長崎県の甲子園地区予選。準々決勝が行なわれました。我が清峰は佐世保北との対戦が組まれてました。しかぁし、19日(水)が雨で流れ、20日(木)がまた雨で流れ、21日(金)も朝から雨です。10時からの予定ですから、いったいいつ試合が出来るのか、やきもきしておりました。実は、密かに試合を見に行こうかなどと考えていたせいもあり、もういらいらしていました。で、ふとテレビをつけたらビッグNの試合を中継(既に佐世保も含めて雨はあがっている)しております。佐世保はどうなってるのだ?清峰の試合はいつだ?すると、佐世保の情報などと言って、清峰が1回表に2点先制したと報じました。「な、なに?やってるのか?!」「す、すると、10時試合開始が延びて1時半開始なのだな?」僕はいてもたってもいられなくなったのです。

その日は米を精米しなければならなかったんで、ひとまずその仕事をやりました。んでビッグNの試合をテレビ観戦していましたが、正直そんなの僕にはどうでもよい。もう矢もたてもたまらずに佐世保野球場に車を走らせたのです。この試合が気になっていたのには理由があります。我が清峰の事とて、決勝戦を気にはしてもそこまでの試合なんぞ見る必要はありません。負けるわけないと思っていたからです。しかし、雨で流れている間に、僕の耳にはやたらと佐世保北の噂が入ってきていました。いはく、「すごか球ば投げるとってぞ?」「140キロ超のストレートびしばし投げるとってぞ?!」「ありゃ絶対てこずるはずぞ?!」だんだん心配になってきたのです。豪腕投手がひとりいれば、勝ち抜いて行けるのがまた甲子園であり高校野球です。ま、まさか・・・。しかし、雨で流れる為になかなか試合が行なわれず、僕の不安はますます募るばかり。とうとう、日を改めずに時間をずらして試合が行なわれていると聞いて、もう駆けつけてしまったわけです。


清峰の試合をナマで観るのは、実はこれが初めてです。練習試合、公式戦を含めて初めてです。だいいち、佐世保野球場は名切(なきり)にあるグランドだと思っていたくらいですから。よく、現マリナーズの城島が自主トレに使ったりしているし、そこだと考えていました。事前に、(それにしては狭くないかな?)などと怪訝に思ってネットで確認してみたところ、大学の隣りにあるやつだとわかりました。あ、違ったわ。そこなら、住所は椎木町(しいのきちょう)ですが、感覚的には相浦で、車で15分あれば着く。僕は早速(逆転されてんなよぉ~?)と願いつつ急ぎました。


清峰側と書いてある入り口から入ってみたところ、人が通路にうようよいて入れません。かなりの人がそこで立ったまま観戦しています。「うわぁ、やっぱ座れないかぁ」と思いましたが、丁度チェンジらしく、結構な数の人がスタンドから出ても来ている。「ならば、俺一人くらい座れるんでは」と思いきって中に入りました。さっと見渡して空席を見つけ、座れたはいいけど、「ん?あっち側が緑のメガホンの清峰ということは・・・ここは?」

ありゃ、佐世保北の席でした。むむ。困った。しかし、ざっと見たところ、清峰側のスタンドに空席を見つけられず、もうおとなしくそこで観戦することにしました。清峰側と書いてあったのは、「清峰はこっち側です」との単純な案内だったようです。でも周りをちらと見ると、一般の方ばかりのようで、割合みなさんおとなしい。これなら平気かなと。で、それもそのはず試合は7回表に入ったばかり(清峰の攻撃)でしたが、清峰が5対0でリードしておりました。ふふふ。僕は心の中でガッツポーズをかましました。


その清峰の攻撃が始まってすぐ、僕は違和感を覚えました。何にかというと、佐世保北は守備にもかかわらずやたらめったらと応援しまくっているのです。しっかり守れという意味合いの応援だとは思いますが、それにしても節度がないというか、「変じゃないか?」です。まぁ、高校野球はその辺は結構アバウトというか、力が有り余ってるから自然にそうなるのか、そんなもんなんかなと思いました。何しろ初観戦だったんで。その回は、(たぶん)初球を田辺がカッポーンとセンターオーバーの長打(外野手はグラブに当てたものの取れなかった)を飛ばし、続いた有迫が相変わらずやる気なさそうな素振りながらフルカウントまで粘った末にレフトオーバーの長打を飛ばして1点追加しました。


さてその裏以降です。佐世保北は「さぁ行け!」とばかりに応援に熱が入ります。で、清峰の応援を見ていたら、彼らはじっと静まり返っていました。ん?なんもなし?

