三好達治の『甃のうへ』。人生の光と影を示す。a | barsoのブログ

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 三好達治の詩『いしのうへ』についてざっと検索していたら、世間から大バッシングを受けそうな、しかし非常に面白い解釈がありました。
 それは大学入試で出題された、こんな質問です。

 問い:詩の中に「をみなご」は何人いるか?

 「をみなご」とは高校生ぐらいの少女という意味で、正解を先に言うと「2人」なんですが、どうしてそう言えるのかを考えるのが問題です。
 まずはその詩の春うららの風情を味わいながら、その根拠を考えてみませんか。

                 

甃のうへ―――三好達治

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あはれ 花びらながれ
をみなごに 花びらながれ
をみなご しめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと) 空にながれ をりふしに瞳をあげて
(かげ)りなき み寺の春をすぎゆくなり


【現代文】ああ、趣(おもむき)がある。桜の花びらがひらひらと流れ、少女らに花びらが流れ掛かり、少女らは物静かに語らいながら歩み、その春うららかな足音が空に流れ、少女らは時たま瞳を上げ、翳り(暗さ)のない御寺の春の中を通り過ぎている。
【註】「甃(いし)」は石畳または敷き瓦。「あはれ」は「もののあわれ」と言われるように、しみじみとした趣があるの意。「目」は「瞳」と書かれ、「をみなご」の純真さがより強調されている。「御寺」は護国寺[1]。

み寺の甍(いらか) みどりにうるほひ
廂々(ひさしひさし)
風鐸(ふうたく)のすがた しづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする 甃(いし)のうへ


【現代文】御寺のいらか(瓦ぶきの屋根)は緑色に潤い、ひさしの一つ一つに下がっている風鐸(鐘形の鈴)も風がないために静かなので、(わたし作者は)独り、物思いにふけり、自分の影を甃(石畳)の上に歩ませている。
【註】「甍(いらか)」が緑色とは、古寺の瓦は苔か、あるいは緑青で緑色になっている[2]。「あゆまする」は、「歩む」と異なり、何かがそうさせる(使役)を表す。つまり自分の意志で歩いていくというよりは、深い物思いにふけり、自分の影を見つめながら、歩くともなく歩いている状態。

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 詩文には春の空気感と雅趣があり、リズミカルに読めます。
 特に前半5行は「ながれ・ながれ・あゆみ・ながれ・あげて」と全部が連用形のひらがなで終わっているために、声に出して読むと、さらさらさらと柔らかな春の流れに乗ったようなリズム感があり、心地よく感じます。
 詩全体に『万葉集』のような雅(みやび)を感じるのは旧仮名遣いを使っているからで、「あはれ」の語には淡い無常感があります。

 では冒頭の質問に戻ります。「をみなご」が2人なのはどうしてでしょう?
 「しめやかに語らいあゆみ」とありましたが、1人だと「語らい」合えないし、2人以上だと「しめやかに」ならないので、「2人」だそうです。
 つまり女は3人いると姦(かしま)しいと言われるように、3人以上はあり得ないのだそうです[3]。
 えっ、本当か、まるで新明解国語辞典の注釈のようだと驚きました[4]。にやりと笑っている出題者(男)の顔が浮かびます。ちょっと昔の入試問題なのでしょう。

 
 『甃のうへ』を作曲した人は11人もいるそうですが、これは萩原英彦氏の作曲です。

                 ●

 少女らは浮き浮きと心うずく春の中を歩いているのに、作者は違います。
 少女らは時々桜と空を見上げて語り合いながら歩いていますが、感じやすい孤独な作者は下を向いて自分の影を見ながら石畳の上を歩かされています。
 前半は少女らの屈託のない"光"の情景、後半では作者の屈折した"影"の描写……と景色と内面も対照的な構図となっています。

 詩人の「影」は『プラトンの洞窟の比喩』を思い起こさせられます。[5]
 人は、生まれたときから洞窟に閉じ込められ、縛られて壁だけを見つめさせられていて、壁に映った人形の影を本物の影だと思い込んでいるようなものだ、とプラトンは語りました(普段ネットを見ず、テレビと新聞だけ見ている人は、マスコミは世の真実を映していると思い込んでいるのと似ています)。

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 https://www.youtube.com/watch?v=_kxms3jbuSk&list=PL3DIc3I_nIJJhMpoQiCKgQt6Jlu3Zk5cf


 さて、達治の『甃のうへ』を読んでどう思いましたか?
 人生とは石畳の上に「わが身の影をあゆま」せられているようなもので、自分は主体的に生きておらず、物事の実体を見てないのかもしれない―――と思ったなら視点はついつい下を見ていて、社会や自分の「影」の部分しか見てないかもしれません―――と結ぶような私の精神構造も暗いですね。(笑)
 本当は、あっけらかんに、いや、「春の眺めは値千金とはちいせえちいせえ」とでも言って、自然の有様を素直にあるがままに見るほうがいいのでしょうね。





《備考》――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[1] 平成15年の京都観光文化検定試験に「み寺」とはどの寺か?という4択問題があり、仁和寺・泉涌寺・東福寺・東本願寺が挙げられたが、作者によると東京文京区の護国寺にいたときに、京都の寺をイメージして書いたそうです。私は何度か護国寺に行きましたが、三好達治のような感傷は感じず、凡人の"哀れ"を感じさせられました。(笑)
[2] 「甍(いらか)」の旧字は「綠」で、左側の「糸」と右側の「?/ろく」が合わさって出来た漢字。「糸」は絹糸を、「?」は青竹の皮を剥ぐ様子を表す。そこから「緑色の絹糸」という意味が生まれ、転じて単なる「みどり」という意味で使われるようになったそうです。https://kanjinonaritachi.com/1709.html
[3] https://shojiki496.blogspot.com/2013/05/blog-post_31.html
[4] 新明解国語辞典第四版では、動物園は「…狭い空間での生活を余儀無くし、飼い殺しにする、人間中心の施設」、マンションは「スラムの感じが比較的少ないように作った鉄筋のアパート式高層住宅」と、注釈に個人の感覚が入っています(第八版では批判を受け、だいぶトーンが落とされました)。
[5] 参考過去記事: 「洞窟の比喩」と「杜子春」と「マトリックス」の夢オチとは。
  https://barso.blog.fc2.com/blog-entry-294.html
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