日本という国は建国以来、市民が自らの権利を獲得するために革命を起こしてきた歴史を持たない。実にユニークな国である。

17世紀イギリスで起きた清教徒革命と名誉革命、
18世紀に起きたアメリカ独立革命、
そしてフランス革命

といったように、欧米の近代国家では市民自らが「市民としての権利」を獲得するために革命を起こしてきた。欧米以外においてもそれは例外ではない。近年の例では、ソ連崩壊へと追い込んだ東ヨーロッパ諸国の独立運動。そして、現在進行中の北アフリカ諸国の民主化運動。これらの出来事から分かるように、国家が(良い意味でも悪い意味でも)変わっていくためにはそのための起爆剤となるもの(=市民革命)が起きなくてはならない。

では、市民革命の経験がない日本はどのようにして変わってきたのか。

日本の現代史の中で最も重要な出来事は以下の2つである。

①「1868年 明治維新」
②「1945年 敗戦」

明治維新の最大の要因は何と言っても1853年のペリー来航にある。要するにペリー提督が来航しなければ明治維新は起きなかった。明治維新という出来事はあくまでペリー来航という出来事に依存している

1945年の敗戦ではGHQの統治によって戦後日本の方向性が決定付けられた。

重要なことは、日本のターニングポイントとなったこの2つの出来事が、アメリカという国の外交戦略=圧力によって決定付けられていたことだ。

日本が国として国家として自立できていない理由はここにある。


そして2011年、東日本大震災が起きた。
今後の日本の歴史は「3.11以前」と「3.11以降」に分類されることになる。その意味で「2011年」は、上記2つのターニングポイントに続く、日本の現代史における分岐点としてこれらと同等に扱われるだろう。

だが、今回の出来事は上記2つの出来事と決定的に違う。それは大規模自然災害という点である。出来事の発生要因が「アメリカ」ではなく、「地球そのもの」なのである。

上記2つの出来事では、アメリカの圧力によって(良い意味でも悪い意味でも)変わらざるを得なかった。そしてその方向性にも強制力が働いていた。だが、今回は日本という国をどう変えるのか、またはどう変わりたいのか、どういう未来を選択するのか、あるいは選択したいのか、我々に決定権・選択権があるのだ。

福島の原発事故を受け、原発推進派と脱原発派の対立が日に日に増していく昨今。我々はどういう選択を下すのだろうか。

前述したように日本人は市民革命を起こし、市民の権利を獲得してきた歴史がない。そういう民族性・国民性なのである。おそらく今後も革命は起きないだろう。だが今回の大震災で、我々は自分たちの未来に対する選択権を得た。それは今後、原発を推進いていくのか、しないのかという選択だ。

3月11日金曜日午後2時46分、この国は歴史上のレッドポイントを迎えた。もう後戻りのできない別の時代に突入してしまったのだ。


マグニチュード9.0の巨大地震。大津波。原発事故。3つのクライシスが同時に発生した。これ以上深刻な危機は「戦争」か「大規模テロ」ぐらいだろう。


今後の日本の歴史は「3.11以前」と「3.11以降」に分類されることになる。その意味で「2011年」は、


「1868年」(明治維新)

「1945年」(敗戦)


に続く、日本の現代史における分岐点としてこれらと同等に扱われるだろう。



日本は歴史上、今だ近代市民革命を経験していない。17世紀イギリスで起きた清教徒革命と名誉革命、18世紀に起きたアメリカ独立革命、そしてフランス革命といったように、欧米の近代国家では市民自らが「市民としての権利」を獲得するために革命を起こしてきた。


だが、日本では「市民自らが市民としての権利」を獲得するために革命を起こしてきた歴史がない。その代りに「外圧=外的な要因」によって変化変容してきた。1868年の明治維新は1853年のペリー来航に端を発しているし、1945年の敗戦ではGHQの統治によって戦後日本の方向性が決定付けられた。外圧とは外からの圧力=ペリー来航やGHQによる統治、大規模自然災害を指す。要するに、日本という国の市民は自らの権利を主張し革命を起こすことをせずに、専ら外からの圧力に自国の変化変容のきっかけを依存してきたのだ