すると、清峰も時々守備の時に応援しています。で、わかったのです。清峰の応援団が守備側にも関わらず応援するのは、タイムがかかって選手の交代が行なわれる時とか、或いはダブルプレーでピンチをしのいだ時とか、何らかの「気合い入れてけよ!」「よし!今のはよかったぞ!」というようなポイントにだけ声(や音)を出すのです。それも、どちらかと言えばBGM的な、割合トーンの低い調子でそれをやります。攻撃の時の派手な音出しはしません。そうではなく、相手が攻撃をする(例えば打席に立っているとき)際にはチームの堅い守りを信じて、じっと祈って見守っているのです。僕はその両者の違いにはっと気付いた時、何やら込み上げるものがあり、もう涙ちょちょ切れてしまいました。あの、万年初戦敗退のへなちょこ野球部が、彼らを支える応援団をも含めてなんと成長している事か。その時点で6対0(7回裏)という一方的な展開であっても、試合を戦う選手たちのあくまでも縁の下の力持ちという立場をわきまえ、実に紳士たるを守るのです。だてに甲子園を経験していないなと感じました。佐世保北の応援は、言っちゃ悪いが選手の名前を連呼する際も統率が取れているとはあまり思えず、(負けているせいもあるかもしれないが)なかばやけくそに叫んでいました。僕ははからずも佐世保北の応援席に座っていたせいで、清峰の応援団の統率や、ベンチの声出しがよくわかり、また選手たちを遠目から見ることで彼らのきびきびしたプレーやら真剣な眼差しが逆に目を引きました。一般席の観客が席を立つのも、やはり佐世保北の方が断然多く、「あ~、やっぱりだめだね、こりゃ」という雰囲気が漂っていました。選手たちは懸命にやってるはずですがね。僕は嗚咽をじっとこらえながら、敵陣につき清峰のナイスプレーに対する拍手もこらえるしかありませんでした。


しかし、9回裏の有迫。先頭打者のぼてぼてのピッチャーゴロをトンネルとは。「その当たりなら俺でもさばくぞ。」しかもそのエラーのあと、次打者を四球で歩かせ、更に次の打者にフルカウントまで行ったのに勝負球が甘く入ってレフト前ヒットで1点失いました。ファーストランナーは三塁で刺してひとつアウトを取り、最後はショートゴロゲッツーで試合終了。結果は6対1で勝利でした

夕方のニュースで知りましたが、佐々木伸と木原に本塁打が飛び出したようです。また、先発は冨尾だったそうで、彼の投球を見られなかったのはちと残念。


次は長崎南山との準決勝戦。月曜日かな?ビッグNでやるんでこれはテレビ観戦できそうです。南山は、この前の試合(創成館高校戦)を観る限り敵ではないでしょうね。何せこの試合、「点の取り合い」ではなく「点のやり合い」でしたから。せっかくエラーで点を貰ったにもかかわらず、今度は自分のチームがエラーしてました。あれじゃぁね。雨でグランドコンディションがよくなかったのを差し引いても、相当なお粗末さでした。シード校対決が泣きます。


よって、決勝は波佐見との因縁対決が予想されますね。県内で新生清峰を破ったチームはここだけなんで、向こうも打倒に燃えています。

負けんなよ!!


写真は試合後、スコアボードに向かって校歌を奏でる清峰ナイン。携帯で撮ったし、ちょっと小さいね。

試合終了

極楽トンボの山本圭壱が起こした事件がもとで、欽ちゃん球団が解散するそうです。クラブチームのいいお手本という事で、森田健作やガッツ石松、山本譲二あたりも自分のチームを作って頑張っていたようですね?最近はちょっと遠ざかっていますが、僕も草野球チームの曲がりなりにも一員です。野球というスポーツは、やってみると非常に楽しい。なかなかうまくいかないけど、それが少しでも自分のイメージに近いプレーが出来たりヒットを打ったりしたときは本当にぞくぞくします。そうしてチームが一丸となって取り組むというのは大変に充実感を感じるし、え~・・・爽やかです。

既に署名活動が始まっているようですが、欽ちゃん球団には存続を願います。欽ちゃんも、やや勢いで「解散」を口にしてしまったきらいもありそうなんで、ここは是非、周辺各位の方々は頑張ってチームを残して欲しいです。


僕は今回の件についての報道を見ていて、「んん?」と思った部分があります。というのは、山本に対する吉本興業の処分に少し疑問を抱いたのです。「解雇」と同時に「極楽トンボの解散」だそうです。これは非常に速かった。実に迅速な対処だったのではないか。山本の起こした事件が「未成年に対するわいせつ」だそうで、これは公人たるタレントとして致命的な事だし子供達に与える影響も大きい。そこが欽ちゃんの決断(監督不行き届き)にもなりました。しかし、僕はここで、「あれぇ?」と感じたのです。


島田紳助の事件と比較したのです。


ちょっとおぼろげな記憶ですが、紳助は「無期限謹慎」だったと記憶しています。彼の起こした事件は「暴行」でした。新聞とかテレビで伝えられた情報の範囲ですが、「俺を何様だと思ってるんじゃ!!ボケッ!」みたいな感じで手を(足もかな?)出したとか。紳助の方では「教育してやった」的な行為だったらしい。つまり犯罪の意識はその時点では全くありません。相手が告訴したものだから慌てたわけです。そうして彼は「涙の謝罪会見」を開くに至り、「無期限謹慎」と相成りました。

で、山本の方は、平たく言えば「お持ち帰り」をしたわけです。これは想像の域を出ませんが、酔って自制心が働いていないところでついやっちゃった感じです。すると、女性の方も「強姦された」と警察に訴えたとはいえ行為に及んだ時点ではちょっとくらいは同意していた可能性がある。従って山本自身には罪の意識は薄かったと思われます。しかし警察に駆け込まれて慌てた。僕は山本のやった行為を正当化するつもりはありません。たとえば年を誤魔化して「二十歳です」と言われたのならどうか。それでも「年を誤魔化している可能性があるからへたすれば・・・」と自制を働かせていたらこうはならなかった。また、同意の上なのか断れない状況なのかの判断が甘かった。自分の立場を考えていれば起きなかった事件です。


