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走る!宇治の診断士

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宇治に住んでる中小企業診断士です。
2013年5月にサラリーマンをやめて、独立開業への日々を綴ります。

結局、僕の実家のあたりでは停電と断水程度で、ほとんど被害もなかった。同じ神戸市内ではあるが全く状況の異なる被災地をこの目で見ておこうと思った。


青木駅を降りて、歩いた。

この駅の近くには高校時代の友人宅があって、よく遊びに来たところだ。その友人宅も倒壊してしまった。同級生達は既に神戸にある実家を出て独立していたのであるが、実家が被害にあっていると思われる友人には一通り連絡をとっていたので、状況は知っていた。


やはり三ノ宮にいたるまでの地域は被害が酷くて途中身の危険を感じるような場所もあった。家やビルが崩れ落ちていた。毎日のように放映されていた避難所も実際に目の当たりにしながら歩いて行った。


震災から10ヶ月と1日後、僕は当時はまだ新神戸オリエンタルホテルという名前だったホテルで結婚式と披露宴をあげた。今はクラウンプラザホテルという名前になっている。その昔神戸で一番のホテルがオリエンタルホテルであり、そのホテルが新たな市場を求めて作ったホテルだった。オリエンタルホテルはメリケンパーク、西神にもあるが、本家のオリエンタルホテルは三ノ宮の真ん中、京町にあったのだが震災により全壊してしまった。しかし、そのホテルが旧居留地に復活する。今年の3月から営業を開始する。既に予約も受け付けているようだ。


オリエンタルホテル http://www.orientalhotel.jp/


1995年の1月から2月にかけて、僕たちは披露宴の場所を神戸で探した。

僕は震災では故郷の神戸に何もできなかったが、少しだけでも復興のお手伝いのつもりで神戸で式を挙げることにしていた。多くのホテルや式場は地震で大きな被害を受けていた。いくつかのホテルは実際に中を見せてもらったのだが相当な被害を受けていた。その中で新神戸オリエンタルホテルは山に近く高い場所にあったこともあり、被害は少なかったようだ。

新神戸オリエンタルホテルは新神戸の駅前から三ノ宮を一望できる景色のよさが売りである。そこのチャペルはホテルの高層階にあって眺めも良かった。結婚式が終わって、そのまま神戸の街並みをバックに写真が撮れるのだ。式の当日は快晴で、そこから眺めた神戸の街にはまだまだブルーシートがかかったところも多かったのだが、それでも復興に向けて着々と進む神戸の地域再開発の力強さを感じることができた。


あれから15年がたつが、僕自身の思い出にもつながることが多く、神戸の地震は忘れられない記憶である。


今日のテレビ番組ではいろいろな特番が組まれていたが、明日がちょうど15年目になる。

神戸の震災である。


僕は神戸の出身である。でも、僕の家は西区という被災した地域の中心地からは離れたところにあって被害はそれほど大きいものではなかった。そして、僕は地震があった当時は京都市伏見区で一人暮らしをしていた。1月17日、その京都の一人暮らしをしていたアパートで 寝ていると、大きく揺れがあって住んでいた京都でも目が覚めるほどだった。大きな揺れに驚きつつ、本棚を手で押さえていた。


京都にある職場ではみんな仕事もせず、食堂のテレビのニュース画面から次々に入ってくる凄まじい被害の状況を見つめていた。


早朝には実家に電話がつながったので、家族の無事を確かめていた。そのときはまだこれほど大きな被害が発生しているとは知らなかった。会社に何とかたどり着いてから、放映されているテレビで倒壊した高速道路やかつてよく前を通ったビルが瓦礫になっていたりしているのを知って改めて心配になり、もう一度電話をしてみるともうつながらなくなっていた。無事だとはわかっていながら、電話が通じない状況がさらに不安になり、仕事を早退して、同じ神戸出身の人と一緒に神戸に帰ることにした。


いつもなら、車で高速道路に乗ってしまえば1時間もかからない程度の距離なのだが、この日ばかりは違った。高速道路は全て閉鎖、今でも思い出す光景であるように神戸の阪神高速が倒壊していたのだから当然だ。だから、下道を通って京都から神戸を走った。途中の信号はほとんど全てが消えていて、途中伊丹のあたりだと記憶するがガス臭いところもあった。大きな交差点では消えた信号のせいで双方へ向かう自動車が入り乱れてて渋滞していた。


何か買って帰ろうと思い、神戸市内に入ってからコンビニに行ったがすっからかんの状態だった。売れ残っているのは漫画などの雑誌となぜか下着類で、食べ物は全くなくてそんな何もないコンビニは初めて見た。


自宅に帰って翌日はまた一緒に帰ってきた人を待ち合わせて京都に戻った。途中の神戸市北区あたりのスタンドでガソリンを入れるのにかなりの時間並んだ。


それから1週間後、自動車の神戸市内への乗り入れは制限されていたので、今度は電車で実家まで帰った。かろうじて、阪神電車の青木駅までは動いていたのでそこまで電車に乗って、徒歩で三ノ宮から乗れる北神急行の駅まで行った。




あの神戸の大震災から15年が立とうとしているが、海の向こうで大変な地震による災害が起きた。


ハイチという国で起こった大災害だ。先ほどのニュースでは10万人超の死者がいるのではないかということを伝えていた。世界でも最も貧困した国のひとつなんだそうだ。


ハイチというと、南米の国としかしか知らなかったが、あの野球大国、あるいはメレンゲという音楽のふるさとであるドミニカ共和国とひとつの島を2分している国だそうだ。ちなみに、ハイチには、コンパという音楽がある。


首都を襲った地震は国家としての中枢機能を奪った。

大統領府が倒壊してしまい、政府機能がマヒ。

病院には人があふれ、子供の死骸も放置されたまま。

家が潰れて、人が埋もれていても、誰も何もできない。


テレビに映った大統領だが、大統領という立場の人さえも家が潰れてしまって行き場がなくなり、力なく笑いながらインタビューを受けるシーンが印象的であった。


こういう時こそ、震災を被災した経験から学んだノウハウを活かして救助活動、援助活動が行えるのが日本であるはずだ。しかし、今のところ、金銭面とテントの援助と、たった6名だけの医療関係者の派遣だけのようだ。こういった援助活動は初動が非常に大切なはずだ。いったい何をしているのか。中国や台湾だって、救助隊がぞくぞくと出発していると聞いたが、日本はこれでいいのだろうか。