アレン・ボクシッチ
■アレン・ボクシッチ
(Alen Boksic、1970年1月21日)
■サッカー
■FW
「強くて、速くて、でかくて、うまい。」
アレン・ボクシッチを端的に表現すると、こうなる。
すばらしい。非の打ち所がない。
ストライカーたるものこうあるべきだ。
実際、彼のプレーを初めて見て、私はかなりの衝撃を受けた。
ラツィオ時代で、おそらく彼の全盛時代だったのだと思う。
大柄なくせに足元が柔らかく、タックルを受けてもバランスを崩さない強靭な体躯。
ドリブルは直線的で、足に吸い付くようなタッチのため、DFはうかずに飛び込めず、ずるずると下がるか、あっさり抜かれるしかない。
体を当てて止めようとしても、そのパワーで簡単にはじき返される。
それと、特筆すべきは、その反転の速さだろうか。
ポストのために引いてきて、そのまま背負っているDFを反転の速さのみで引きちぎるという、地味だがすさまじいプレーを恒常的にしていた。
その頃、でかいFWと言えば、北欧の芸術的ポストマシンだったケネット・アンデションのような「電柱」、イタリアのピエルルイイジ“俺ごとゴールに入りやがれ”カシラギのような「気合系」しか見たことがなかったので、ボクシッチのように「大柄な奴がスピードに乗ったドリブルで勝負してくる」というのは実に新鮮だった。
今で言ったら、ズラタン・イブラヒモビッチにわずかに似ているだろうか。
プレースタイルはまったく違うが、ドリブルの入り方はわずかに似てる。
彼よりは少し小さく、もっと直線的でドリブルスピードは更に速い感じ。
まだ若かったボクシッチを見て、いったいどれほどの選手になるのだろうと期待する半面、少し怖くなるような感じがした。
だが、私の心配は杞憂に終わった。
スーパースターになるだろうと思っていた彼は、単なるローカルヒーローのままで現役を終える。
その理由の一つには、怪我の多さがある。
本来脚光を浴びるはずだった98年のW杯には怪我で出場できなかった。
さらに、2002年でもチーム自体が不調、ボクシッチはわずかなプレー時間に終わる。
怪我は彼のキャリアをずっと苦しめることになる。
一般的にドリブラーはボールを持っていることが多いので、自然とタックルを多く受け、怪我をしやすい。
それは彼も例外ではなかった。
ただ、それだけが理由でもない。
彼のサッカー選手としての資質によるものも大きい。
「強い、速い、でかい、うまい」と前述したように、彼はストライカーとしてほとんど完璧に近い資質を持っていた。
ただ、「シュートが入らない」という一点を除けば。
もう、ほんとに、シュートが入らないのである。
暴力的なドリブルからDFを揺さぶって、完璧に抜き去った後に、あさっての方向に飛んでいくシュート。
相手を背にし、華麗なターンから力いっぱい右足を振りぬいたはずが、なぜかころころと転がってアントニオーリの手の中、とか。
そのたびに、観客席で、テレビの前で、人々はずっこけていたに違いない。
実を言うと、点を取ってないわけではない。
フランスでは得点王を獲得したし、イタリアでも年間平均15点くらいはとっていたのではないだろうか?