ただ、僕が思うに、山本と紳助の違いはそれほど大きなものではない気がするのです。どちらも「勢い余って」、「罪の意識の薄いまま」事に及び、「相手の親告により」表沙汰になった。しかしながら、山本と紳助における大きな違いは「稼いでいるかどうか」なのです。吉本興業にとって「金のなる木」かそうでもないか。吉本はきっちりそろばんをはじいた。

「無期限謹慎」という処分は確か紳助自身が表明したのではないかと記憶しています。これはもちろん吉本側との話し合いの上で本人が会見の場で発表する形を取ったかもしれない。けれどもこれは実に巧妙でうまい処分です。「無期限」という修飾語によって処分の軽重を誰も言えなくなったのです。しかし裏を返せば「いつか必ず戻る」という事を意味します。そうして「復帰時期は未定」を繰り返し、反省しているというポーズを取った、とも考えられる。


早い話、僕は山本に戻ってきて欲しいのです。ああいうバカはバラエティ番組には欠かせない存在です。愛すべきバカだと思うのです。下半身の欲求を抑えられなかった山本の行動はもちろん許せないものですが、「ばかだなぁ。でも・・・わかるなぁ」なのです。

しかし紳助の行為は「己の力にふんぞり返って人を見下した不遜な行動」です。数多の番組を切り盛りして今やお茶の間には欠かせない人物とはいえ、しかし「人としてはどうか?」です。


過ちを犯すのが人間。ただ、僕には山本の犯した罪と紳助の犯した罪を比較して、かばいたくなるのは山本なのです。

でも吉本興業がかばったのは紳助でした。

これが現実なのでしょうか?そうでしょうね。

こないだショッキングな出来事がありました。

千代蔵(ちよぞう)が死んでしまいました。

千代蔵って誰?と思うでしょうね。

千代蔵は『小山ゆう』氏執筆の「あずみ」という漫画作品における登場人物です。あずみという作品はみなさんそこそこご存知でしょう。上戸彩主演により(2本も)映画化されましたから。既にテレビのロードショーでも最初のが放送されました。あずみは黒木メイサ版の舞台にもなったようです。

黒木メイサと言えば、最近資生堂のテレビCM「TSUBAKI」の2作目(荒川静香が出る版)に挟み込まれていました。ん?今のは誰だっけ?見たような見ないような・・・と思いつつ、何回目かに見た時に「・・あ、黒木メイサだ!」と解りました。

彼女には失礼かと思いますが、僕は正直に言って役不足な気がします。この「TUSUBAKI」のCMは、現在の資生堂を代表するいわば看板CMと言っていいでしょう。広末涼子、上原多香子、竹内結子、田中麗奈、あと忘れたけど、堂々たる面々が出ています。そういえば、黒木が出ている2作目は割合に成長途上の女優が出ている感がありはしますが、それを差し引いてもやっぱり役不足は否めない。彼女自身は日本人離れした、モデルっぽいやや大きめなパーツを備えた、オリエンタルで世界にも通用しそうないずれはハリウッドにも進出したいな的スケールを感じさせる美少女なんですが、現状ではいかんせん実績が足りないのではないかと。

ま、資生堂さんが1作目の評判で気をよくして、若年層も顧客に取り入れたいと(実ははなから?)目論んで比較的若手を起用した版を作った可能性はありますが。


え~と、何の話?あ、あずみです。千代蔵です。

千代蔵はもともと敵方の用心棒でした。彼は見上げるような長身の体躯を持っており、通常の1.5倍程以上ある長刀を用い、ばったばったと容赦なく敵を切り捨てる頼れる男でした。しかし、彼には弱点がありました。生まれつき耳が不自由で、顔面にも麻痺様のものが残っている為に顔がぐにゃりと曲がっており、顔つきは睨みを利かせるにはいいんだけども、耳の障害に関連してか口がきけず、ごく限られた人間にしか心も開きません。以前は姉の命令に絶対服従し、姉を守る為にのみ生きていた男でした。姉以外の人間とは意志の疎通も叶わなかったのですな。

敵味方同士でありながら、全面対決の以前からあずみと千代蔵は「敵対しない心通わす何か」をお互いに感じ取っていて、密かに友達どうしの仲(決して男と女の仲ではない)になっていました。いよいよ全面的な決戦を迎え、あずみは千代蔵とは戦いにくい思いを抱いていました。千代蔵が慕う姉は戦いのさなかで(あずみの手にはよらずに)命を落とします。千代蔵の慟哭。

しかしいずれは戦わなくてはならない。最愛の姉を喪った千代蔵は鬼神の如く怒り狂い、そして行き場を失う。ついにあずみとの対決。サシの勝負の中で、千代蔵が刀を落としたのをきっかけに、あずみは千代蔵のバックに回り羽交い絞めで落とします。息を吹き返した千代蔵には、もう戦う気力もその意味もありませんでした。そのあとどうだっけ?