こうして、日本人は「権利」という概念の重要性を全く理解してこなかったために、日本社会では個人の権利や人権よりも組織の利益の方が優先される事態が生じている。組織のために個が犠牲になることが仕方のないことだとしても、それをもって権利の侵害を正当化することはできない。


もし、日本の市民が自らの権利=市民権や人権を主張し、獲得する歴史を歩んでいたら、ペリー来航時に不平等条約を押し付けられずに済んだかもしれないし、第2次世界大戦でも悲惨な結果を招かずに済んだかもしれない。そして、今回の3.11でもそもそも原発をつくること自体を避けることができたかもしれず、被害を最小限に抑えられたかもしれない。


外圧に頼った変化変容は代償が見返りよりも大き過ぎるのだ。よって外圧に頼らず、市民自らが市民権を主張し市民革命を起こさなければならない。遅かれ早かれ、日本は市民革命を経験しなければ、今後また、外圧によって変化変容を迫られたとき、大き過ぎる代償を支払わなければならなくなる


被災地への支援が最重要なのは言うまでもないが、この震災を歴史的な観点から俯瞰して眺めた時に見えてくるものは、外圧によって変化変容する(後手後手になる)のではなく、市民自らが変化変容の起爆剤になる=市民革命を起こすことなのだ。

経済人類学者カール・ポランニーは、今まで人類が経験した、経済の類型を3つのパターンに分類している。

①市場経済

 現在の世界経済の在り方が、これに該当する。商品には代金という、「有償」の見返りが伴う。

②再分配経済

 これは、豊かな社会階層から税金を取り、その資金で貧困層に対し、福祉・教育制度を拡充し、適用するといった、国家による経済運営の制度である。豊かな地域から税金を取り、道路建設等の公共事業を貧しい地域に対して行うという、日本型福祉国家もこの類型に入る。

 この場合、要になるのが、国家による経済支配・コントロールである。

③贈与経済

 贈与経済については、マーシャル・サーリンズ等による研究書が多数出ているが、日本のお歳暮、お中元等が、その典型となる。

 贈与経済には、市場経済のように貨幣の支払いと引き替えに、商品・サービスを要求する「有償」の仕組みは無いが、贈与を受けた側は、その贈与に対し「負い目」を負い、何らかの優遇措置を相手に対し、取らなければならない心理状況に追い込まれる。これは、お中元等に典型的である。

 市場経済と異なり、贈与は「無償」が基本となる。



周知の通り、1929年の世界恐慌によって、①の市場経済が欠陥だらけであることが暴露された。


それ以降、②の再分配経済によってその欠陥を補ってきたが、近年のリーマンショックによって、この市場経済が抱える欠陥が再分配経済で補えないきれないほど「致命的」であることが暴露されてしまった。


これは、①+②の経済方程式がもはや成り立たない時代に突入したことを意味する。


残るは贈与経済である。


昨今話題になっている「タイガーマスク」プレゼント運動。

伊達直人を名乗ったランドセルの贈り物があったというニュースを皮切りに、全国に伝染しつつあるタイガーマスク・ムーヴメント。


税金による富の再配分が機能していない以上、直接やるしかない。発想の転換である。日本の政界に期待できることは何ひとつない今、我々にできることは「贈与」である。

もし、日本国民1億3千万人がこのムーヴメントに参加し「贈与」し合ったら、どうなるのか?代金という「有償」の見返りなしに物資を与え合う。お互いが「無償」で与えあう。今まであり得なかった経済のフォーマットである。


これはある意味で庶民革命とも言える。そして、これこそまさに創造的破壊である。

現代人は、想像力を奪われている。


本来、人間にはあらゆることを想像していい自由がある。しかし、我々は決まり切った思考を無意識に強制されている。我々は幼いころから「教育」という大義名分のもとで思考を強制されてきた。


模範的な思考をすることが良しとされ、それ以外の思考と解釈は「間違い」であると教わってきた。思考の強制である。「模範的な思考」とそれ以外に線が引かれ、後者は悪いイメージを刷り込まされる。こうして、思考は分断され想像力が奪われていく。


