について個人的に思う事です。

辛いことをバネに、とかさ、悲しいことがあった分良いことがある、とか聞いたりします。

 

若い時はそんな言葉を信じていました。が、大人になって思う事なのです。

自分に負荷のかかる環境にいる時間が長い分、その環境から抜け出せた後の回復に時間がかかります。

 

辛い時期が長引けば長引くだけ、回復に必要な時間や、出来事が大きくなります。

自分に合わない環境にいる時間が長いほど、自分にかかる負荷が大きくなっていくのです。

人は、負荷がない環境だからこそ行動に移せるエネルギーが生まれるって私は思います。

だから、自分のためを思うのならば、自分が好まない環境からは1秒でも早く離れることを私はおすすめします。

今までの人生を振り返って、実際に感じたのは、そんな結論でした。

 

私は恐竜が好きなのですが。進化のお話で。

進化した生物が生き残ったのではなく、環境の変化に合わせて適応出来たものが生き残ったのだ。

って言葉が、私は好きです。

 

品種改良された、美しい薔薇は、手間をかけなければ綺麗に咲く事は難しいでしょう。

花びらが多ければ、余計な花びらを間引いてあげなければ、綺麗に咲く事は出来ません。

蕾のまま、枯れてしまうのです。

虫がつかないように、手をかけて育てなければ、葉っぱがなくなり、花に栄養を届けることが出来なくなります。

 

人間も、いい環境で育った方が、いいと、私は思ってしまいます。

安全地帯でなければ、出来ないことって、人間もあると思うのです。

 

自分的に思うのは、口出ししてくる人が周りにいるほど、自分の行動の範囲は狭くなります。

逆に、干渉してくるような人が少ない環境にいれる程、自分自身人の目を気にせず伸び伸び、やりたいことを自由にやる意欲が湧きます。

 

成功する企業家は、業績が良い時に、次の事業に投資します。

業績が衰退してきてからでは、次に移るのには遅く、新事業に投資できる金額も少なくなってしまうのです。

 

辛い環境にいる時間が長いほど、次の行動に投資できるエネルギーが少なくなってしまい、場合によっては、自分の主体的考え方を取り戻すまでに多くの時間が必要になるわけです。

 

私生活や人間関係でもそうであると、私は思っています。

自分の望まない環境や人間関係からは、即座に離れる事が双方の為であると思ってしまいます。

合わない人とは、離れて、安全な環境に身を置いた後に、なぜ苦手であったのか、考える時間を作ることが出来ます。

自己が危険である環境下では、自己を顧みる時間さえ作ることが出来ず、今を耐えることにエネルギーを使ってしまうのではないかと思ってしまうのですよね。

 

話が合わない人とは、永遠に会わないのです。

人の好みは、そう簡単には変わりません。

幼少期から好きなものが、大人になっても好きとか、案外多いです。

それを子供の頃は分からなくて、現状の環境に適応しようと無理をして、負担を大きくしてしまったりして、今考えると、すごいなって思います。

だって誰も得しないように思ってしまって。

 

たとえを変えれば、好きじゃない人と無理やりお付き合いを継続しているようなものですもの。

そんなの辛いに決まっているし、双方とも満足はしないわけで。

 

まぁ、長々と書きましたが、自分の好ましい環境に、自分で変えていく、移り変わっていく行動を選択するのが良いと、私は思うのです。

合わない人や環境からは、できるだけ早く離れる事。

自分が心地よい環境を探す行動をすること。

辛い事なんていらないな〜って、個人的には思うのです。

自分に合わない環境にいた分だけ、自分に入るダメージは大きくなるし、心は捻くれるし。

どうしても良いとは思えないのです。

 

意外とね、何十年経っても、嫌いなものは嫌いなものです。

自分が伸び伸び生活できる環境が一番良い。

日々の生活で、良いな〜とか、幸福だな〜ってふと思えるの当たり前の生活が良いのです。

 

自分が安心できる環境に身を置くこと。

自分の事を思いやれる時間を作れること。

自分主体で行動できること。

全部、自分の幸福には必要だと思っています。

自分の望みを叶えられるのは自分なのですから。

 