で・・・なんか知らんけどあずみが千代蔵を誘って行動を共にするようになるのです。ミッションを成功させたあずみには次の仕事が待っています。千代蔵は邪魔だという向きもありますが、彼は刀を持たせたら右に出るものなどそうはいない手練れです。役には立つ。また、第一口もきけない耳も聞こえない、そんな千代蔵がひとりで生きていけるわけもないのであずみは彼を放ってはおけなかったわけです。


行動を共にし、あずみを慕う千代蔵でしたが充分なコミュニケーションが取れていたわけではまだありませんでした。千代蔵はあずみ以外の人間の言葉を理解しない為、厄介な存在にもなります。目の前の相手が敵なのか味方なのか、そういう簡単な事も理解できません。また、常にあずみの傍から離れようとせず、あずみの言葉であっても理解出来る内容はごく限られており、彼女もまたやや難儀します。それで、少しずつ千代蔵とのコミュニケーションをはかるために、指で合図をして意志の疎通を練習します。何度も何度も練習して、やっとこさっとこ連れとして連れられるまでになりました。

そうして次のミッションには頼れる相棒として乗り込んだわけです。場面場面では千代蔵が仕事の障害になりかけたことも度々あり、読者をやきもきさせましたが、それでも肝心な部分ではあずみのよきパートナーとして機能して、このミッションを達成するのであります。


長い。

本日はここまで。

続きます。


戦うあずみ



この男 ↓ が千代蔵です。

あずみと千代蔵

え~と、巨人のファンです。あ~・・・ふぅ~。


なになに?球団ワーストにあと1と迫る10連敗のあと、ようやく連勝して、でもまた連敗が始まって・・・8連敗?で、ひとつ勝ったと思ったらまた負け始めて・・・再び8連敗。そしてそして、神宮でのヤクルトとの3連戦の最初に連敗を伸ばして9連敗?

もうどうしようもない状態です。果たしていつ連敗が止まるのかというより、僕はもう、今シーズンはひとつも勝てないのではないかと、そんな気さえしてきます。


だってそうじゃぁありませんか?

昨日の試合です。連敗ストップに燃えるエース上原が投げて、押し出し四球と犠牲フライで2点は許しましたが、先発としての責任を彼は果たしています。まっとうはしていないまでも、責任は果たしている。なのに、エースが投げている間に援護点はないわ、降板したあとに一度は逆転したものの、今度は抑えの豊田が打ち込まれてサヨナラ負けです。勝てる要素はないですわな。この試合、やるべき仕事が出来た選手は、上原と、逆転タイムリーを含む2安打を放った矢野、それに2安打と四球二つで4度出塁した木村拓也くらいでしょう。勝つ気があるとは到底思えません。


特に高橋ヨシノブ。6回、木村拓也が粘って粘って四球を選んで出塁したのに、初球に中途半端に手ぇ出して、「あ・・・ピッチャーゴロ」ってなんじゃそりゃ?しかも、彼はそれでも飽き足らず、7回にも同じ事をやっています。しかも、どうにかつないで二岡が1点返して、さぁ同点か逆転か?って期待させといて、セカンドゴロって。あのね?バットの根もとで打ったってヒットは期待できませんから。バットが折れるのは当たり前です。


それに、仁志。僕は君の、巨人の選手には似つかわしくない類人猿的雰囲気と、力強い打撃に期待しておるのですよ。プライドという言葉を君は知っていますか?何?知ってはいたけど、最近は忘れてしまった?そうでしょうそうでしょう。不振で二軍に落とされて、上げて貰ってスタメンなのに4タコですか。君の代わりに誰が二軍に行ったと思ってるんだ!?清水だよ、清水!!彼の方がまだましです。まだ1球に対する集中力があるよ。


もう、なんか・・・。


上原も泣くわな。

父の病状が悪化してからというもの、ほとんどまともに記事を書けない状態になってしまいました。父が永遠に届いて以降は、葬儀、初七日、納骨だとか、その精神的なショックと相まって、物理的にもまともな運営は全くできませんでした。自分のためにも、と気持ちを奮い立たせて父の最期の様子をなんとか更新はしましたが、正直に言ってちっとも書けません。

事実、物理的な問題もあるのです。父は我が家の周囲に多くの財産を残してくれました。それは、父がやってきた仕事の残骸であり、趣味のものであり、放置されてきたものです。父が病魔と戦っていた時分から、「もういらないよなぁ」とか「もう仕事はできんなぁ」とかいう理由で、『片付けたいものたち』がたくさんありました。しかし、それはすなはち、父に「早く逝け!」と急かす行為ではと思われ、父以外の家族にとっては使わないし使えないし、要するにゴミ同然だったものも本人には仕事の道具であり、大切なものだったのです。だから片付けられなかったのです。そういう多くのモノを、四十九日が終わってからは少しずつ片付けなければならなかったのです。

現在の住まいに引っ越して来て早や36年。最初に二間しかなかった我が家の隣りには父が作った物置小屋が増えました。母屋は二階建てに生まれ変わりました。小屋は、母がキムチを漬ける時の為にと作ったものもあって、今現在は計4つ建っています。生活用道路を挟んでその前には車庫が出来、その車庫は現在オープンのものも含めて周囲に4つあります。家の前は田んぼですが、父は土手の部分に基礎を作り上げ、セメントや泥やなにかを持ち込んで・・・土地を拡げてしまったわけです。で、トタン板、サッシ、鉄骨、鉄パイプ、木材やらが家の周囲にわんさかと残されています。

父は以前に鉄くずやら中古品やらも扱っていましたから、金属関係のゴミもかなりあります。ドラム缶の中には、もう元はなんだったのか見当もつかない部品がぶちこまれており、使えるのか使えないのかわからない工具類も多数残されています。