教育とは模範的な思考を正当化するためにそれ以外を悪に仕立て上げることだった。我々の思考の自由の侵害を意味する。



「映像化=視覚化」という技術が文明にもたらした利益は大きいが、それによって失った代償もまた大きい。映像化技術が存在しなかった時代、小説を読むとき、読み手の脳内で自由に想像(=映像化=視覚化)が行われた。つまり、小説は映像化=視覚化の自由を読み手に与えていた。


しかし、映像化技術が進歩するにつれ、小説の役割は映画・TVドラマに取って代わられた。映像を脳内で想像するのではなく、外部からの情報として受ける。つまり、作り手の映像を受け手に強制させる。受け手の想像の自由を奪ってしまう。


ファミコン時代の初期のRPGゲームでは、粗い2Dドット絵で描かれたキャラクターを操作して旅を進めていく。ボイスもなく、グラフィックの細部描写は貧弱であった。しかし、そのおかげで想像の自由があった。貧弱なキャラクター描写、粗いグラフィック、そういった制限された環境の中で足りない部分を自由に脳内で補完しようとした。


しかし、映像化技術の進歩によってこういった想像の自由が許されなくなった。近年ではCGで髪の毛一本に至る細部まで事細かく描写することが可能になった。最近の次世代ゲーム機が提供するCG映像は、プレーヤーから想像の余地を奪ってしまった。解釈を強制するようになってしまった。押しつけがましくなってしまった。



我々は教育から娯楽に至るあらゆる経済活動において、思考の自由を奪われてる。

http://www.asahi.com/science/update/1029/TKY201010290492.html


ついに中国のスパコンが、演算速度の世界最速とされる毎秒2507兆回の記録を更新しましたね。


CPU(中央演算装置)の技術革新が頭打ちとなり、近年それを打破すべく「グラフィックプロセッサ」所謂GPU(図形演算装置)という新たな技術が生まれた。


従来のCPUはステップ・バイ・ステップによるシーケンシャルな線形(=1次元)処理でしたが、それに対しGPUは2次元演算処理を可能とした。(因みに、今後は3次元処理を可能にするPPU=物理演算装置がコンピュータの分野に革新をもたらすと予想される)


それで、中国人民解放軍国防科学技術大学は1万4336個のマルチコアプロセッサ(CPU)と7168個の「NVIDIA Tesla M2050」(GPU)を搭載させ 、世界最速の処理速度を実現したわけです。


問題は記録を更新したということではなく、このプロジェクトを主導したのが、「人民解放軍」であった点と、GPUを提供したのが「米NVIDIA社」だった点です。ここは注意が必要です。


アメリカは何を考えているんだ!中国軍に技術を売るなんて!と御思いの方は多いと思いますが、それがアメリカという国のやり方です。アメリカが日本を守ってくれるか?その考えは改めた方がいいでしょう。


アメリカの考えはこうです。



アメリカ政府:「日本は中国の軍事的脅威に備えなければなりません。

         よって自衛隊を強化し、我々の兵器を大量に購入しなさい!」

日本政府:「仰せのままに」


一方、中国に対し、


アメリカ政府:「かつて日本軍が中国本土に侵略を行った歴史を忘れましたか?

         歴史は繰り返します。我々の軍事技術を購入すべきだ!」

中国政府:「日本には恨みがある。よし!乗った!」



かつて、アメリカもイギリスも中国本土に軍事侵略を行ってきたが、その事は「無かったことになり」、なぜか、日本の侵略行為「だけ」が、繰り返し、声高に世界に宣伝されている。その理由は単純であった。


日本と中国が「対立すればするほど」、アメリカの軍事産業が「儲かる」からだ。


「北朝鮮だけではなく、中国の核ミサイルが大量に日本に向かって準備されている」として、アメリカは日本にMDミサイル防衛システム、迎撃ミサイルを大量に日本に「販売している」。一方で、中国に核ミサイル誘導技術、軍事通信衛星を売ったのもアメリカである。その中国の軍事的脅威に恐怖したインドに核ミサイル技術を売っているのも、アメリカである。


こうして、アジアに核ミサイル戦争が起きても「それはアメリカの知ったことではない」。死ぬのはアジア人であり、アメリカ人ではないのだ。