電車に乗ると、ほとんどの人がスマホをじーっと見ている。
ゲーム、SNS、ニュース……。
どうやら人間は「何かをしている自分」でいたいらしい。
一方、海辺や川岸へ行くと、男たちが釣り糸を垂らして、じーっとしている。
太公望である。
現代ではむしろ貴重な「何もしない時間」を楽しんでいるのかもしれない。

さて、ここで人生の深遠なクエスチョンが出てくる。
もし人間が永遠無限に生きるとしたら、退屈しないか?
この答えを、自分が永遠に生き続ける身になったつもりで考えてみたい。
――――――――――――――――――
熊「ねえ、ご隠居。釣り堀に三十分座って、一匹も釣れなかったら、俺はもう二度と行かねえです」
隠「うむ。熊さんは気が短いな。あたしもだ」
熊「だから天国へ行って、最初は幸福感いっぱいでも、何千年も生きたら退屈で退屈で……死にそ……おっと、永遠に生きるんでした」
隠「その点で面白いのが、エホバの証人というキリスト教の一派だ。彼らは『エデンで失われた楽園は神が必ず復興させる』、すなわち人間は『地上の楽園で永遠に生きるのが本来だ』と考えている」
熊「えっ、地上で永遠に?」
隠「そう。しかも、『毎日ご飯を食べても飽きないように、楽園で永遠に生きても飽きない』と説明する」
熊「うーん。有名店のラーメンだって、何千回も食べたら飽きそうですがね」
隠「そう。芥川龍之介の『芋粥』も似た話だ。主人公は、いつか腹いっぱい芋粥を食べたいと夢見ていた。ところが、いざ大量の芋粥を目の前にすると、急に食欲が失せてしまう」

熊「夢は、かなう前が一番いいってことですかね」
隠「人生には、そういうところがある」
熊「じゃあ、天国ならどうなんです? キリスト教では、神様と永遠に一緒にいて最高の幸福を味わうんでしょう?」
隠「うむ。だが、ここでも『永遠に幸福なら、それが当たり前になって、幸福に慣れてしまわないのか?』という疑問は残る」
熊「幸福にも飽きる?」
隠「退屈とは、やりたいことがない、意味を感じられない、刺激が足りない、といった心の状態だよ。もし死後、意識そのものが変わり、生命の喜びや創造性が今とは比較にならないほど豊かになるなら、『退屈する』という前提そのものが変わるかもしれんが」
熊「なるほど。俺の意識が今より良くなれば、釣れない三十分を楽しめるかな?」
隠「そこまで都合よくなるかどうかは知らん」
熊「俺は、つれない話が多くって。ううっ(泣)」
隠「あたしもだ。だが、スピリチュアルな世界には面白い考え方があるぞ。『永遠に生きるだけでは、確かに退屈する。しかしそこに魂の成長があるなら話は違う』というものだ。日本エドガー・ケイシーセンター会長の光田秀氏は、ケイシーの思想について、要するにこう語っている。
カルマの法則については、人間が死んで「魂」に戻ったとき、生きているときにしてしまったひどいことを思いだして苦しむ。魂には元々「高貴さ」があるがゆえに、人はカルマを負ってでもそれを償いたいと思うのだ。https://www.youtube.com/watch?v=uBjMGYik6Vc
熊「へえ。高貴な自分になるために、永遠に生きるんですか」
隠「そういうことだ。退屈なのは『永遠』が長すぎるからではない。体験の可能性が狭すぎるからだ」
熊「つまり?」
隠「毎日、ただ同じことをするだけなら、永遠は確かに長い。だが、未知の世界を発見し、新しい人と出会い、新しい自分になり、創造し、愛し、学び続けるなら、永遠は『終わりのない冒険』になる」

熊「なるほど。俺っちでも高貴な魂になれますかね」
隠「なれるとも。少なくとも、なろうと思うところから始まる」
熊「じゃあ、俺も今日から高貴を目指します」
隠「うむ。それは結構」
熊「まずは腹ごしらえしてから」 隠「そこからかい?」
キリスト教のように「死後は天国」と一つに決めるのではなく、死者もまた、この世界とどこかでつながり続ける。
さらに、
神道には、もっと簡潔な知恵もある。
「死後のことはさておき、まず今日をきちんと生きよ」だ。
永遠の命を考えるのも結構だが、いま生きている一日を粗末にしては本末転倒なのである。
熊「なるほど。じゃあ俺、ちょっと稲荷神社までひとっ走りしてきます」
隠「おや、何をお願いするんだい?」
熊「今生で飽きることのない根性をください、って」
隠「ほう。ずいぶん殊勝な願いだな」
熊「はい、お稲荷様のご利益は『五穀豊穣』と……」
隠「と?」
熊「『あきない繁盛』ですから」