白と黒しか色を識別できない世界を仮定してみてほしい。


その世界の住人は「白と黒が可視=真実であり、そうでないものは不可視=幻想だ」と主張するだろう。


一方、多様な色を識別できる世界の住人は、白と黒しか識別できない住人を見て何とか色の知識を知ってもらいたいと思うだろう。だが、白黒の住人は「不可視」という理由で強硬にそれを否定する。彼らにとって、可視が「まとも」であり、不可視は「異常」なのである。



では、我々の現実に戻ろう。

私たちの世界の科学は概ね唯物主義の上に成り立っている。つまり、可視であるものが科学的に真実であるとされ、不可視であるものはその存在の有無について原則的には認められない(※厳密には、不可視であっても間接的に存在を証明できる場合は除く)。この思考モデルを端的に表現するなら、「論より証拠」というやつである。


よってこの世界の人々は、不可視=「幻想」「異常」と思っている。


だが、これには偏見が伴っている。


可視の世界と、不可視の世界の集合を考えてみてほしい。無限に限りなく近い膨大な大きさの全体集合の中に極小の集合体が1つある。それが可視の世界である。その補集合(=残りの9割以上、限りなく無限に近い)が不可視の世界である。


その極小の集合が「可視=真実である」というのは分かるが、それをもって、残りの膨大な不可視の集合を「幻想」だと言うことはできない。そもそも、私たちは自分たちの目に見える可視の世界についてすら、完全に解明できていない。ましてや不可視の世界をや。


会議等における議論を有意義なものにしたいなら、他人の内面を害するようなことを口にした発言者にはペナルティを課せばいい。ペナルティを重ねたものはその場から退場いただく。次の会議には出席できないようにする。


会議に出席し、有意義な議論に貢献した発言者は「評価」を高めることができるようにする。何らかの形で「発言」という行為が評価されて発言者に反映されるようにする。発言者は自分の発言に対して責任を持つようになる。有意義な議論にするために思考錯誤して発言を工夫するようになる。


サッカーをサッカーたらしめているものは、「手を使ってはならない」という絶対的ルールである。手を使ってしまったら、もはやそれはサッカーではない。手を使ったプレーヤーにはペナルティが課せられる。ペナルティを重ねたプレーヤーは退場いただく。それと同様である。


外交を外交たらしめているのは、武力行使をせずにいかに有意義に交渉を進めることができるかにかかっている。そこに外交というものの存在意義がある。軍事力を利用して、相手に選択を強制することは外交ではなく「脅迫」である。


議論を議論たらしめているのは、他人に危害を加えることなく、いかに有意義な発言ができるかにかかっている。そこに議論=ディスカッションとしての存在意義がある。暴言を吐いて、相手を威圧することで、意見を強制することは議論ではなく、「脅迫」である。それなら、最初から議論をする意味はない。


サッカーで手を使う行為、外交における武力行使、会議における威圧は、反則であり、逃げである。それはサッカー、外交、議論それぞれの存在意義を頭から否定する行為である。


この論理に従えば、どのような理由であれ、軍事力を利用した外交を行った国にはペナルティを課さなければならない。ペナルティを重ねた国は、国際会議の場で発言権を持つことは許されない。


国連の常任理事国がすべて核保有国という現状は明らかにおかしい。むしろ核保有国は国連において発言権を持つことが許されてはならない。核保有国が国際会議で発言権を持つのだとしたら、それはもう静かな脅迫であり、まともな議論が成立するはずがない。


サッカーの試合中に手を使ってプレーしている選手が何人もいるのに、審判も観客も気付かないかあるいは黙って見過ごして、試合終了後の試合結果をフェアなものだと信じ込んでいる。それが今の国際社会の状況である。

前回の記事で、欧米人と日本人の精神構造の違いについて個人的な見解を書いた。

簡単にまとめると以下のようになる。


欧米人

・何をするにも、軸となる思想を尊重する

・トップダウン思考

・クラシカルなスタイルを好む

・統一感に美意識を求める


日本人

・基本的には無思想

・ボトムアップ思考

・多用なスタイルを好む

・統一感に特別こだわらない



これだけ見ると欧米人の方が優等生に見えますが、どっちかが優れててどっちかが劣っているというのではないことを断っておきたい。それぞれに良いところ、悪いところがあって、比較をしてそれらを明らかにしていくことを考えよう。


