barsoは自由に

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世の中に人生ほど面白いものは無し。いろいろな考えを知るは愉快なり痛快なり。
毎週土曜日更新。FC2にも姉妹ブログを持っています。タイトルは 『バーソは自由に』 。
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昨今の日本列島を取り巻く防衛論議には、明らかな地殻変動が起きている。

かつての「日本軍の暴走」という過去完了の文脈より、現在進行形で迫る近隣国の軍事圧力のほうが、各段にリアルな脅威として人々の目に映るようになっている。

しかし別の角度から「絶対無抵抗」を持ち出す人々がいる。
彼らは、「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けよ」という言葉を引き合いに出して、「国家の防衛より個人の生命を守れ」「外交で解決せよ」と主張する。

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今回は、そのイエスの知られざる「防衛論」を検証したい。


 

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着物を売ってでも「防衛費」を捻出せよ
イエスが絶対無抵抗主義者ではなかった証拠は、聖書のあちこちに転がっている。

まずはイエス自身の命令だ。
1.「しかし今は、剣のない者は、着物を売ってでも剣を買いなさい」(ルカによる福音書22章36節)

イエス捕縛後、弟子たちの宣教では、暴徒からの迫害や強盗の危険が予測される。そこでイエスは「自衛のための武力(短剣)」を備えるよう命じた(聖書を読んでも、この記述に気づかない人が案外いる)。
現代風に言えば「生活費を削ってでも防衛費を確保せよ」と命じられたのだ。

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2.イエスは自ら実力行使をした。神殿で不当な両替や商売で暴利を貪る特権階級を目にしたときのことである。
「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その机をひっくり返された」(ヨハネによる福音書2章15節)

日頃の柔和な聖人のイメージはどこへやら、イエスは武器(鞭)を手作りして振り回し、高値を付けた生贄用の動物や不正な両替人どもを力づくで駆逐した。
いわば、正当な秩序と神聖な領域を守るための限定的武力行使をし、聖なる仕置き人となったのである。


3.理不尽なビンタには毅然と抗議
裁判の場でも、イエスは黙って殴られるままにされるヤワな人間ではなかった。
下級役人から理不尽に「頬」を打たれた際、こう言い返している。
「もし私が悪いことを語ったなら、その悪を証明しなさい。良いことを語ったのなら、なぜ私を打つのか」(ヨハネによる福音書18章23節)

「他の頬を出す」どころか、言葉の刃で理路整然とカウンターを食らわせている。ここでは相手の不当な暴力に対して、「証明せよ=証拠を出せ」と言っていることに要注目だ。
「週刊誌の記事が証拠だ」と言って国会で執拗に追及した議員らは、裏取りをしなかったため、恥をかいた。仕掛け人の『週刊文春』は(『共同通信』も)当該画像(証拠)を削除。共産党の委員長は「中傷動画の作成者は詐欺師だ」と言明した。


4,イエスは占領軍であるローマ軍の百人隊長に出会った際、彼の神信仰を絶賛している(ルカによる福音書7章)。
興味深いのは、イエスが上級軍人に対して「軍を辞めよ」とも「剣を捨てよ」とも一切命じていない点だ。国家の防衛や治安維持を担う「軍隊」という組織そのものを、イエスは否定しなかった。自衛隊は「人殺し」の「侵略」集団ではないのだ。

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5.「右の頬」に隠された痛烈なユーモア
では、最大の問題である「左の頬をも向けよ」(マタイによる福音書5章39節)はどう解釈すべきか。
これが無抵抗主義の根拠とされるのは、完全な誤読である。

通常、右利きの人間が、相手の「右の頬」を打つには、右手の「甲」で払うようにひっぱたくしかない(下絵:右側の男の右手は相手を打つ前のポジション)。

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当時のユダヤ社会で「手の甲で叩く」行為は、肉体を傷つける暴力ではなく、相手を人間扱いしない「社会的侮辱」を意味していた。
だから、いま「個人的に自尊心を傷つけられたり、ネットで炎上させられたりしても、すぐ感情的に報復(目には目を)して悪の連鎖を生んではならない」という、名誉毀損に対する「おとなの対処法」が述べられているのである。



 

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終末のイエスは「マッドマックス」状態?
新約聖書の締めくくりである『ヨハネの黙示録』に至っては、イエスのイメージは完全に「平和の王子」から「戦闘の王」へと変貌する。

「血に染まった外衣を着て、白い馬に乗り、正義のために戦う。口からは鋭い剣が突き出し、それによって諸国民を討つ。鉄の杖をもって人々を処罰する」(黙示録19章11-15節)

もはや世紀末の救世主アクション映画である。聖書全体を見渡せば、最終的に悪を徹底的に裁くための「圧倒的な武力」が肯定され、予定されているのだ。

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戦わなければ命は助かる」という根拠なき信仰は、「隷属という名の平和」を招き寄せる(ウイグル、チベット、内モンゴルを見よ)。

「左の頬」までは出さないで自尊心をコントロールする強さを持ちつつ、いざという時のために「着物を売ってでも剣を買う」―――そんな現実的な対処法を聖書は推奨している。

この知覚変動の時代を生きる私たちに必要なことは、イエス流のバランス感覚を保つことであり、それが真の「平和主義」であるのだ。