鞆の浦・遊郭「四軒屋」/備後有磯町
港町と共に繁栄してきたのが遊女屋である。
鞆の浦では比較的資料が豊富に残されている。
【鞆の浦遊女の起源】
古くは神功皇后(じんぐうこうごう)の伝説に結びつけられたり「平家物語」「太平記」に依拠する平家の上臈に求めたりしているが、14世紀初頭の「とはずがたり」にも鞆の遊女の存在が語られている。
乾元元年(1302年)9月のこと、後深草院二条という名門貴族出身の尼姿の女性。45歳になった彼女は信仰にすがるため厳島神社へ参拝する途中、鞆の浦に立ち寄った。まだ若い頃の美しさが残り、14歳で後深草上皇の側室になったが、やがて他の側室にねたまれ御所から追放され、出家して尼に・・・と数奇な運命をたどっていた。のちの日記風自伝文学の傑作『とはずがたり』を著者だ。
港には交易、潮待ちのために次々と船が出入りしていた。町は今より平地が狭く、港のすぐ北側にある小高い丘のすそを取り囲むように広がり、港と丘の間には船問屋や宿屋、商家がずらり。丘の北側には創建間もない金宝寺や小松寺、静観寺が海に面して並び、民家も軒を連ねていたようだ。
宿屋は船乗りたちでにぎわい、商家には当時地方では珍しかった絵の具など都からもたらされた品々も並び、客は三次地方など遠方からも訪れていた。交易で潤った町の有力者たちは宗教活動に力を入れており、鞆右衛門平為重という人が備前・西大寺(岡山市)に経を収めたり、善光寺(長野市)の本尊制作のために奔走する者もいたことなどが分かっている。そんな活気あふれる町の中で後深草院二条を引き付けたのは、意外にも港のすぐ沖に浮かぶ大可島でひっそりと暮らす遊女たちだった。自身のつらい身の上と重ね合わせたのだろうか。二条は彼女と同じく世をはかなみ尼になった遊女の頭(かしら)と語り合い、心を通わした後、厳島へと旅立って行ったのだ。
現在、町の真ん中に「鞆の浦歴史民俗資料館」が建つ小高い丘がある。丘の南すそをバスが通るのがやっとの広さの通りが走っている。鎌倉時代、港はこの通りの辺りまで迫っており、通りの北側が町の中心部だった、といわれている。

西町/御舟宿いろは前 posted by (C)鳶眼
※この通りまで海だったとされている。
そして、江戸時代の遊女はそれまでとはちがって幕藩権力の公認のもとに遊女屋が置かれ、厳しい統制下で管理されていた。鞆の港の有磯町の遊郭の由来については、寛永末年(1644)、伊予国の住人宮内がここで遊女を抱えたことに始まると伝えられるが、明確な年限を記した文書はない。元和・寛永期には鞆遊女屋の公認がおこなわれていたようで、阿弥陀寺の釣鐘には承応元年(1652)奈良屋の寄進が刻まれている。当時、既に相当の資力を持っていたことを示している。