結構取っている。
というか、プレッシャーの厳しいイタリアなら立派に及第点だ。
しかし、しかしなのだ。
いかんせん、外しすぎている。
抜き去る回数が人より何倍も多い分、外す回数も自然と多くなるのだ。
ボクシッチは外している姿を見るほうが多かったような気がする。
おそらく、他の人もそうだろう。
単純に回数が多いから、そういうイメージがついてしまったのだ。
なぜシュートが入らなかったのだろう。
キックの精度が格段に悪いわけじゃない。
シュートが下手なわけでもない。
プレーの選択もよかった。
もう「ゴールセンスがない」としか言いようがない。
ただそれだけなのだ。
ボクシッチのかわいそうなところは、彼の才能を目の当たりにした人なら誰しもが「もっと取れるんじゃねえの?」と思ってしまうことだった。私とか。
あまりにも華麗に抜き過ぎるので、その後シュートを外したときには、「わざと外してるんじゃねえの?」とまで思う人さえもいた。私とか。
要するに、イメージの問題だ。
かの有名な「雨にぬれる子猫を拾うヤクザ理論」の適用が可能だろう。
鈴木隆行が1点決めただけで、日本中は大騒ぎだ。
ハットトリックなんか決めたら自殺者が出るだろう。
少なくとも大黒はおもむろにUNOを始めるに違いない。
しかし、アレン・ボクシッチの場合は、ゴールを決めても「あれだけ抜けば、俺でも決められる」という冷めた雰囲気に包まれている。
勝手にハードルが高くなる男、それがボクシッチだった。
そのイメージのギャップが、あまり高い評価へとつながらなかった。
ボクシッチも内心忸怩たる思いがあったのだろう。
宇都宮徹壱氏のコラム
にあるように、現役を引退した今は、サッカーと離れた生活を送っているようである。
現役時代からヘビースモーカーというのは有名な話だし、結構サッカー嫌いだったのかもしれない。
そんなイメージのギャップに苦しんだ男・ボクシッチにぴったりなのはこちら。
抜くだけでも物凄いのに、人はどんどん要求のハードルをあげる。
大人どころか子供にすらもわかってもらえないボクシッチは悲しみを背にピッチを後にした。
多かれ少なかれ、プレイヤーとは全てそういうものなのかもしれない。
ジブリル・シセ
■ジブリル・シセ (Djibril Cisse、1981年8月12日)
■サッカー
■FW
みなさんは、ジブリル・シセという選手を知っているだろうか?
快足を生かしたプレースタイル、さらに経歴はリンクを見ていただければわかると思うが、この選手の本質はこんなことではない。
もちろん、奇抜な髪型
でもない。
彼を端的に表現するなら、それは「プレー選択の絶望的な悪さ」にある。
選手の質を最終的に決めるのは、技術でもなく身体能力でもなく「知恵」だ。
なぜ高さもスピードもないフィリッポ・インザーギが点を重ねられるのか?
それは彼が類稀な狡猾さを備えているからだ。
なぜカルボーニが40歳になっても一線でプレーできるのか?
彼が適切なポジショニングと相手を「殺す」術を知っているからだ。
しかし、シセは違う。
技術も身体能力も備えているが、知恵だけがごっそりと抜け落ちている。
実際のプレー中の姿を追ってみよう。
まず、彼のプレーの開始は2つのパターンに分けられる。
一つは、裏に抜け出してパスをもらうこと。
しかし、抜け出し方に工夫がないので、これは大抵オフサイドに引っかかる。
もう一つはサイドに流れて、そこからドリブルを開始すること。
スピードがあるので、抜けないまでも相手を押し込むことはできる。
DFがたいしたことがなければ、一気にペナルティエリア付近まで行くことも可能である。
さて、ここからが問題だ。
DFをちぎった場面で、シセはどうするだろうか?
状況としては、サイドから抜け出しているので、ゴールに対してあまり角度はない。
さらに逆サイドのDFが自分のマークを振り捨てて、全速力で詰めてきている。
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● →○
●シセ
このシチュエーションでは、大抵のFWだったら、パスを選択するだろう。
もしくは、パスと見せかけて縦に1ドリブル入れてから、逆サイドに流し込む、といった感じだろうか。
しかし、シセは違う。
DFが来るやいなや、彼は「力いっぱいシュートを撃つ」のである。
フェイントも何もなく、ただ力いっぱい撃つ。
コースはほとんどないので、大抵はニアに大きく外れる。
逆サイドにフリーで待つキューウェルやモリエンテスは頭を抱え、クラウチはやさしく微笑んでいる。
それでもシセは謝るそぶりすら微塵も見せず、むしろある種の「やりきった」という表情で満足げに自陣へと引き返していくのである。
私は以前からこういうプレーをする選手が不思議だった。
あんなもん入ると思っているのか?
なんで確率の低いプレーばかりするのか?
そもそも叶姉妹は美人ではないのではないか?