そういう、父が残したものたちを片付けなければならない。主に姉と二人(母はだいたい口を挟むのが専門。まぁ手伝いはしますがね)で、軽トラックにそれを積み込むわけです。何に使うのか何にも使えないのか?残すのか捨てるのか?喧喧囂囂、汗はだくだく。それを近くにあるゴミのクリーンセンターに持ち込んで引き取って貰います。そこに着いたら終わりではなく、荷おろしをやります。燃えるもの、金属類、缶、ダンボール、陶器、当然分別します。おばちゃんたちに怒られながらです。もう何度センターに通った事か・・・。朝からその作業をやって、夕方には店の準備です。要は、店の運営に支障が出ない程度にその作業をこなすわけですね。結構働き詰めなんですけど。五月の連休明け(連休は当然店が混みます)辺りから少しずつやりました。6月は雨であまりできませんでした。7月に入って、ようやく、大まかに片付いたかなという感じです。


あとは、僕が車を停めてる場所が小屋の隣りの青空ですが、その小屋はもう使わないため、壁のみをぶち壊してオープン車庫にする考えです。この小屋、父が最初に建設したもので、正直言ってへたくそな作りなのですな。こういう仕事が出来ない僕が言ったら叱られそうだけど。中には据付の万力(まんりき)やサンダー(工業系出身の方にしかわからないかな?)があり、それを外すのがまた大変。何しろ溶接でくっつけてあるから、果たしてこれをどうやって外そうか悩んでいるところです。そこは父がエンジンなんかをばらす作業場だった為、地べたにはボルトやナット、古釘、ネジなんかで一面覆われております。

ま、少しずつやります。

7月に入ってからお店も結構忙しいのです。


そんなこんなで、まだまだまともに記事を書ける状況ではなさそうです。

しばらく見ない間にアメーバブログさんも色々とやっているようで、僕個人としては、あんまりごちゃごちゃしないで欲しいと思います。

最後です。少し長くなりました。


4月4日の朝。

母にすっとんきょうな叫び声で叩き起こされたのが午前6時だったから、まずは本気でうんざりした。しかし、階下で動き回るその足音はかなり騒々しく、これはただごとではないという空気が二階の僕の部屋にも伝わって来た。「家族全員来て下さい」と言われたそうで、これまでのような「医師(せんせい)のお話」では済みそうになかった。母は僕らの準備を待ちきれずに自分の車で先に出て、いよいよその時なのかと心がまえをして、僕は病院へと急いだ。


まずは医師が状況を説明する。

先日から言われていたように、父の腎臓はまともに機能しておらず身体の中に排泄されない尿が溜まってきているとの話。今後は、心臓がどれだけ持つだろうかという事だった。昨夜から意識はなく昏睡状態だそうで、「本人はおそらく寝ている感覚」であるらしい。家族としては、(血圧を上げる)昇圧剤や人工心臓(レスピレータ)に関しては「もうやらなくっていいです」と伝えてあり、要は「父の心臓がギブアップするまでの命」という事になった。ここまで来ると、もうあとは「いつ亡くなってもおかしくはない」という状況。

家族が全員呼ばれた事を思えば、本当に今日亡くなるのだなと僕は考えていたのだが、それに反して、医師はいわばどっちつかずの言い方をした。

「予断を許さないという状況には違いないんですが、このまま・・・例えば一ヶ月・・・くらいは・・・長ければ頑張る・・・という事もあり得ます。・・・もちろん、明日、息を引き取られるかも・・・わかりません。正直、こればっかりは・・・その時になってみないとわからない事なんです。」

先日、僕は医師にひとつだけ訴えた事がある。4月6日の誕生日を乗り越えて、せめて73歳まで頑張ってもらいたいのだと。享年72だろうが73だろうが、大きな違いはないのだが、それはもう、慰めに近いものだった。医師の話だと、どうやら73歳の誕生日は迎えられるのかなという印象を、その時の僕は受けた。


病室に行ってみると、父はやはり相当苦しそうな様子だ。看護士さんがそばについていて、脈をとったりなどして状況を注視していた。すぐに気付いた事は、呼吸の間隔が長くなっていたことだ。通常、吸っては吐くというその呼吸が、吸うにしても吐くにしても、やたらに長いのだ。え?呼吸をしてない?と思って見ていたら、父は思い出したように身体を揺すって大きく息を吸い込んだ。そうして吸い込んだ息をとことん身体に溜めて、溜めたら今度は一気に吐き出す。吐き出し終えると父は微動だにせず、え?え?と思っていたら、また思い出したように息を大きく吸い込む。その繰り返しだった。


確かに、その呼吸の様子は難儀そうに見える。そうは見えるのだが、父の表情については、それに反して随分と穏やかだった。実際、口を半開きにして天井を望む顔は、疲れた仕事をした日の、熟睡している時の父の寝顔だ。ふと、僕は8年ほど前に亡くなった祖父の寝顔を思い浮かべた。寝たきりだった祖父は、見舞いに行ってもいつも口を半開きにして目を閉じていた。ずっと意識を失ったままそのまま亡くなっていった。父の顔がそれに重なっていた。

「意識はあるんですか?」と医師に尋ねると、「いや、ずっと寝てらっしゃいます。今朝は・・・たぶん目覚めてらっしゃいませんね」

「呼吸が苦しそうですけど、本人は自覚してないんですか?」

「尿が外に出ないせいで、状態としては溺れている感じのはずなんですけど、ただ本人さんはもう麻痺してますから、何も感じてないと思います。モルヒネも、今は打ってませんし。」


父はあと何日生きられるのだろうか?