誰かと敵対する時間って無駄に思えてしまうのです。

オセロの白と黒で睨み合っているようなものです。

それが楽しいって人も、確かにいると思います。

でも、私には、睨み合っている時間さえ惜しく思えてしまうのです。

今の私を、最大限に楽しませる時間にしたい。今、今この時間。

大人になると、時間なんて短いものです。

今できること。今やりたいことを最大限詰め込んでおかないと、勿体無いって思っちゃうんですよね。

 

心残りの無いように、今を満足してやり切るのが、私は好きです。

自分で自分のやりたい事を詰め込む。

せっかく今自分の意識が、自分だと認識できているのですから。

今できることをめいいっぱいやっておかないともったいない。

日々、1秒1秒、満足して生きたい。

だからこそ、自分の幸福度を優先したい。できる範囲でも良い。行動したい。って思うのです。

大は小を兼ねるけど、小も大を兼ねます。

今できる最大限の行動が積み重なってとっても大きな出来事になっていくものです。

やってみたら、案外出来るものなんだと思っています。

そんな感じ。

 

よく聞く言葉でね、自分のやりたいことしましょう。やりたくないことはやらないようにしましょう。ってスピリチュアル系のお話で出たりします。

前はね、ふへー、って感想しか出なかったんですけど。ある日夢を見ました。

少女と、少女を実験対象としたい科学者と、科学者に言われて少女を捕まえようとしてる人の追いかけっこのお話でした。

科学者は少女が利益になる。興味が惹かれると思いました。

科学者は少女を捕まえる理由をでっち上げます。

科学者は自分の望みを叶えるための努力をしただけで、それを悪いことだと思っていません。

追いかける人も、科学者から少女を捕まえなければならない対象であると認識し、少女を捕まえようとしている人も、言われたから動いているだけです。少女は捕獲対象であり、仕事である。という意識しかありません。

少女はなぜ自分が追いかけられているのか、やってもいない理由をでっち上げられているのかわかりません。ただただ、悲しく、逃げることしかできませんでした。

少女から科学者は見えません。実際に追いかけてくる人の顔しかわからないのですから。

 

悪ってなんなんでしょうか。

この夢の中には、自分を悪であると思っている人はいないのです。

実際に少女は悲しんでいます。

追いかけてくる人は仕事だから、捕まえてほしいと言われたから追いかけてるだけです。

科学者も自分を悪だとは思っていません。少女が研究対象であり興味を惹かれるので、手に入れたいと思っているだけです。

 

世の中とか、きっとこんなもんなんではないでしょうか。

良きも悪いも、考え方の範囲は人によりけりです。

法律や決め事も人間によって決められた事。

この中で損をしているのは、私的な考えだと、追いかけてくる人と少女ではないでしょうか。

どちらもやりたくない事をやってます。

もし、実働体である追いかけてくる人が、やりたくないからやりません。ってなったのなら、追いかけっこは、科学者と少女の2人となり、もっと小規模であったでしょう。少女も自分を困らせてくる人の顔を直接見ることができます。

そして、目的が、純粋に研究対象であるという理由を知ることができるわけです。

 

この中で一番、少女から嫌われるのは、追いかけてくる人だと、思います。

言われたから、仕事だから、捕獲対象を追いかけます。

どうでもいい、感情が乗らないことをして、少女からは恨まれます。

 

そんな夢を見て、一般的に悪って言われるのは、自分では悪の自覚は無い人達なのかな〜って思って、やりたくない事をすると、何かしら事を大きくしてしまったり、誰かのよくない気持ちを受け取ってしまう確率が増えてしまうのかもしれないな〜なんて思ったのです。

だから、やりたい事をやりなさい。やりたく無い事をしないようにしなさい。っていうのかもなって勝手に解釈しました。

世の中を複雑にしたり、大事にしたり、勝手に恨みを大きくしたりするのは、案外、やりたく無い事や、どうでもいいことでも請け負ってしまう人がいるからなのかもしれません。