しかし、最近になってようやくわかった。
プレーの優先順位が全く違うのだ。
選手にはプレーの優先順位がある。
FWの場合には「ゴールを奪う」という選択肢がぶっちぎりで一位だ。
(ロベルト・バッジョのように「最も難しいプレーをする」や、鈴木隆行のように「ファウルをもらう」という選択肢も稀にある)
しかし、シセにとっては「ゴールを奪う」は一位ではない。
むしろ結構下かもしれない。
なぜなら、彼にとっては「力いっぱいシュートを撃つ」というのが至上命題なのだ。
ゴールはおまけ程度のものに過ぎない。
そう考えると、あの表情もプレー選択も納得できるというものだ。
他にもこういう選手は何人かいる。
デニウソンの最終目標は「目の前の敵を抜くこと」であり、イグリ・ターレは「とにかくボールに頭を当てること」が目標になっている。
さらにリー・ボウヤーに至っては、「ダイヤーと同時出場するたびにスタジアム内を不安でどよめかせる」ことが目的と思われるほどだ。
頭が悪いというのとはまた違う。
とにかく目的が違うので、しょうがないのだ。
しかし、シセのように、代表クラスの選手でここまで「俺的優先順位表」を貫き通している選手も珍しい。
それもシセの類稀なる身体能力とセンスの賜物である。
ただし、大成はしないと思う。
そんなシセにぴったりの作品はこちら。
『本能/椎名林檎』
それでは、本日のプレミアシップでも、本能のままに生きるシセの全力シュート&宇宙開発をお楽しみあれ。
ラウール・ゴンサレス
■ラウール・ゴンサレス・ブランコ(Raul Gonzalez Blanco, 1977年6月27日)
■サッカー
■FWあるいはMF
スペイン代表92試合・42得点(歴代最多得点)。
レアルマドリーでもトップチームデビュー時から在籍し、キャプテンを務めている。
チャンピオンズリーグ優勝3回、リーガ・エスパニョーラ得点王2回、数字では文句なし。
プレースタイルは知的で献身的、確かなテクニックを流れの中で生かす術を知っており、華麗にまたは泥臭くゴールを奪っていく。
ラウールは「スペインの至宝」と呼ばれている。
「レアルマドリーの象徴」とも呼ばれている。
ただ、その呼称はラウールに不釣合いな十字架を背負わせているかのようだ。
実際、キャリアでそれだけのことをしてきたとも思うし、現在もそれに値する選手だとは思う。
彼自身でも、懸命に責任を果たそうとしている。
だが、時折、ラウールその重さに揺らめいているように見える。
呼称自体は、特筆すべきことでもない。「マラドーナ2世」、「皇帝」、「ネクスト・ジョーダン」だって毎年量産されている。
日本にだって、「釜本2世」や「アジアの大砲」や「玄関開けたら2分でご飯」なんかがいる。
呼称をつける者に共通する感情は「期待」である。
ニックネームがそのまま実態を表していることは、ほとんど稀。
「ああ、こうなって欲しいなあ」とか「この選手はこうあるべきだ」という期待が9割方を占めている。
だから、その選手がうまく成長せず、「なんでこんなにうっかりしちゃったんだろ、シルベストル」とか「引退までどこが適正ポジションなのかわからなかったよ、スタニッチ」とか「なんであんなにでかいのにドリブルしようとするんだ、T・A・フロー」などという事態に陥ったとしても、「まあ変な選手になっちゃったけど、しょうがないか」という一種のあきらめにも似たような力の抜け方で呼ぶのが暗黙の了解となっている。
だって、大抵、期待通りにはならないから。(例:和製フリット石塚啓次)
しかし、ラウールの場合は違う。
「スペインの至宝」。
国の宝である。
グラビアアイドルが「巨乳界の至宝」などと呼ばれるのとはその重みが違う。
(物理的に重いのはグラビアアイドルの胸であるのは言うまでもないが)
またラウールは「レアルマドリーの象徴」でもある。
世界で5本の指に入るクラブのシンボル。