こういう状態が続くという事は、しじゅう家族の誰かが病院に詰めていなければならない事になる。最低でも1週間くらいは必要なのかもしれない。僕は病室の外に母を呼び出し、親戚に連絡をした方がいいのではという話をした。既に、永くないという事は伝えてあるが、今日か明日かという危篤の状態だという事は改めて知らせた方がいいのではという話だ。


父の病室はナースステーションから最も近い位置にあり、その病室のドア越しに、ステーション内に置いてある心電図計が見えた。父の傍にいても、その数字が確認できるのだ。それを見て、姉が「数字が減ってる!」という事を僕らに知らせに来た。確かに最初に見たときは3桁だったのが、90いくつかの数字に減っているようだった。あれ?何らかの処置をしてくれないのかなと僕は感じた。はて?その処置は昇圧剤の投与という事になり、それは「しなくていいです」と言ってあるから、しないという事なのだろうか?見守るだけなのかな?

そんな事を考えていたら、本当にその数字はみるみる減っていくではないか!?90が80に落ち、70、60とどんどん下がっていった。父の様子は見た目には変わらないし、腹水によって膨らんだ大きなお腹は何とか、やっとこさっとこ上下していた。姉が慌てて父を起こしにかかった。

「お父さん!ちょっと起きて!お父さん!このままじゃ死んでしまう!」

僕も慌てて父の腕を取ってそれを握り締め、手の平を叩いてふと心電図を見ると、そのモニターには数字ではなく1本の線だけが表示されていた。かすかにピーという音が聞こえるのと同時に、父は「はい、ここまで」とでもいうようにぴたりと動かなくなった。肩をぐらぐら揺り動かしても、父はもう微動だにしなかった。

4月4日、午前8時8分。享年72歳。


人の命はそれが続く限り「生」であり、途絶えた時に「死」がおとずれる。「有限」のものが「無限」に変わる瞬間だ。無論、「生」は限りあるもので、それを「無限」と言うのは生者の理屈。

父の遺伝子の、いったい何を受け継いだのかと訝るほど、僕自身は父の得意なことがひとつもできない。例えば大工仕事であったり、機械をいじったりモノを作ったりという仕事は、四六時中父がやっていた事で、しかし僕は何ひとつそういう事が出来ない。苦手だし、やってもほとんど出来ない。父がその人生においてやって来た仕事と、僕のこれまでの仕事は何ひとつ重ならないのだ。不思議だがそうなのだ。父に似ているのはむしろ姉の方で、魚類やアルコールが好きだし、家の周りの草刈りなんて、やっていてむしろ楽しいのだという。激昂しやすい性格だとか、よく似ている。でも、僕も父の子なんだなと思う瞬間がないではない。ここでは書かないが、ひとつ挙げるとすれば理屈っぽいところだろうか?


父は僕や家族の中に永遠のものとして残っている。

父にほめられたことや叱られた事。笑った顔や困った顔。父の匂い。父と過ごした多くの時間は僕の記憶の中に生き続け、これからの僕の人生にも多くの示唆を与えてくれる事だろう。


おとうさん、ありがとう。

僕のようなバカ息子を見ていて随分と気苦労が絶えなかった筈だから、今はゆっくり休んでください。あとは何とかします。

前回の記事はこれです。


土曜日はそこそこ忙しかったせいもあって、日曜の朝八時から電話で呼び出されたのには少々弱った。けれども、「先生がお話があるそうなので至急いらして下さい」と言われたら、駆けつけないわけにはいかなかった。家には誰もいなくて、やはり僕一人で出かけた。


まず、モルヒネを打ちますと言う事を医師は言った。前回、尿の量が減っているという話をされたが、いわゆる「ショック尿量」という状態になっているという事だった。人は1時間に20ccの小便をするらしい。1日で約480だから、まぁ5リットルだ。その量が生命が危機にさらされる場合の目安になるそうで、普通の人がその量しか出ないという事はまずない。つまり、もうこの人は長くないなという状態になると尿の量が極端に減って行って、その500を切ると危ない、と。父が入院してからというもの、その尿量は減り続けており、既に500を切ってなお減少傾向が消えないと言う。

「その・・・排出されない尿はどこに行ってるんですか?」

「えぇ。それなんです。減少傾向が見られて以降、点滴を減らしたりとか、水分が身体に入らないよう出来るだけ気をつけてるんですが・・・。身体から出ない尿はですね・・・結局はお腹に溜まっていってるんですよ。これがどんどん進んで行くと、要は溺れているような状況になります。」

その尿を外科的に「抜く」事が可能かを聞くと、それは「ショック死」を招く危険が伴い、今の弱った父の身体を見ると、それも難しいと言う。従って、今後は出来る限り(つまり死なない程度に)水分の摂取量を減らしていき、注意深く観察を続ける以外にない。患者本人は溺れている状況に近い苦しみを感じているはずで、それを和らげる為にモルヒネを投与すると言う。