欧米人は思考のスタート地点(=思想、哲学的価値観、法、文化・・・etc)を凄く尊重しています。なぜなら、ここを間違ったら、最悪の結果を招くことになるからです。スタート地点から思考をトップダウンに段階的に詳細化していき、最終的に現実世界に具現化させる。これが彼らの思考モデルである。だから、欧米各国の街並みは総じてクラシカルで統一感がある。なぜなら、根底に思想・哲学があるからです。逆に言えば、このスタート地点が無ければ何もできない、かあるいは混乱をきたす。よって、スタート地点が最重要ポイントとなる。そのこともあり、良い部分は凄く良いが悪いところは酷く悪いといった二極化傾向が見られる。


それに対し、日本人は思考のスタート地点(=思想、哲学的価値観、法・・・etc)などはっきり言ってどうでもいいと思っている。そんなものお構いなしに考え得ることを考えるだけだ。だから、ミクロな視点で自分が最良と思うことをする。その結果がまた自分にフィードバックされ、自分はそれに対してまた最良と思うことをする。その繰り返し・積み重ね(ボトムアップ)の結果、自己の本質(=思考のスタート地点)を浮き彫りにしていく。という思考モデルである。だから、日本の街並みは混沌としていて統一感がない。思考はスタート地点に依存しないので、特別良いところもないが、酷く悪いところもない。


では、まとめよう。


欧米人

・何をするにも、軸となる思想・哲学を尊重する

・トップダウン思考

・クラシカルなスタイルを好む

・統一感に美意識を求める

・軸となる思想がなければ、何もできないか、あるいは混乱をきたす

・良い部分と悪い部分の極端な傾向(ハイリスク・ハイリターン)

・自己の本質は体験を通じて意識的に探究すべき重要なテーマだ



日本人

・基本的には無思想

・ボトムアップ思考

・多用なスタイルを好む

・統一感に特別こだわらない

・軸となる思想がなくても世界は回る

・特別良いところもないが、酷く悪いところもない(ローリスク・ローリターン)

・自己の本質は体験を積み重ねることで、自然と浮き彫りになるものだ(浮き彫りにならなくても構わない程度のものだ)

在日アメリカ人だけど日本に来てガッカリした


確かにおっしゃる通り、日本の景観は悪いです。事実です。はい。すいません。


エセ洋風とプラスチック製の雑貨に囲まれた安っぽい現代=それが日本とは言ってくれたものです。ですが、それも解釈の1つとして存在するわけですね。残念なのは、この発言者さんに対して、猛烈な罵詈雑言で人格批判を繰り広げるコメント欄。。。ひどいです。このスレとコメント欄の酷さがまさに今の日本を象徴しているかのようです。このテーマは凄く素晴らしくて、掘り下げれば凄く良い議論ができるテーマなのに、もったいない。日本の景観どうのよりも、この論理性を欠いたスレ展開に私はがっかりしました。


しかし、中には鋭い洞察を与える投稿も。


景観に関して言えば、原因と結果が循環している
原因には大まかに二つあって、


・日本には芸術ってものが無い 庶民にも芸術精神が無い

・日本人は論理・合理をきちんと学ばない


芸術意識のなさと論理性・合理性のなさ、これが町並みに反映され、そしてその町並みの中で育った子供はやはり芸術意識や論理性・合理性が磨かれないまま大人になる・・・


本当に、町並みが与える影響はぞっとするほど大きい
逆に言えば、町並みという物体を変革することができれば、日本人自体を変革することが出来る


街並みや景観って精神性が表れるから面白い。アメリカや欧州の人たちは物事を認識したり、表現するときにトップダウンに思考します。英語という言語がまさにそうです。英語って、言いたいことを最初に明確にしたあと、補足事項を付け加えていく文体でしょ。だから、どんなに文が複雑になっても、軸がぶれないんですよね。統一感がある。


でも日本語って、言いたいことを後回しにする傾向があって、最後までちゃんと聞かないと全体の意味を正しく理解できない言語だと思うんだよね。ボトムアップです。だから、軸とか統一感っていう概念の重要性にそもそも無頓着。最後まで聞き終わったときに、何となく軸が浮き彫りになっていればそれでいいって感じ。


だから、日本人はプランニングが下手。計画性っていうものに重要性を見出していない。都市計画にしても、ボトムアップに組み立てていった結果って感じで、混沌とした街なみが多いのはそのためだと思う。


