萩原朔太郎の『こころ』は淋しさを楽しんでいる。 a | barsoのブログ

barsoのブログ

世の中に人生ほど面白いものは無し。いろいろな考えを知るは愉快なり痛快なり。
FC2にも共通の姉妹ブログを持っています。タイトルは 『バーソは自由に』 です。
http://barso.blog134.fc2.com/

 萩原朔太郎の『こころ』は作者が十代後半のときの詩だそうで、たいしたものだなあと感心しながらも、その年齢の作かと思っていたのですが、私の好きな作家・丸谷才一氏が若い頃にこの詩を愛読していたことを知りました。
 また『ゲド戦記』の「テルーの唄」は、宮崎吾朗氏がこの詩に着想を得て作詞した話も知りました。

 それで、この詩についてネットをざっと検索してみたのですが、ピンとくる注釈が見当たらなかったので、ではバーソも解説もどきを書いてみようという気になりました。別の解釈があるなら、教えていただければ幸いです。

  Ohufd3p.jpg


こころ―――萩原朔太郎

こころをばなににたとへん
 「心」を何に喩えようかという言い方は、『万葉集』の巻第3-351番に沙弥満誓の歌として収録されている「世間(よのなか)何に譬へむ 朝びらき 漕ぎ去(い)にし船の跡なきがごと」と似ている[1]。「をば」は文語調で、ちょっと気取った感じがあるが、「ば」が入ることで五七のリズムになっている。

こころはあぢさゐの花
第一連では、心を「紫陽花」に譬えている。紫陽花は「七変化」と呼ばれ、花の色が時間経過とともに変化するのが特徴。心は移ろいやすいのである。

ももいろに咲く日はあれど
桃色は白に赤を混ぜた色。ほのかに幸いな「桃色」の日々はあっても、の意。

うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。
「薄紫色」は淡い悲しみの色。そんな思い出ばかりの過去は「詮無くて」、つまり報われることがなく、仕方がない、と詩人は回顧している。朔太郎は子供の頃から病弱かつ神経質であり、授業中は空を眺めて空想したり、学校を抜け出して野山を歩いたりしていたために周りから除け者にされたが、そんな孤独も詮無いと思っていたのかもしれない。

  ajisa00.jpg


こころはまた夕闇の園生のふきあげ
第二連では、心を園生(庭園)の吹上(噴水)に喩えている。「夕闇」になり、人の姿もなくなった庭園の中に噴水だけが水しぶきを上げている寂しい情景と思えるが、NHKの高校講座では、詩人が「噴水」と書かずに「吹上」と書いたのは吹き上げる水の勢いを表したかったからだと注釈していた。しかし当時は「吹上」の語のほうが使われていたのではないかと思って調べてみたら、明治時代は「噴水」の語は水を吹き上げる状態の意で使われ、大正になってから水を吹き上げる装置の意で「吹上」の語が使われていたようだった[2]。また 三種のAIチャットに尋ねたら、大正時代の庭園は省エネと騒音対策のために夜間は噴水を停止するのが一般的だったとあったので、そうであれば、淋しい心とはひと気がなくて、勢いもない心という意味になる。

音なき音のあゆむひびきに
ここはちょっと難しい。「音なき音の歩むひびき」とは、文脈では主語の噴水の音がしないで、響きだけあるという意味になる。しかし「歩む」に注目すれば、昼間庭園を歩いていた人々が、日が暮れてから去った後に残る "寂しさの余韻"のようなものが語られているのかもしれない。

こころはひとつによりて悲しめども
「よりて」が難しい。「よりて」とは、それだから、したがって、よって、の意。NHK講座では、心は一心になって悲しみを凝縮させるけれども、と注釈していた。

かなしめどもあるかひなしや
語尾の「~や」は詠嘆の間投詞。悲しんでも悲しむ甲斐がないなあ。

ああこのこころをばなににたとへん。
感嘆詞「嗚呼」が使われている。心を捉えるのはなんと難しいことよ、とちょっと大仰ながら、若者らしい甘ったるい感傷を表している。

  jcvse3o.jpg


こころは二人の旅びと
第三連では、心を「二人の旅人」に喩えている。これは次の後半の句「されど道連れ」は寡黙であるに続くだけかもしれない。ただ、隠喩として考えれば、人生の旅路では、心は二人に分かれる。一人は自分で、もう一人は自分の中にいるもう一人の人。もう一人のほうは、頑張れと励ましたり、懺悔せよと咎めたりして絶えず自分に話しかけてくる……。ちなみに私は自分の中にいるもう一人の自分と始終会話するクセを、子供の頃は自分だけの個性かと思っていたが、長じてからは誰にでもある「自我」か「良心」の声だろうと分かった。
[3]


されど道づれのたえて物言ふことなければ
ところが、もう一人の「道連れ」はただ沈黙している。だから話し相手はおらず、自分で自分の心と対話することもできず、ひたすら孤独である(ただし、こうやって詩を書いて自分の思いを他者に伝えているので、読者との交流はあると言えるのだが)。

わがこころはいつもかくさびしきなり。
私の心はいつもこのように寂しい、と結語している。「いつもかく」とは、詩人の自己愛が自分の心の淋しさをどうか分かってほしいと訴えているようだ。

  Oihx2.jpg

                  ●

 さて、孤独は淋しくて嫌なことですか。
 こちらが近づきたいのに相手から拒否され、阻害されたら嫌でしょう。でも独り静かに自分の内面と向き合えるなら、これはいいことじゃないですか。内にこもるのは駄目と思って自分を責めるなら、そのほうがネガティブでしょう。

 生きていると、仕事に疲れ、ひとに疲れることもあります。
 でも幸いなことに、こうしてブログを通して、顔も住まいも実名もよく知らないひとと自由に気楽に思いを通わせ合うことができるのは、適度な距離感もあって、なかなか乙なものだと思いますね。





――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[1]:現代語に直せば、「この世を何に譬えよう。朝の港を漕ぎ出て行った船の引く跡が一瞬にして消えてしまうようなものか」

[2]:『近代日本における庭園噴水の歴史的展開』Bing WANG・中村文・鈴木誠によると、「明治期の3辞典からは『噴水』は" 吹き出づる水 " の語義が一般的で、水が吹き上げ状態を示していた。大正4年の『大日本国語辞典』には、『吹上』は"水を吹きあぐる装置。また其れより出づる水" の記述が見られるが、加えて『噴水』にも"噴き出づる水。また其の装置"と、装置としての噴水の語彙が記述されるようになる」そうだ。https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila/78/5/78_467/_pdf/-char/ja
 
[3]:「良心」は英語で "conscience(コンシャンス)"と言う。"con-science"は、con(共に)+science(知ること)から成っている。つまり「良心」とは、自分と共に知っている、心の中にいるもう一人の心のことを言う。だから人が何かするとき、心の中にいるもう一人の自分が、「これくらいはしても良い」と釈明したり、「これはしては駄目だ」と咎めてくる。なお、"science" は「サイエンス」つまり「科学」の意だが、本来は「知る」ことが科学であるのだ。

※画像はMicrosoft BingのImage Creatorを使用。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――