父の腎臓はほとんどまともに機能しておらず、その尿は身体から出ていかなくなっていた。いよいよだ。


病室に行くと、父はぼうっと天井を見上げていた。あぁ起きてるなと思ったのも束の間で、その目の焦点が定まっていない事に気付く。どうやら目が覚めはしたものの、おそらくモルヒネのせいか頭がぼうっとするらしい。

枕もとまで歩み寄って「・・・おはよう。・・・どがんね?」と声をかけると、父は「・・・あぁ、来たか」と答えた。

やや間があり、「・・・おまえひとりか?」

「うん、ひとりで来たよ」

「どうも・・・ぽわんとするとは薬のせいじゃろか?・・・く・・・薬ば替えるごと・・・先生に言うとけ」

言いながら、父の目はゆっくりと閉じたり開いたりを緩慢に繰り返していて、やはり薬の影響が全身に及んでいるように見えた。

「痛みはなかね?」

「・・・うん、なか」

「ご飯は食べたね?」

「・・・いらん」

父の手を握ってみた。温かみのある、しかしごつごつとしわだらけの手。子供の頃には、確かたくましさと大きな包容力を感じた筈だが、今は小さく感じた。

「店は行かんとか?」

朝っぱらから店の心配をする父には、僕が出かけていて留守の方がむしろ安心できると見える。「俺の心配をするヒマがあったら店で仕事をしろ」という事のようだ。

「たぶん、明日はお母さんも一緒に来るけん」

「・・・うん、そうか」

父はうんうんとうなづき、安堵したかのようにゆっくりと目を閉じた。

それが、父との最期のやりとりになった。


たぶん、次回が最後です。

前回のお話はここです


父の容態が、想定していたよりもずっとよくないのだという事を医師は言った。ちょうどどこかの病院で安楽死の問題が事件になっており、病院の倫理委に諮らずに医師が独断で判断したのが殺人に問われるとか問われないとかの話題がマスコミを賑わしていて、そのせいもあったのだと思う。家族の承諾なしにはやりづらいのだという風に僕には感じた。「何度も時間を割いて貰ってすみません」と。

割合に細かい(と僕には思えた)事を医師はひとつひとつ聞いて来た。例えば、今後心臓が停止した場合には人工心臓(レスピレータ)を使うのかどうかとか、血圧の低下に際して昇圧剤を用いるのかどうかとか、痛みに対してモルヒネを使ってよいかどうかなどだ。父の最期がもうすぐそこにあることは家族がみんな理解していた。最期は、みんなで見守ってあげたい一心しかなかったから、そりゃもちろん、1日でも長く生き長らえて欲しいが、できれば、すんなり安らかにいってもらいたいし、とりわけ、いたずらに生と死の狭間で葛藤する姿は見たくなかった。レスピレータを使えば、心臓が停止しても生命を維持する事は可能で、しかし、自らの心臓が停止した状態では自発呼吸がなく、覚醒は望めない。それでは会話は出来ない。昇圧剤にしたって、それは血圧低下、つまり生命の営みが限りなく終息に向かっている状態で身体機能を薬で持ち上げる行為になるだろう。このふたつに関して言えば、少なくとも父の意識は完全に失われている状況で、肉体の身体機能だけを人工的に生かしている時に用いるモノのはずだ。

僕は、そのふたつとも、「やらなくていいです」と答えた。意見がわかれる部分だろうとは思うが、延命治療を施してもらったところで、よくなる見込みのない治療なんて、望んではいない。もう家族はその覚悟が出来ているはずだからだ。


ただ、モルヒネに関しては、やってもらう事にした。苦しんで欲しくなかったからだ。よくなる見込みがあるのなら、苦しむ甲斐のある痛みなら頑張って欲しいが、もうそうではなかった。痛みは出来る限り和らげて欲しかった。モルヒネを打つ打たないが身体にどう影響するのかはよく知らなくて、それについてはもう聞かなかったが、ひとまずそれはお願いしますと答えた。


医師は、水分を摂っているのに小便が出ていないのだということを心配していた。既に腎臓の機能が著しく低下していて、排泄そのものがまともに行なわれていないという事だった。


病室に行くと、父は気持ち良さそうに眠っていた。既に身体には、排泄物に関するチューブが取り付けられていて、身体を起こされたりする事も少ないらしく、何の心配もないという様子ですやすやと眠っていた。飯は食ったのかなと思ったが、それも点滴が流し込まれているようだったから本人に確かめる必要もなく、もうそのまま起こさずに帰った。


僕はこの日、医師にひとつだけ具体的なお願いをした。父の誕生日が近付いていて、それは4月の6日だった。この日は3月の31日だったが、あと6日で父は誕生日を迎え、73歳になる予定だったのだ。「あと1週間という事はないでしょう」と医師は請合ってくれた。もう特に何を期待するという事はなかったけれど、せめて73歳の誕生日を迎えて欲しいという、そういう気持ちだったのだ。1日でも長くと考えれば、1週間後の誕生日なんて低いハードルは考えないが、もうおおむね気持ちの整理も出来ているはずだから、せめて、まぁひとつの慰めかなと、その程度の願いだった。


続く

このシリーズ、もう少しで終わります。

前回のお話はここです。


そのH中央病院の医師は、50歳には届いたかなという、キャリア的には心配なさそうな方だった。ま、この期に及んでは治療らしい治療など出来うるべくもなく、息子としては厄介な患者でどうもすみませんという気持ちの方が強かった。ヒゲの剃り跡が青々しくって、それに対するネクタイの晴れがましさに落差を感じた。