一方、トップダウン思考の欧米人はプランニングが上手い。都市計画では、マスタープラン=都市の概要=軸をもとにひな型を設計する。出来たひな型をもとに細部を設計、拡張、補足していくっていうスタイル。だから、日本みたいに無計画に商業施設を立てたりしないので、混沌とした町並みにはならないんですよね。軸はぶれませんから、伝統的でクラシカルなスタイルが維持されやすい。その結果、統一感のある街並みを形成する。


あと、欧米の警察組織の構造も凄い。欧米には「権力の分散」ていう思想文化=軸がある。だから警察組織の構造も日本みたいに1つの大きな権力組織なんじゃなくて、役割や地域に応じて独立してるんですね。連邦警察(FBI)、州警察、群警察、市警察、航空警察、港湾警察といった感じで、それぞれ別組織です。これらの組織間の上下関係ってのは厳密には決められてなくて、管轄の問題になる。例えば、州内の事件は州警察の管轄で、他の組織には介入する権利がない。ただ、連邦警察(FBI)には国家レベルの事件の場合や州をまたぐような事件には、介入する権利がある。このように権力が分散されて統治される文化を軸にしているので、他の民間組織やコミュニティも同じような分散型の組織を形成する傾向がある。


このように欧米人は何をするにもプラン=軸=思想ってのを尊重する。だから言うことやることに統一感を求めるし、結果的にクラシカルなスタイルを好むのも当然ですね。アメリカが国連という世界規模の組織を擁し、世界のルール=軸を定義するのに積極的な姿勢を見せるのも頷ける。


それに対し、日本人はプラン=軸=思想というものにあまり興味がない。言うことややることに必ずしも統一感を求めようとはしないし、クラシカルなスタイルを特別好むこともない。世界のルール=軸を定義することにもあまり積極的な姿勢は見せない。マクロな視点よりミクロな視点で最良と思うことをし、その結果、マクロ=全体も良くなっていればそれでいいし、悪くなっていても特別気にすることないじゃん、というスタンスである。

家柄・学歴が自慢の主婦「エリート教育した息子2人がニートになった。何がいけなかったの?」

上の記事をお読みいただきたい。今の日本の教育がいかに崩壊しつつあるか窺い知れるというものだ。


コメントの多さから分かように現代社会において教育の在り方を今一度考え直さなくてはいけないのは明確だ。コメントに書かれている意見の内容はいろいろだが、大まかに分類すると、母親の教育が悪い派、本人に問題がある派、の2つに分かれる。この手の話では必然的に不毛な二極対立の流れに陥りやすい。そしてそれによって、より重要な問題を見落とすことになる。


息子二人がニートになった「責任」の所在はどこにあるのか?


この答えに明確な回答を与えることはできない。だが、「個人の権利」という新たな視点を持ち込むことで理解できることもある。憲法にある通り、個人の自由意思は尊重されなければならない。個人的人権の尊重である。これは子どもであるとか大人である等関係なく、また老若男女問わず適用されなければならない。憲法上で保障されているのである。


しかし、この母親はこれらの憲法上の重要概念を理解していなかった。自分の子どもであろうと何であろうとその前に人間である。人間である以上、個人の人権は侵害されてはならない。保護されなければならない。憲法で保障されている。よって、子どもの自由意思を侵害し、意思決定に干渉したこの母親は憲法違反である。よって、この母親は「息子2人がニートになった」責任を負う必要はないかもしれないが、憲法違反の「責任」は負わなければならない。

干渉とは、助言や忠告とは違う。助言や忠告は相手に自分の意見は言うが、最終的な意思決定は相手に任せる。しかし、干渉は相手の意見に関係なく、自分の意見を押し付ける。押し付けること自体は悪いことではない。それだけの「責任」を負うなら許されるからだ。だが、この母親は責任は負わないが、干渉はした。問題はそこにある。


こういったことは日常で頻繁に起こっている。どれも憲法違反であるが、会社=職場では「契約」という盾によってこのことが正当化されている。しかし、「家族」というものは契約で成り立っているわけではない。よってこの正当化の論理は適用できない。現在の法体系ではこの憲法違反行為に対して責任を負わせるだけの強制力がない。そのため、こういった憲法違反者は野放しにされている。


ニートなることが問題なのではない。こういった基本的人権の侵害、自由意思への干渉という憲法違反行為が問題なのである。これは社会的に裁かれないケースが多数である。


「殺人」とは個人の肉体的な生存を絶つことである。それは同時に個人の権利を奪うことを意味する。「殺人」とは人権を奪う手段に過ぎない。この母親は手段は違えど、息子2人の人権を奪った。手段が違うだけで、意味するものは「殺人」と何ら変わりない。