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わたくしはよく霊的な夢を見るのですが、昨夜も、一昨日の夕方から昨日にかけて約一日半(?)悶々と思い悩んだ(?)ことについて、寝て早々、ものすごく鮮やかな夢を見て、で、目が覚める前までその夢は続いていて。回答をいただけたかのような。素直に、率直に、ものすごくうれしい。神様、そして、関係者の皆さま、ありがとう!!
それにしても、ーーこんなことを書くと、ものすごく独りよがりになっちゃうんだけれどーー、改めて自分が選んで背負ってきたこの人生、この運命に驚愕してる。なんてすごいものを選んでしまったんだ、と。なんかものすごいものを選んできちゃったんだな、自分、やっぱり、だいたーん!! って。
最大の喜びの裏面は最大のくるしみ。救いの真裏は絶望。どうにもこうにも逃れられないもの。どこまでもどこまでも追い続けてくるっていうか、「 "それ" こそが、もう、運命」。いやぁ、ここまですごいものなら、もう、あきらめるしかないですね。自分ひとりでどうこう出来るものではない。降参。
ある意味、達観したというか。もうこれはわたくしひとりのレヴェルでどうこう出来るものではないのだ、と。そして、同時に、人間レヴェルのうんぬんかんぬんで捉えてはいけないものなのだ、とも。それくらい空恐ろしく、それくらい密やかで、かつ、尊い。一生守り抜いてゆくことになるんだろうな、って。それが己の務めであり、学びであり、試練であり、テーマでもあり。また、最高の喜びでもあり。
ことが起きてしまったら、最後。どうにもこうにも逃れられない。それが運命。しかし、それを選んで生まれてきたのも自分! ーーどうしようもないです(苦笑) そこはあきらめというか、もう、開き直り? 一生背負って歩いてゆくしかない、ほんと。
人生の妙、というか、人生の不思議、運命の不可思議とでも言うべきか? 正直、自分でも「ここまでのもの」だとは思っていなかった💦 でもね、わかるのです。これだけ時間を積み重ねてきたからこそ、やっとわかるようになったのです。そういうものなのです、きっと、人生って。
ーーだなんて、すっかりわかった気になっているけれど、まだまだ気づいていない、わかっていないことだらけ、なのかも。でも、少なくとも、これまで自分がものすごい犠牲を払ってきたことだけは間違いないし、逆に言えば、そこまでする価値のあるものだったってこと。これはもう神様とわたくし、そして、その関係者の皆さま達にしかわかり得ないこと。
それはよく「日本の商業的なスピリチュアルな界隈」で語られる次元でのものなんかではなく。寧ろ、これは修行、壮絶な修行と自己献身、ひたすら「お行」の毎日。その積み重ね、その繰り返し。それでも永遠に答えは出ないかもしれないっていう……。めちゃくちゃなストーリー(苦笑)
だからね、今朝はなんかもう出家したかのような、そんな気分でおります。ここ数年、ロングもロング、とても長い髪を保っているけど、それも全剃りしたかのような。もうね、ほんと、開き直りです。ここまで来たら。わたくしもお手上げ。それくらい、どうにもこうにも出来ない。覚悟と達観、あきらめと歓喜。
ただ……、今、このわたくしが内面で感じている、受け取っているものが「ほんもの」ならば、きっと「そうなる」のだろうし、でも「そうなる」の中身はきっと神様しかご存じないし、「そうなる」までは決してわからないのだとも思う。
一生「このまま」なのかもしれないし、一生わたくしは幻影を追い続けてゆくしかないのかもしれないし。いや、そうじゃなくって、驚くような展開になるのかもしれない。でも、どちらにせよ、神様から求められているのは献身と達成、あとは人生を喜び楽しみ、慈しむこと。全てのものを、ことを、おひとを。
もし甘い甘い角砂糖を小さな銀のスプーンに乗せて、そっと目の前に差し出されたのだとしても、わたくしが固辞するのは目に見えている。現に、夢の中でも、"せっかくのご提案" を「いえいえ、わたくしは(結構です)」とか言って、笑顔で後ずさっていたし(苦笑) それがわたくしなんだし、結局、それを選ぶんだろうな、と。生半可な気持ちでは飛び込めない、まさに「滝壺」だからね。
もう若い小娘(←差別用語?)でもないし、気軽にひょいと衝動だけで行動することなんて、出来やしない。半世紀もの間、「人間をやって来たなら」、それなりの自負というか信念はあるし、何よりもわたくしの信仰がそれを許さないだろう。っていうか、多分、自分が考えうるレヴェルの範囲外でことはずっと起こっていて、それが「すごすぎて」把握なんてとてもじゃないけど出来ないし、今後もきっと予測不可能なんだろうなとも思う。
だから、結局何をすべきかというと、信仰と信念を具現化していくこと、使命を果たすこと、それに尽きるのです。それが己のやるべきことだし、それこそが「我が唯一の望み」を叶えることにも繋がってゆくのだと思う。そして、そのために「この運命の、壮大過ぎるストーリー」もあるのだと思うのです。(ここまで来ちゃうと、もう、卵が先か、鶏が先か? って論議になってくるけど) とにかく、究極の目的は、それ。それしかないのだから。「神の御心に適う生き方を続けてゆくこと」。
そんなことをつらつらと考えた、7月最後の日曜の朝、でした。
感謝。拝礼。
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追記:でも、つい最近、この17年間大切に大切に積み上げてきたものを自分で壊しちゃったばかりで、まだその喪失感がとてもじゃないが、やはり、癒えていない。そして、当然ながら、めちゃくちゃ悲しい。未だ、こっちの幻影を追っている自分も居たりする。その一方で、遠いお国でこの世に新しく生まれてきてくれた、大切なお命があって。いろんな意味で、わたくしと関わり合いのある方々の魂とその運命が交錯する今月。カオス過ぎます。(重荷が過ぎる!)
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再びの追記:この記事をアップロードした後、はたと気がついた。「聖なる "トライアングル" 」だから、バランスが悪いんじゃないか? って。そこに「神様レヴェルの愛」、つまり「無条件の愛」をもう一点置き据えたなら、スクエアになって、バランスが取れるのかも! ちなみに、この「聖なるトライアングル」は平面でもあり、立体でもあります。両方なんです。
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三度の追記:どうしても手に入らないものを振り切るためにあの街にゆくのか? それとも、新しい何かを得るためにあの街に行きたいのか? どっちが正解かわからないけど、夢を実現するために己が求め続けてきた縁ある場所はやはりあの街だと思えてならないから、それは大切にしよう。これはわたくし自身の霊的な学びの賜物だと思うから。
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最後までお読みくださいまして、ありがとうございます。
● 夢咲璃い(ゆめさき りい) 自らの資質をどこまでも高めることを通じて広く社会に貢献しようと志す女性起業家の為の直観メッセンジャー