医師は、付き添ってきた母と僕、それに姉を、「帰る前にちょっとお時間を」と別室に呼んだ。まず、父の状況についての家族の現状認識を尋ねてきた。「もうあとは死を待つばかり」という、「家族は覚悟が出来ています」という旨の答えを返す。医師は言葉を選びながら、前の病院から届いている父の病状に関する資料を示し、レントゲンを見せ、(家族はそれらの内容についてはひと通り聞いていたから正直繰り返しだった)「もって半年だろう」という話をした。この病院に入る時も、合わせて1時間くらいかけていくつかの検査をしていて、ぶっちゃけた話、僕は「検査そのものが父の死期を早めてないか?」とさえ感じた。そうして、全部おしなべて悪くなっているのだという事実を僕らは確認し、ただうなずき、ただよろしくお願いしますを繰り返すしかなかった。


帰る時がちょうどお昼で、既に父の昼食も用意されていて、父は母にうどんを食べさせて貰っていた。病院の食事だから無理もないが、見たところ何の変哲もない、醤油でだしをとってあるらしい白いうどん。父は、そのうどんをもぞもぞと、しかしとてもおいしそうに食べるのだった。いや、他人がそれを見れば、おいしそうにとは見えないかもしれない。でも僕にはわかった。父がおかゆ以外のものを食べるのを本当に久しぶりに見た。あとで粗相をするんじゃないかと内心思いはしたが、今の父はたぶんほとんど何を食べてもそうだし、だったら食べるときにおいしかったらそれだけで得ではないかなどと思った。


翌日、午前中から着替えをたずさえて病院に行っていた母からその夕方話を聞くと、父は相部屋ではなく個室に移されていたという。

「え?」という感じ。「昨日の今日で?」

やっぱり車に乗って病院までドライブしたり、いくつかの検査を受けたりしたのが負担になったんではないかという思いを強くする。母が行った時もほとんど寝たままで、いくつか言葉は交わしたらしいが鎮静剤のせいで反応は鈍かったらしい。


更にその翌日。入院した日から2日目の午前中。10時頃だったろうか?病院から連絡が入って、「先生(医師)から話がありますので来て貰えますか?」と言う。母は仕入れに出かけていて不在で、僕は一緒に聞いた方がいいと思ったから携帯に連絡をしてみたが、案の定電話には出なかった。それで僕は一人で出かけて話を聞いた。


続く

前回の記事はこちらです。


父が下痢をやらかしていた当初は、「あぁ、食べ過ぎたんだ」とか「あれとあれがたぶんいけなかったんだ」とか、何かしら結果が出たあとでの原因に思い当たるふしが見つかっていた。おかゆならまず失敗がなかったから、毎度毎度の食事はおかゆに落ち着くのだったが、それでは当然父も飽きる。で、体調のいい時は図に乗って色んなものに手を出すのだが、結果、やらかしてしまうのだ。そうなると、父も家族に迷惑をかけると思ってかおかゆを我慢して食べることが多くなった。父の世話を主にしていた姉は「気にせんで食べてよかって。骨は拾ってやるけん!」などとエールを送っていたのだが、時間の経過と共に、本人にも食欲が次第になくなってきていた。それどころか、何にも口にせずとも吐き気をもよおし、胃液を吐く状態になっていた。

父の肝臓はほとんどその機能を果たさなくなっていて、その臓器の周辺にある、例えば食道にしてからが炎症を起こしていて、顔には明らかな黄疸が出ていて、声はか細く、腹は腹水で今にも破裂せんばかりだった。母によると、夜寝床で苦しむようになったという。うんうん唸っていた。一日中寝ているようになり、起きたときは胃液をげえげえ吐くか、または下痢だった。3月に入り、そういう父の状態を見るにつけ、自宅療養が限界に来ているのではないかと家族は考え始めた。下痢をするなら好きなだけさせたらよい。しかし、苦悶の表情を浮かべて苦しむのを見ると、やはり病院にいるべきではないかと思うのだ。ひとしきり苦しんで、それを耐えぬいたらあとは楽になるらしく本人は「ほっとけ」と言うのだが、家族としてはそれにも限界があるのだった。やはり、痛みを緩和するような、何かしらの処置をしてもらいたいのだ。


しかし、年末に入っていた佐世保市のS病院には「絶対行かんっ!」と言う。大きな病院だし、敢えていうなら「病気は診るが患者は見ない」という印象を抱いているのだった。「あそこにまた入るくらいなら死んだ方がましだ」そうだ。かかりつけの地元の医院は看護体制が整っていなくて、目を離せない患者の受け入れは無理との事だった。その先生に相談した結果、郡部ではそこそこの規模を持つH中央病院ならどうかとなり、父もそれをとうとう受け入れた。3月の下旬の事だった。


入院する朝、助手席に乗る父に手を貸そうとすると、「心配ないない」と払いのけ、父はゆっくりゆっくり車に乗り込んだ。自分で外出着に着替え、帽子をかぶり、靴箱の奥から革靴を取り出して来て精一杯めかしこんで。

病院に向かう車中では、何も心配いらないのに道順についてあれこれうるさかった。ただ、あまりに声が小さくて聞き取れず、「心配ないから」と僕は繰り返した。もう我が家に帰ってくる事はないだろうなと、僕も母も、そして父自身も思っていた。


続く