成功したいなら、心をダウンロードしたらいいと思ってるんです。

脳はPC。プログラミングするのは心とか精神体。

成功する方法を知りたくなってしまいがちだけれども、本当はプログラミングさえできれば勝手に今の状況にあった方法で自動で動いてくれる。

成功の法則の本を読むんじゃなくて、成功者の心が描いてあるエッセイ集とか伝記とかの本を読む方が進んだりする。

昔の私で、真面目な考え方をしている状態だった時。成功者の感情が読み取れる本を読むと、結構ぶっ飛んでて楽しかったりしました。まぁそんな感じ。

 

人の歴史を地政学や生物学として見てみると。生物なんだな〜って思うのですよね。

巣穴争い。戦力増強のための取り決めあれこれ。

人間的って考えよりも、動物的で機械的って考えた方がわかりやすいよって昔ネットの海で見たのですが、今もしっくりくる。って思うのです。

 

 

これからは”ある”という考え方への移行しよ。って思ったのです。

不思議に思ったのです。お金はあるところにはじゃぶじゃぶある。じゃぁ、無い人がいるのは何故?

お金がじゃぶじゃぶあるとしよう。何がしたい?って思ったら、旅行行ける余裕があったら、それでよくて、変わらず家庭菜園したり、部屋の観葉植物眺めたり、今とあんまり変わらない生活してるだろうなって思ったんです。日々の生活の中の幸せは変わらずあることを知っているからかもしれませんね。

 

人間、動物として、生物として、自然の循環の中に組み込まれている意識で動くと、物質的なものは全部満たされているし、全てがあるのかな。なんて思ったりして。

パーマカルチャーとか自給自足とかの生活見てると思うのです。

微生物の動きがわかったら、農作物作るのも楽になるし、調味料にも困らない。

生活は満たされるな。って。

 

あると思ったら、全てがあるのかもしれません。

毎年、梅干しや梅酒を作っているって意識がある人は、梅の木が庭になくたって、毎年何かしら、梅と出会う機会が設けられます。

知り合いからたまたま、大量に梅をもらったり、安く手に入ったり。

植物は土に種を蒔けば育つものであるって意識を持っている人は、毎年、種子からでも上手に作物を実らせているものです。

スーパーで買ってきた果物や植物を植えて上手に育てている人ってたくさんいらっしゃいます。

 

あるって思ったらなんでもあるんだろうなって思うのです。

お金も、あるって思ったらあるんだと思います。

自由に暮らせてるくらい、お金はあるって思ってたら、あるんだと思います。

そんな感じの、あるかもしれない生活の中で、「あ、これもあるじゃん」ってのを探していく遊びをしています。

これが”ある”って考え方への移行です。

 

っていうか、ず〜っと昔、あるものがたくさんありました。生活は満たされているのです。

「振り子」って考え方聞いたことありますか?

私ね、その考え方の話聞いて思ったのです。振り子があります。振り子が揺れます。差が生まれます。って。でも、元々あるはずです。それをどこに無くしているのか。

勝手な解釈ですよ。無いって思わせてるんだと思ったのです。

あるはずのものを無いと思わせる。思い込ませる事で、自分と他者とで差を生み出してるのかな?って。

それを皆んながやるから、みんな無くなっていく。どんどん不便に思い込まされていく。

差が生まれました。それって幸せ?

お金がじゃぶじゃぶあります。無い人も見れました。それって幸せ?

幸せとは別のベクトルなのではないかと思ったのですよね。

それにね、思い込まされる人も無くなっていくけど、それ以上に、無いを探している人はもっともっと無くなっていっちゃうんじゃ無いかと思うんですよね。だって、無いを自分から探しているのですから。

もし、欲しいのなら、あるを探す方が、私は好きです。

これもあった、あれもあった、これも持ってたんだ!って見つけていく方が、私は楽しく遊べるなって思ったのです。

 

脳というPCを動かすのは、心や精神体です。じゃあ、必要なのは、精神体や心と呼ばれている自分が満たされるにはどうすればいいかにシフトしていきたいと思ったのです。

自分は何がやりたいのか、何が楽しいのか、どうせ物質的なものは、溢れるくらい豊かで、あるを見つけたら、自分に巡ってくる。守りはとっても硬いわけです。だから、自分の心が満たされるには、何がしたいのか、今をどう過ごしたいのか、それを見れたらな。って思う今日この頃です。