心光山阿彌陀寺 posted by (C)鳶眼
【江戸時代の遊女屋「四軒屋」】
当初は「四軒屋」呼ばれた(奈良屋・広嶋屋・黒格子屋・吉野家)が、黒格子屋・吉野家は比較的早く潰れ、元禄(1688-1704)以後の鞆港の発展に伴って姫路屋と福島屋に入れ替わった。この四軒の遊女屋は「株」として公認を受け、轡(廓)屋と呼ばれてその後の元禄・享保以降の揚屋とは区別されている。
元禄13年(1700)の鞆町検地帳に残る四軒屋の記録から規模がうかがえる。
◎奈良屋
屋敷面積/2畝18歩
間口x奥行き/6間4尺x11間4尺
◎広嶋屋
屋敷面積/1畝26歩
間口x奥行き/6間1尺x9間5尺
◎黒格子屋
屋敷面積/1畝6歩
間口x奥行き/8間5尺x4間1尺
◎吉野屋
屋敷面積/0畝26歩
間口x奥行き/2間3尺x10間3尺
奈良屋が一番の旧家で遊女の数50人、他の店では20~30人といわれている。
出島勤務のオランダ人ケンぺルは元禄4年(1691)、「江戸参府紀行」にも鞆遊女屋の記述が残っており、
また、寛政年間(1789-1800)成立の「諸国遊所見立角力表」には、大阪・江戸・京都に次いで「備後有磯町」の名前で播磨室津と並び前頭に名前を連ねている。
遊女屋は商家のなかでも賎職とみなされ、資力があっても町役にはなれなかった。また治安上、他の地域とは木戸による境界が設けられ、「道越町定め」として安永6年(1777)、有磯町に対し15ケ条の法度が公布された。これが現在の道越町の名前の由来。元禄以降に増加してきた揚屋への遊女派遣も株内4軒からの出店の型がとられた。遊女の扱いは親の納得の上の年季売りなど、人身売買によるものだけに、仕事初め時の役人への届出等、身元確認には厳しい制約があった。
【遊女のランク】
◎傾城(けいせい)
◎芸子(げいこ)
◎禿(かむろ)
祇園社祭礼等の行事のある期間は、遊女不足により現在の呉・御手洗から応援を求めたりしたそうだ。
※傾城(けいせい)/遊女。近世では特に太夫・天神など上級の遊女をさす。
※芸子(げいこ)/酒席に侍って各種の芸を披露し、座の取持ちを行う女子のことであり、太夫遊びが下火となった江戸時代中期ごろから盛んになった職業の一つである。
※禿/遊郭に住み込む幼女のことをかむろと呼んだ。8歳頃に遊郭に売られてきた女子や遊女の産んだ娘が該当する。
【遊郭の衰退】
総じて幕末に衰退。名門奈良屋も天保7年(1836)には経営不振に陥り、「女郎芸子」を買うために家屋敷・家財道具・衣装・布団・蚊帳にまで抵当にいれて銀22貫目を借入れ、五ヵ年間毎月銀300目ずつ返済契約をおこなったと言われている。
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鞆の浦では比較的資料が豊富に残されている。
【鞆の浦遊女の起源】
古くは神功皇后(じんぐうこうごう)の伝説に結びつけられたり「平家物語」「太平記」に依拠する平家の上臈に求めたりしているが、14世紀初頭の「とはずがたり」にも鞆の遊女の存在が語られている。
乾元元年(1302年)9月のこと、後深草院二条という名門貴族出身の尼姿の女性。45歳になった彼女は信仰にすがるため厳島神社へ参拝する途中、鞆の浦に立ち寄った。まだ若い頃の美しさが残り、14歳で後深草上皇の側室になったが、やがて他の側室にねたまれ御所から追放され、出家して尼に・・・と数奇な運命をたどっていた。のちの日記風自伝文学の傑作『とはずがたり』を著者だ。
港には交易、潮待ちのために次々と船が出入りしていた。町は今より平地が狭く、港のすぐ北側にある小高い丘のすそを取り囲むように広がり、港と丘の間には船問屋や宿屋、商家がずらり。丘の北側には創建間もない金宝寺や小松寺、静観寺が海に面して並び、民家も軒を連ねていたようだ。
宿屋は船乗りたちでにぎわい、商家には当時地方では珍しかった絵の具など都からもたらされた品々も並び、客は三次地方など遠方からも訪れていた。交易で潤った町の有力者たちは宗教活動に力を入れており、鞆右衛門平為重という人が備前・西大寺(岡山市)に経を収めたり、善光寺(長野市)の本尊制作のために奔走する者もいたことなどが分かっている。そんな活気あふれる町の中で後深草院二条を引き付けたのは、意外にも港のすぐ沖に浮かぶ大可島でひっそりと暮らす遊女たちだった。自身のつらい身の上と重ね合わせたのだろうか。二条は彼女と同じく世をはかなみ尼になった遊女の頭(かしら)と語り合い、心を通わした後、厳島へと旅立って行ったのだ。
現在、町の真ん中に「鞆の浦歴史民俗資料館」が建つ小高い丘がある。丘の南すそをバスが通るのがやっとの広さの通りが走っている。鎌倉時代、港はこの通りの辺りまで迫っており、通りの北側が町の中心部だった、といわれている。

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※この通りまで海だったとされている。
そして、江戸時代の遊女はそれまでとはちがって幕藩権力の公認のもとに遊女屋が置かれ、厳しい統制下で管理されていた。鞆の港の有磯町の遊郭の由来については、寛永末年(1644)、伊予国の住人宮内がここで遊女を抱えたことに始まると伝えられるが、明確な年限を記した文書はない。元和・寛永期には鞆遊女屋の公認がおこなわれていたようで、阿弥陀寺の釣鐘には承応元年(1652)奈良屋の寄進が刻まれている。当時、既に相当の資力を持っていたことを示している。

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【江戸時代の遊女屋「四軒屋」】
当初は「四軒屋」呼ばれた(奈良屋・広嶋屋・黒格子屋・吉野家)が、黒格子屋・吉野家は比較的早く潰れ、元禄(1688-1704)以後の鞆港の発展に伴って姫路屋と福島屋に入れ替わった。この四軒の遊女屋は「株」として公認を受け、轡(廓)屋と呼ばれてその後の元禄・享保以降の揚屋とは区別されている。
元禄13年(1700)の鞆町検地帳に残る四軒屋の記録から規模がうかがえる。
◎奈良屋
屋敷面積/2畝18歩
間口x奥行き/6間4尺x11間4尺
◎広嶋屋
屋敷面積/1畝26歩
間口x奥行き/6間1尺x9間5尺
◎黒格子屋
屋敷面積/1畝6歩
間口x奥行き/8間5尺x4間1尺
◎吉野屋
屋敷面積/0畝26歩
間口x奥行き/2間3尺x10間3尺
奈良屋が一番の旧家で遊女の数50人、他の店では20~30人といわれている。
出島勤務のオランダ人ケンぺルは元禄4年(1691)、「江戸参府紀行」にも鞆遊女屋の記述が残っており、
また、寛政年間(1789-1800)成立の「諸国遊所見立角力表」には、大阪・江戸・京都に次いで「備後有磯町」の名前で播磨室津と並び前頭に名前を連ねている。
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※傾城(けいせい)/遊女。近世では特に太夫・天神など上級の遊女をさす。
※芸子(げいこ)/酒席に侍って各種の芸を披露し、座の取持ちを行う女子のことであり、太夫遊びが下火となった江戸時代中期ごろから盛んになった職業の一つである。
※禿/遊郭に住み込む幼女のことをかむろと呼んだ。8歳頃に遊郭に売られてきた女子や遊女の産んだ娘が該当する。
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