重い。重すぎる。
抜くべき力をまったく抜かず、逆に120%の力みで投げている。
毎回クローザーを投入されているようなものである。
ラウールは不必要なほどの重荷を背負わされている。
過去にも似たような扱いを受けた選手はいた。
マラドーナはアルゼンチンそのものであり、クライフはオランダの代名詞で、裏ビデオと言えば飯島愛だった。
ただ、彼らは「王」だった。
カニーヒァはマラドーナのパスを受けるためだけに走り、ニースケンスはクライフの影になり、都立若林中学校2年2組の男子全ての手を通った飯島愛のビデオは最終的に体育教師小林の胸元に収まった。
彼らが象徴であることを全チームメイト、コーチ、国民、全男性までも納得し、全員が彼らのために尽くした。
だから、彼らは負担をかけられても大丈夫だった。
ラウールはどうか。
「スペインの至宝」、「レアルマドリーの象徴」。
言葉では祭り上げられている。
しかし、実際のところサポートはない。
スペイン代表は内紛続きでまとまらずに自滅を繰り返す。
彼が象徴になってからの(フェルナンド・イエーロがいなくなってからの)レアルマドリーは気まぐれなスター揃いで、ラウールはあくまで端役に過ぎない。
誰も彼のために尽くしてはくれない。
せいぜいロナウドが肥満した体でぼんやりと眺めているのが関の山だ。
それは彼のプレースタイルも関係している。
うまいが、アンタッチャブルなテクニックがあるわけではない。スピードもない。屈強な肉体もない。ピッチを俯瞰する目もない。何もない。
何もないラウールは知恵を絞って献身的になるしかない。
味方のためにスペースを作り出し、ほとんど無駄に終わるフリーランニングを繰り返し、相手DFにプレスを掛けて追い回す。
器用なことが災いして、中盤の底までやらされる。
働き蜂のような仕事にひたすら勤しむ貧乏性の王様がラウールだ。
錠前造りが趣味だったのはルイ16世だが、ラウールは仕事で飼葉桶の掃除と城壁の修理をやりながら、昼休みに野菜の皮を剥いている感じである。
しかも、運がない。(運はスポーツで重要な要素だ)
肝心なところでPKを外したり、出場停止になったりする。
ついてない王には誰もついてこない。(お、駄洒落ですね)
これだけマイナス要素が揃っていると、いい加減王様ではないような気までしてくる。
しかし、彼は王と呼ばれ続ける。
それがたとえ実権がなく、飾りだけの「王」だとしても。
なぜなら、彼は「至宝」であり「象徴」だから。
それに、誰もそんな役回りを受け持とうなんて奴はいないから。
試合に負けると、戦犯扱いを受け、罵声を浴びる。
「至宝」であり「象徴」という理由一点のみで、不当な低い評価をされる。
アメリカだったら労働基準法違反で訴えることができるかもしれない。
それでも、ラウールは泥まみれになって駆け回る。不満を漏らすことはない。
そして、負ける。
きっと次のワールドカップも負ける。
そのときもきっと彼は全ての非難を甘んじて受け入れようとするだろう。
耐えて、忍んで、わきまえて。
そんなラテンとは程遠い古き大和撫子のようなラウールにぴったりの一曲はこれ。
『津軽海峡冬景色/石川さゆり』
「上野発の夜行列車降りたときから」という歌いだしの時点で、スペイン人とは地の果てほども遠い気もするが、ラウールに関してはタンゴでもサルサでもなく、演歌がよく似合う。しかもど演歌。
ラウールが日本で異常な人気があるのも頷けるというものだ。
悲劇的だが英雄ではない。
その点ではロベルト・バッジョとは決定的に違う。
彼にはギリシャ悲劇のオペラが似合う。
ラウールはもっと、泥臭い、じっとりとした雰囲気に近い。
赤提灯で上司の横暴をなじりながら飲んだくれるサラリーマンのような風情。
それでも明日も出勤しなければならない、みたいな。
試合後にうなだれるラウールを見たら、是非この歌を口ずさんで、一緒に北の大地へと旅立って欲しい。