人生不可解で不安なしという遺書。藤村操の『巌頭之感』a | barsoのブログ

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  果実に芯があるように、     

    人は誰でも自分の死を自分の中に持っている。――――リルケ  

 

山田風太郎の『人間臨終図巻・上』を読んだら、涙が垂れ流し状態になりました。 

15歳から55歳までに死んだ324名の臨終の様子が簡潔に書かれている名著です。 

 

その6番目に、華厳の滝に飛び込んだ藤村 操(みさお)の話があります。 

彼の遺書は、16歳が書いたとは思えない漢文調で、感銘を受けます。  

 

巌頭之感   

  悠々たるかな 天壤てんじょう 遼々たりょうりょうる哉 古今、 

  五尺の小躯しょうくて 此大このだいをはからむとす。  

  ホレーショの哲學 つい何等なんらのオーソリチィーをあたいするものぞ。

  萬有の眞相はだ一言にしてつくす、いわく、「不可解」。    

  我このうらみいだいて煩悶、ついに死を決するに至る。   

  既に巌頭がんとうに立つに及んで、胸中 何等の不安あるなし。   

  始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。 

 

                   (明治36年5月22日)  

 

 (意味)   

  なんと悠々たるかな、天地(の空間の広さ)は。   

  なんと遥かなるかな、古今(の時間の長さ)は。   

  私は五尺(151cm)の小さな体で、この偉大さを測ろうとした。   

  ホレーショの哲学は、結局は何らの権威者に値するものか。   

  万物の真相はただひと言で言える、すなわち「不可解」だと。   

  私はこの恨みを抱いて悩み苦しみ、ついに自殺の決意に至った。   

  今すでにこの華厳の滝の岩頂に立っているが、   

  胸のうちには何の不安も無い。   

  初めて知った。大いなる悲観は大いなる楽観と同じだと。   

 

遺書は、滝のかたわらのナラの木をナイフで削り、墨字で書き残されました。 kedo2.jpg https://thereaderwiki.com/de/Fujimura_Misao

 

藤村操は、家族には何と言い残していたのでしょうか。 

日光の小西旅館から家に送った郵書には、こう書いてありました。「世界に益 

なき身の生きてかひ(甲斐)なきを悟りたれば、華厳の滝に投じて身を果たす」。 

 

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天と地の間には、人智も及ばないほど深い真理がある。 

 

じつは長年、3行目の「ホレーショの哲学」の意味が分からなかったのですが、 

今はありがたい時代ですね、検索し、辞書を引けば容易に分かります。※ 

 

ホレーショとは、シェークスピアの『ハムレット』に出てくる彼の友人の名です。 

劇の第1幕第5場で、ハムレットは友人ホレーショにこう語っています。 

 "There are more things in heaven and earth, Horatio.  

 Than are dreamt of in your philosophy"  

 

ここの「your philosophy」の「your」の意味は、通常の《あなた(たち)》の 

他に、通例は軽蔑的に《例の、かの、いわゆる》という意味もあります。  

 

 坪内逍遙は、その意味合いを込めて訳しました。  

 「この天と地の間にはな、所謂(いわゆる)哲学の思いも及ばぬ大事があるわい」  

 

 福田恒存は、思い切って意訳しています。  

 「この天地のあいだには、人智の思いも及ばぬことが幾らもあるものだ」 

 

藤村16歳はこの箇所に言及し、「人間の哲学ぐらいでは万物の真相は判らない。
不可解だ」と考えているようですが、そう、ホレーショに言ったハムレット30歳 

は「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」と悩んだ優柔不断なひとでした。 

 

しかし藤村は《天地の真理とは何か、人間として生まれた目的は何か》と実際に 

死ぬほどの決意で哲学的思考をしたわけで、そのひたむきさはたいしたものです。 

 

coskm5.jpg  

 

さて、真理や神のことには興味がない人や、 

不可知なことは判らないと言う人は別として、

そんな見えないことに関心を持つのは愚かしい、と言い切る人がいますか。 

 

何を思おうと自由ですが、 

ただ、何年ぐらい死に物狂いに考えたのでしょう? 

わずか十六、七年なら解からないが、四、五十年、六十年なら解かるのですか。

 

孔子は「あしたに道を聞かば 夕べに死すとも可なり」と言いました。 

賢者は、真理を見出したい、不可解を解きたい、と死ぬまで願っているでしょう。 

 

私は聖書こそ真理だと信じ、だいぶ後に、いや違ってたと思い直した愚者ですが、 

天と地の間の真相を一途に考え続けている知者には、大いに敬意を払っています。 

 

   幸いなるかな、真理を求め続ける人。 

     その人は、叡智に近づいている。――――バーソ

 

 

 

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《補足》  

  藤村操の死は、一高(今の東大駒場)で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石や、在学中の岩波茂雄(岩波書店創業者)の精神にも大きな打撃を与えた。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていて、この事件は漱石が後年、神経衰弱となった一因とも言われる。(Wikipedia)   

 

 岩波茂雄は「青天の霹靂の如く荘厳凱切なる大文字」と評し、この「巌頭之感」を読んでは泣き、読んでは泣き、岩波も自殺するのではないか、と友人の阿部次郎や安倍能成を心配がらせたほどであった。(山田風太郎『人間臨終図巻・上』) 

 

 この「ホレーショの哲学」については、ニール・ドナルド・ウォルシュ(著)『神との対話①』吉田哲子(訳)の本の中でも引用され、こう訳されています。「天と地の間には、おまえの哲学では及びもつかないことがあるのだ」。ここでは、おまえ程度の知恵というほどの意ですね。 

 この箇所の解釈については他説もあるようです。

 

 ※『言語郎-B級「高等遊民」の妄言』(このサイトは2013年5月で終了)  

http://d.hatena.ne.jp/hiiragi-june/20070523