死んで花実が咲くものである。ただ、生きて咲かせるほうがいい。a | barsoのブログ

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 日本財団ジャーナルの説明文を読んでいたら、一部に妙な個所がありました。
 下記のどこがそうでしょう?
日本における若者の死因で最も多いのが自殺ということをご存じだろうか。
2018年には1年間で2万598人、1日にすると平均56人が自ら命を絶っている。
これは、先進7か国の中で突出して高く、若者の死因の1位が自殺であるのは日本のみ。
(2019.03.29) https://www.nippon-foundation.or.jp/journal/2019/28707

 ここで若者が一日平均56人も自殺しているのはあり得ないと思ったので、厚労省などの公式サイトで確認したら、その数字は若者の自殺者数ではなく、日本人全体の自殺者数でした
 (1行目と3行目は若者についての記述で、2行目はじつは日本人全体についての記述なのだが、2行目には主語がないために若者の話と勘違いされる)

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 それにしても日本は自死者の数が非常に多い。
 厚労省によると2022年は、先進国G7の中で、15~29歳の死因第1位が「自殺」なのは唯一、日本だけ。日本に住む15~39歳の死因の第1位も自殺だった。15歳未満の子供たちの状況は深刻で、小中学生の自殺者数は過去最多の514人だった。これは毎日1.4人が自殺していることになる。→厚労省サイト
 子供の自死の原因は、半数が学校問題で、その半数が「いじめ」によるそうで、教師をはじめとする教育関係者の猛省が必要だ。※1

 また内閣府の調査では、日本の若者の自己肯定感(「自分が好きだ」という気持ち)は諸外国に比べて極端に低いそうで、これはなにかにつけて「日本人は悪い」「欧米に劣る」と原罪観念や劣等意識を植え付けてきたリベラルメディアや知識人らにも大きな問題がある。

 人間は自尊意識がないと自損意識から自死行為につながる。「日本を美しく、豊かに、強く」というポリシーを第一に掲げる政治家は、日本人一人ひとりのプライドや自尊心を取り戻したいのだろう。

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 では、どのように自死願望者を助けたらいいか。
 花のお江戸で、流行語大賞のようになったフレーズがある。
 それは「死んで花実が咲くものか」で、これは後に諺(ことわざ)になった。

 ここで当時の心中(しんじゅう)ブームを考えたいが、頃は元禄十六年(1703年)といえば赤穂浪士討ち入りの翌年だが、近松門左衛門の人形浄瑠璃『曽根崎心中』が上演された。
此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」で始まる有名な道行の最終段は「未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり」と結ばれ、女郎のお初(21歳)と商家の手代である徳兵衛(25歳)が命がけで恋を全うした美しく純粋な物語として描かれている。

 これを皮切りに「心中もの」が流行り、来世で男女の愛が結ばれることを誓った心中事件が多発したため、八代将軍吉宗は享保七年(1722年)に心中ものの上演・脚本・発行を禁止。心中者の死骸は取り捨てて晒し者にし、葬送は不可。男が生き残った場合は極刑。二人が心中に失敗した場合は三日間晒して非人身分に処した。つまり畜生同然とされ、死んでも生きていても辱めを受けたのだ。※2
 だから余計に「死んで花実が咲くものか」の訓戒は、自殺を思い留めさせる効き目があった。すなわち、死んでしまったら花は咲かず、実も生(な)らない。生きているうちが花だから、死ぬのはおやめなさい、と自殺志望者を諭す一番の根拠として使われてきた。
 これは死後の命を否定する一種の唯物論的な人生観であり、仏教が浸透していた当時の世では珍しい考え方のように思われる。

 ネットには、さらに追い打ちをかけるこんなフレーズもあった。
 死んで花実が咲くものならば、八百屋お七はなぜ咲かぬ。
 死んで花実が咲くものならば、お寺の庭は花盛り、屍人の墓も花だらけ。


  
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 ところで「死んで花実が咲くものか」には説得力があるだろうか?
 ここで問題は、生きている今に花を咲かせられなかったために死にたいと思っている人に、この理屈が通じるかどうかだろう。
 そのような人たちは、大抵は物心両面で八方ふさがりの状態になっているので、もう死ぬしかない、死んでしまえばとにかく今の苦しみからは逃れられる、と思っているからだ。
 確かに後の世なんぞ存在せず、今の命だけで、もうこれっきりなら、「死んで花実が咲く」はずもないと考えるのは正しい。


 がしかし、死んでも命は続いているなら、どうなるか?
 進化論を信じる人は「来世や魂なんか無い」と言い切るだろうが、 "無い証拠" を挙げるのは難しいはずだ。悪魔の証明と言われる通りである。

 ならば「後の世がある証拠はあるのか?」となるが、見えないものを証明するのも難しい。
 ただし状況証拠なら沢山ある。※3 だから、この21世紀でも、輪廻転生論も有神論も消滅せずに存在している。つまり死んでも生まれ変わって、花実を咲かせることもできる可能性は、意外かもしれないが非常に多いのだ。※4

 死んで花実が咲くものだから、天国の宵は花見の人盛り、善男善女で真っ盛り。




《備考》―――――――――――――――――――――――――――――――――
※1:厚生労働省では、「自殺の多くは追い込まれた末の死であり、その多くが防ぐことができる社会的な問題」であるとしています。

※2:心中という言葉の意味について、江戸時代の文化・風俗の研究家であった三田村鳶魚(明治3~昭和7年)はこう説明しています。「心中という言葉は、腹という語と同じであったが、自己の本心を披瀝する意味に使用され、起請を書くとか、爪を放す(遊女が爪を切りはがして客に贈って真情を示すこと)とか、指を切るとかいうようなことを、心中立てといった。要するに真情を証拠立てることだ。死ぬことほど嘘のないことはないから、情死が何よりも一番の心中立てに相違もあるまい」―――「江戸時代の心中と裁判」藤原有和 ※カッコ内はバーソ註

※3:死後の世界がある根拠については長くなるので、また別の機会にしたいと思います。

※4:今回の話は「自死」を肯定するものではありません。いま得ている自分の命とこの人生は一度だけの貴重な賜物であり、貴重な体験です。なので、困難があろうと山も嵐も乗り越えていくのが自分に与えられた使命(自分で選んだ人生目標)であり、それゆえに「死なないで花実を咲かせる」ことを考えるほうがいいのです。
 自死は神に対する罪なので厳しい神罰を受ける、と恐れる必要はありません。ただ、今生では自分の人生目標をうまく達成できなかったので、生まれ変わった際には同じような試練体験がまたあるだけのことで、それも自分で選んでいるのです。
 聖書は次のように教えています。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではない。神は真実な方である。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはない。むしろ、耐えられるように、試練とともに逃れる道も備えているのである」(コリント第一10:13)これをスピリチュアルの観点から言えば、試練は人が自分で選んでいるので、当然のこととして逃れる道も必ずあるのです。

 ☆画像はMicrosoft BingのImage Creatorを利用した生成AIによるものです。
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